人の痛み

人の痛みのわかる人に、なりましょう。とは よく言うが 
言うがやすし 人の痛みほど 実は わかりにくいものはない。
 
同居の91才のおババさまは 血圧240あっても 薬も飲まないし 
熱が38度あっても からだの浄化作用だから と 
病院にも行かないで自然療法と 神様の 気功治療に頼ってきた。

が、自分の からだの声を よく聞いているぶん、
毎日どこかしら痛いし 具合が悪い。

この不定愁訴は 20年以上続く 毎日のことなので、
私は「ハイハイ、またかまってほしい病ね」
とは もちろん言わないが

「低気圧が近づいているからね、膝も痛むんだよ」 とか
本人も ナットクして安心しそうな 原因を 提示して 軽く流してしまう。

「そうだね、低気圧が 通る時は 病んでる人は 苦しむよねぇ」と 
食いついてくれればいいが 

たいていは 私の提示は 即行却下されて
「あんたには 人の痛みは わからない! 年寄りの苦しみは なってみないと わからない!」
と 叱られる。

私なりに 痛みの引き出しを 探ってみるが
ぎっくり腰の あの起きるのに 40分かかった 激痛の中でも 
おババさまに しれると 「腰痛は 先祖の戒告だ!」 とか 言われるので、
なんでもないふりして おババさまの 座卓に 食事を運んだり
プランターの土を運んでいたからなぁ・・・・
痛さは 経験してても 安静にしてられる状況は まったくなかったから
自分の痛みにさえ 鈍感になっている というか・・・・・

毎日 一緒にいる家族は 日々の細かい変化を 見守っていることが 大きな役割で、
かまってほしい病に 全面的につきあうと こっちの生活と 精神が ヤラレる。

客観的にみて 大丈夫と わかる時は、 本人のマイナス志向を
「お花でも 買い物に行く?」と 意欲の出る プラス志向に 持ち上げるしかない。

それって 病人本人の 痛みと不安からすると
たぶん ちょっと(いや、かなり) 冷たく感じるのだと思う。
 
「そんなことできる 状態だと 思ってるのか。 
もう いつ お迎えが来てもいいと 思ってるのに!」

(いや〜 ふつうこの年で 3回も入院続いたら かなり 弱ったり
ボケたりするが それが まったくないのは 驚異的だ!
お迎えは 当分来そうにないのでは?) とは もちろん言わないが・・・・

入院中に看護師さんから 
「いやあ おばあちゃん 91と思えない! この病院で 一番元気で若い!
 受け答えもトントンして どうやったら そういられるの?」と
みんなから言われたのは 超ごきげん。 素直に プラスに浮上した。

 う〜ん いつも 素直に 乗ってくれれば 私が そばにいる意味があるんだけどねぇ。
元気の素は 素直と感謝だと 思うけど、
これが 家族だと なぜか けっこう ねじれる・・・・

人の痛みがわからない人間だ とか 
あんたは優しいふりして 根本的には ちがう人間だ。
とか 面と向かって言われると けっこうイタイが
まあ 当たってはいる。 私は けっこう 事務的で 達観しちゃう方だから。
  
そういえば 亡くなった生みの母も 70を越えて リュウマチが出た時は
水道の栓もひねれない、 洗濯バサミも つまめない、
いつ 途切れるともわからない この痛みの連続ほど 苦しいものはない・・・・
と 電話で グチグチ言ってきた。

母は ふだんはカラっとして 人の痛みも あまり意に介しないようなところがあり、
私が 初めてのお産で 実家に戻って 産気づいた朝も
「あら 痛いの? バカねぇ〜」と 笑われたことがあり、
初めて産気づいてる娘に 「バカねぇ〜は ないだろー」 と 私は 切なかった。(笑)

一時が万事 そんな感じで 人のことは 割合 バッサリ クールに扱う母だったのに、
なぜか自分になると 痛くてめそめそ泣く母に 私はちょっとうろたえた。

そして 一度しか 助けに行ってあげなかった。

一度 見回りに行った時、
古新聞紙を それ用の袋に入れることができないと グズグズ言うので、
パッパと おおざっぱに入れてたら 
「そんな入れ方じゃダメよ〜」と 横でグチグチ言う。

「自分で できないから 人にやってもらうのに、
そんな細かいことで グチグチ言ってたら 誰もやってくれないよ!」と
私は イライラした。

こんなに 痛くて こんなに助けを求めてる 目の前の母に対しても
娘って(息子もかな?) なぜか不思議に イライラするのだ。

姑にあたる 同居のおババさまには そんなこと言ったことないから
実の母娘の 直球は けっこう からだに来る。

一度引き受けると どっとなだれてきそうな気がして、
頼れないと 思わせた方がいいな と 思ったのかどうか・・・・・

その後 一度も 行ってあげなかった。 

ある日 この痛みから 逃れられるなら ワラをもすがる思いだと、
リウマチの 新薬の治験を受けると 母から 電話が来た。

「新薬なんて どんな 副作用が出るか わからないから やめなよ。
治験って 人体実験でしょう?」
という 私の言葉はきかずに 母は大学病院に 一人で 入院した。

「行こうか?」
「いや 大丈夫。」

いつもの クールな母に戻っていたので なんだか安心して、
私は 一度も 見舞いに 行かなかった。

その新薬のおかげで 母は ずいぶん 痛みから解放された。

今思えば あの 痛みを 訴えていた時に もっと行ってあげればよかったと 思う。
最期に 脳の 悪性リンパ腫で 入院した時は
入院と同時に 言葉を失ったので、
痛いとも 苦しいとも こうしてほしい とも
言えないまま 死んだから。
 
体験したことない 人の痛みは 本当にわかりにくい。
そばにいて 黙って 手を当てて あげるだけで 
たぶん じゅうぶんなんだと 思う。 
| おばんの病みつき | 23:07 | comments(2) | trackbacks(0) |

傾聴

おばんの病みつき、 笑えるネタもとを失って 萎えてはいるものの
病みつきが終わったわけでも 悲嘆にくれているわけでも ありません。

父の告別式の翌日は 独居老人の住まいに堆積した 車2台分のゴミを捨て
弟と 税理士さんに 今後の相談をして 
家に戻って次の日から毎日 一日3回の 病院通いが 続いています。

通夜の朝に 腎宇炎で オババさまが 再入院したからです。

病院は チャリでも5分の 近いところにあるせいで、
朝は 新聞と 熱いお茶をポットに入れて 果物や そら豆をゆでたりして持って行き
洗濯物をもらって 洗濯をして 昼の食事には 
ピーマンとじゃこの炒めたのや いんげんのおかか煮や かぶときゅりの浅漬けや
ちょっと食欲をそそるようなものを作っていき、
食事の間は そばにいて いつものように 傾聴してマス。 

 「 おつかれさま〜 葬式大変だったね〜。 
おじいちゃんのことが ショックでショックで 私はもう具合悪くなっちゃって・・・」
・・・・・・・・・・(ス すみません・・・・・・)・・・・・・・・
 
 「誰でも行く道 来る道だからねぇ。 親を見送ると ほっとするよね〜」
・・・・・・・(ハ はあ・・・・まだ大御所が残っているので ほっとできませんが・・・)
 
 「男は 寂しがりやだから 口には出さなくても 誰かにそばにいてほしいのよ〜。
おじいちゃんは一人でほっとかれて ほんとにカワイソウだった。(涙)
私なら そんなことは とてもできない(涙)・・・・
・・・・・ (ア あのぉ・・・・事情があって ほっといたんですが・・・・)・・・・・

「お宅のお母さんが ほったらかして 慣らしておいたのが よかったよねぇ〜」
・・・・・・・・(た、たしかに・・・・・アハハ)・・・・・・・

「後は 弟さんに任せて ヨメに出た お姉さんがしゃしゃり出ちゃ ダメだよ。
・・・・・(ハ ハイ 私だって しゃしゃり出たくて出てるわけでは・・・・)

「 トールちゃんのとこも 子どもたちがちょうど受験だから 
東京の大学 高校受けて仙台引き上げて 引越してくればいいよ。 
東大受けるんでしょ・・・・・・
・・・・・・・(サ さあ・・・・オババさまが そこまで しゃしゃり出なくても・・・笑)

・・・・は 場面緘黙(  )内は 思っちゃいるけど 言えません。(笑)
おババさまは 沈黙が苦手のタイプなので、
私が黙って新聞読んでいると 火に油を注ぐように さらにしゃべりまくる。

私は ニコニコ笑って 「カンさん 張り切ってるね。 若返った感じ〜〜♪」
とか話題変えてるので 別に険悪なムードには ならないのですが(笑)

2週間の 入院で 体力気力に 衰えが出た気配は まったくなく
いやはや なぜ今 このタイミングで そのご発言?は
けっこう 臓腑に浸みて どっと疲れが出マス。  トホホ

午後はちょっと時間の幅があるので、
入院してる間くらいのんびりすれば? と みなさんに言われるのですが、
枝豆植えたり とうもろこし植えたり、ババの布団を干したり
葬儀で なかなか行けなかった 調子の悪い お友だちのところまで ダッシュで 見舞ったり
野菜料理の ケータリングを 作ったり、
 
加えて 通夜に来ていただいて 話もできなかった方々に お礼の電話をしたり、
残務整理をやってくれてる弟から 問い合わせが来るので 父の書類を探したり、
位牌の注文したり 咲き終わったバラの枝を切ったり、梅ジュースを漬けたり、
テンテコテンテコ・・・・・(昼寝も一度もしなかったなぁ・・・・)

昨日 無事に退院になったので
さらにパワーアップした おババさまと
斜度45度引いて(笑) マンツーマン傾聴と
3回の 管理栄養(食事作り)に 邁進します。 トホホ

でも まあ 91才の彼女の 健康を守っているのは、
私と娘たちの 参勤交代の 傾聴のおかげだ!と 自負しているし、
父の例を見ても 
オーディエンスを確保している老人は元気です。 (ホントだよ)

傾聴も 月に2回くらいなら 
老人の生きる知恵や 歴史を学べて 活力になるんですけどねぇ。
(実際 おババさまの話は 歯切れも回転もよいし、
 私のお友だちの活力源になっているのですが)

毎日3回傾聴してると 話に含まれる微量毒の 堆積濃度が 限界値を超えて、
けっこう こちらの 体調を 侵すんですねぇ・・・・・・・

良薬は 口に苦し 毒薬は からだに悪し 
   デス。 


そうそう 

たまに部屋にきてだいじょうぶですか? 
   と声をだけるだけじゃ 看病じゃない!

というおババさまの 正しい看病の仕方については 次の機会にね。  
| おばんの病みつき | 08:55 | comments(2) | trackbacks(0) |

韓国から 追悼の辞 

父の葬儀には 100基の生花が届き、(ありがとうございました!)
大して花愛ずる君でもなかったが、たくさんの花に囲まれて、嬉しそうに見えた。



韓国からも 詩人の金芝河さん、画家の洪成潭さんはじめ、
光州ビエンナーレ理事長の朴光泰さん、光州5・18記念財団 尹廣張さん他
10基の生花が届き、父と韓国との深い結びつきを 改めて知らされた。

通夜の夜 韓国から韓国国立現代美術館元館長 金潤洙(キム・ユンス)さん、
陶芸家金九漢(キム・クーハン)美術家安星金(アン・ソングム)さんが
駆けつけてくださり、葬儀に参列、骨も拾っていただいた。
キム・ユンスさんの 追悼の言葉 古川美佳さんの翻訳で(下の紹介も)公開します。


追 悼 の 辞

5月26日午後、針生先生ご逝去の悲報に接し、
衝撃と痛恨の思いを禁じえませんでした。
平素、先生を尊敬してきた 韓国の進歩的美術人の哀悼の意を
私が代わってお伝えし、ご霊前に捧げます。

針生先生は70年代韓国の 過酷で陰鬱な時代に
軍事独裁政権によって強行された金大中(キム・デジュン)前大統領の拉致事件に対して、
日本の良心的な知識人とともに抗議し釈放運動に参加され、
また金芝河(キム・ジハ)詩人の救命運動でも活躍されました。

また80年「光州民衆抗争」以来、韓国の民主化運動を支持し声援をおしみませんでした。
先生は90年代半ばに「光州ビエンナーレ」が創設されるや、初めて韓国にいらっしゃり、
その後、「光州ビエンナーレ」は欠かさず毎回参観され、さまざまな助言をくださいました。
特に2000年第3回「光州ビエンナーレ」で先生が提案された<芸術と人権>特別展の
キュレーターを自ら引き受けられることで、
「光州民衆抗争」の意味をより一層高めたと賞賛されました。

先生は韓国の進歩的美術団体が主催する各種の会議に招待され、欠かさず出席し、
共に討論し、意見を述べられ、
終わった後は、大衆食堂に行って 若者たちとも 気兼ねなく交わられました。

針生先生はJAALAを率いて、
韓国の美術人に第3世界に対する認識と、第3 世界との文化交流
及び連帯の重要性を目覚めさせてくださいました。
そして韓国人もこの機構と共に活動を行い、互いに助けあいました。

先生は特に、70年代後半から韓国の民主化運動と呼応した美術運動「民衆美術」に
深い関心をもって評論を書かれ、
韓国の若い美術家たちに 多くの教えを与えてくださった師匠であり 友であり、
真の知識人の象徴として尊敬されてきたのです。

これから、「光州ビエンナーレ」や 韓国の進歩的美術人が主催する会議に
先生のお姿を見ることができなくなってしまい、
その空席はあまりにも大きく感じられるでしょう。

針生先生、たとえ逝ってしまったとしても、
先生は 韓国の進歩的美術人の胸の中で長く生き続けるでしょう。

先生、いつも肩にかけて通っていらした カバンをもう降ろされて、
どうぞ極楽往生してください!


           2010年6月1日 韓国の進歩的美術人を代表して 金潤洙(キム・ユンス)
                         (翻訳:古川美佳/韓国美術文化研究)
                             


 金潤洙(キム・ユンス)プロフィール
1936年生まれ
1961年 ソウル大学美学科卒業
1968〜75年 ソウル大学講師
1973年〜76年 梨花女子大学専任講師
1975年 反独裁民主化運動に参加し投獄および大学より強制解職
1980年 大学に復帰するが、新軍部反対民主化運動で再度強制解職
1983〜 現在『創作と批評』発行人
1985〜 復職後、大学で講義、一方で民族民衆美術運動を主導
2001年 嶺南大学で定年退職、名誉教授
2003年〜08年 韓国国立現代美術館館長
現在    民族美術人協会顧問など

*針生一郎と韓国(民衆美術)についての最近の関わりについては、以下参照。

     『世界』2000年10月号(岩波書店)
     「現実のタブーに挑戦する民衆芸術」
   ―第三回光州ビエンナーレ・「芸術と人権」展をめぐって
 座談会:針生一郎/金潤洙/富山妙子

     『世界』2007年11月号(岩波書店)
       「民主化運動、その始まりには文化があった」
―金潤洙 韓国国立現代美術館長に聞く/聞き手・文=古川美佳



附記
重いカバンと 愛用の帽子も 棺に入れた。

大浦信行監督の映画 『日本心中』の中で
一郎が 光州の白っぽい露地を歩く シュールな映像が 印象的だった。

韓国の 風景の中を歩きながら 何を思ったか。 
こうしてすべては あらかじめ 繋がっていたのか。(笑)
また一つ 宿題をもらった気分で
玄界灘の向こう 半島へ また 駆り立てられる。

















| おばんの病みつき | 08:35 | comments(0) | trackbacks(0) |

弔辞

父の妹は 父の同級生と結婚したので、
5年前の おじの葬儀の時も 父とおじの同級生が 弔辞を読んでくださった。
それがとてもよかったので ぜひお願いしたらと 叔父と叔母が 頼んでくれた。

告別式の朝 10分で用意してきましたという南條さんに
「5分でお願いします。縮められますか?」と失礼なムチャぶり。(すみませんでした!汗)
もとNHK勤務という 南條さんは マイクの前でスマートに縮めてくださった。
(ありがとうございました!)
参列した 私の友人の息子(20代)が 昭和史の授業みたいだったと感動していたという。
読まれなかった部分も含め 弔辞を紹介します。



弔辞

 今を遡ること六十八年、昭和一七年から二十年までの三年間、
奥州仙台、旧制第二高等学校において、
三年間の青春を共にした同級生の一人として、
針生一郎君にお別れの言葉を申しあげます。

我らのクラスは文科二組、ドイツ語を第一外国語とした
故に二高ではこれを「独法」という。

針生君、君は嘗て「俺は仙台一中を四年修了で入学し、
しかも十二月生まれだから 独法で一番若いんだ」 と威張っていたではないか。
その君に 俺が弔辞を述べるというのは
順序が逆ではないか?と言いたいところだ。

しかし顧みるとお互いに齢すでに八十余年、
そろそろ納まりどころを考えて 当然の年である。
今はただ、安らかにお休み下さい、と申上げたい。

我々が生まれたのは大正一四年、その年齢は昭和の年と重なる。
現在平成二二年は昭和で数えれば 昭和八五年、
そして我々は八五歳になる。

 かくて我々の人生は昭和の歴史とぴったり重なっている。
我々が小学校に入った昭和六年、満州事変がはじまった。
中学に入った昭和一二年には 支那事変。
そして二高在学の昭和一七〜一九年は 太平洋戦争の真っただ中であった。

 戦時中は国家総動員体制が敷かれ、高等学校の就学年限は三年から二年半、
ついでに二年に短縮された。
更に文科生に対しては 学生の徴兵猶予が廃止された。
兵役年齢も二〇歳から一九歳に改められた。
学校教育も軍国主義一色に覆われ、
各学校には 現役将校が配属されて 軍事教練が必須科目となり、
授業時間も その半ばは農村や工場に 勤労動員された。
我々二高生も 県下各地の農村や陸軍工廠、造船所、飛行場造りなどに動員され
戦力増強に精一杯働いた。

 一方で高等学校の伝統である生徒会の活動についても、自治を認めず、
学校長以下の 報国団としての 組織替えを強制する動きがあり、
また、野球やテニス、バスケットなどの運動部は
敵性スポーツとして廃部を命じられた。

 こうした戦時体制の中、我が二高には 阿刀田令造という大校長がいて、
断固として 高等学校教育の自主性を堅持し、
生徒たちの自治を守ることに 渾身の努力・抵抗してくださった。
そして彼は 己の教育信条を 幾つかの名言として残している。

 農村は夢殿なり(農村勤労奉仕に出るにあたって)
 川は流れて月は流れず
 不惜身命 惜身命
 学校即兵営 学徒即兵

 こうした一見パラドックスを含んだ言葉の中に
戦時下の校長としての苦心が隠されていたのだと思う。

 我々が学業半ばにして兵営に赴くことが決まった日、彼は訓示の中で
「諸君、生きて帰って来い。」と強く我々に言った。
当時、学校長として 出征兵士に対して 斯く明言することは
どれだけの勇気の要ることだったろうか。

 旧制高校時代の人格形成において 教室の授業とともに 重要な意義をもっていたのが、
部生活及び 寮生活であった。阿刀田校長は これを芋の子教育といった。
針生君は この阿刀田校長に 私淑していたし、校長も 彼を可愛がっていた。

 彼は武道寮の住人で柔道部に属し、その腕は抜群であった。
昭和一七年、最後のインターハイが開かれたが、
一年生で柔道の選手に選ばれたのは 針生一人だったと聞いている。

また、彼は選ばれてボートの選手もつとめ、
さらに秋の寮祭劇では 主役も演じている。
斯くの如く 元気に任せて八面六臂の活躍をしていたが、
無理がたたって 肺結核を引き起こし 入院半年に及んだ。

 そこからが針生らしいところで、彼の打ち明け話によると、
彼は校長に 落第を希望する手紙を出したという。
そして、またこの校長も、この生徒は面白いと言って 落第を認めてしまった。
結果的に、我々は二年半で二高を追い出されたが、
彼は三年間の二高生活を 満喫している。

 この終盤の二高生活、そしてその後進んだ大学の生活の間に、
昭和二〇年、日本の敗戦がある。
この期間、彼はどれほどの物を考え 苦悩したことか。

数年にわたって 古神道からマルクシズムまで
ぎりぎりの思想の遍歴があったはずである。
その時期の苦悩の思索が
後年の学者、評論家、針生一郎を作り上げたものと思う。

 我々二高一九年の独法生は、
戦争中に共にシュトルム・ウント・ドラングの時代を経験しているゆえか、
団結が強く、友情の繋がりが濃い。

卒業後六〇年余年を経た今でも 
隔月、学士会館に集まっては 昼食を共にしている。
針生君は忙しくて滅多に現れない方だが、
さる四月七日、珍しく顔を出した。
そして中学以来の彼の来し方について 能弁に語っていた。

今にして思うと あれが君の我々に対する別れの言葉だったのだろうか。
あの日誰が こんなに早く別れが来ると思ったろうか。

 独法のクラスも四〇人の仲間のうち、戦死を含め
 君で二四人が天国に旅だったことになる。
独法会もそちらの方が 賑やかかもしれないな。

針生君、重ねてご冥福を祈る。
そちらの諸君に逢ったら よろしく伝えてくれたまえ。

平成二二年六月一日
第二高等学校 昭和一九年卒業独法生                   南條信郎

 

★今日6月6日(日)夜8:00〜 日曜美術館 長谷川りん二郎
 再放送に 針生一郎出ます。 先週見逃した方は ごらんください。  

★ 弟の葬儀挨拶は こちらに載っています。 
→ 針生徹の世祓いhttp://harryblog.exblog.jp/
 (兄妹でゴリ押ししあってて 失笑ものですが)
| おばんの病みつき | 08:41 | comments(1) | trackbacks(0) |

出逢った意味を 

そもそも構造が気にくわない。

男というものは なんの権利あって
3人の女(母親、妻、娘、あげくは孫まで)の人生の
かくも膨大な時間を奪って 平然と居るのか。

ずっとそう思ってきたので、
父が亡くなった今も 父と娘のお決まりの構図で
父がお世話になりましたと 頭を下げる役回りは ほんとうは居心地悪い。 

2005年3月に 失語認知不能の母を見た時
え? この順番? と 私は へたれ込んだ。 
この順番でなければ 私の性分からいって 当然やるであろうことができない 物理的制約は
結局 母にも父にも 真正面から向き合わずに済ます エクスキューズとして、
最後まで 有効だった。 

「じゃ あとは頼むね♪」とさえも言わず
まんまと父を置いて先だった 極楽トンボのお嬢様だった母。
でも 置いていかれた父とつきあってみれば、
母は脳がイカレて 幸せだったと思えなくもない。
私の方が 何度も イカレそうになった。

親世代の 豪放磊落の後始末は 確実に 私たち き真面目世代を 病みに追い込む。  

私のエディター的直感で スタートさせた病みつきネタは
誰にも親があり 泣き笑いのストーリーがあるので、
少しは共感を持って読んでいただけるのではと思って始めたので
巨人伝説を 煽るつもりは毛頭なかったが、
父の最期の細かい経緯は 姉のブログで と喪主の弟が 挨拶したこともあって、
連日のアクセス600突破に 少々 びびっている。
こちらは一番笑えるネタ元を失って、
ちっ 企画がコケると 萎えてるというのに。

とはいえ 父の葬儀に際しては、本当にたくさんの方々のお力を借りたし、
不慣れなことで失礼もたくさんあったと思うので、
この場を借りて お礼とお詫びを 申しあげたい。

特に通夜は、まったく読めない会葬人数をどう捌くかに
ひっちゃき一所懸命になってた 祭場進行係のおかげで、
まるでモナリザを観る行列のような 喧噪と押し出しで
故人と各人との 計り知れない豊かな時間の終止符には
失礼千万だったことを 心苦しく思っている。

告別式は、かなりのブーイングを申し入れたので、少しはカームダウン。
納棺まで びっくりするほどたくさんの方が残ってくださり 
会場いっぱいのお花と 原稿用紙と えんぴつと 
死ぬまでやめなかった煙草わかばを 1カートン入れて 見送った。

誰にも親があり 出逢った意味と 向きあわないで来たツケは ここからがスタートだ。 
告別式は 出逢った意味を考える 出立の式だと 私は思っている。

告別式にお願いした弔辞は そういう意味で どれも私の臓腑に深く浸みたし、
通夜のベルトコンベアで 押し出されてしまったたくさんの方々や
美術界のみならず 表現や 文化 発信にかかわる たくさんの運動体の方々
若い人たちに 聞いてほしかったなぁと 心から残念に思っている。

そこで公開メディアとしては 不適切と承知の上で
(私の歯ぎしり枕じゃ ずいぶん失礼だと思いつつ)
ご本人たちの許可を得て ここに掲載させていただく。

告別式では 仙台旧制高等学校同級生の 南條信郎さんがトップバッターで 父の青春時代を
美術家の 岡乾二郎さんが 二番目に
韓国から駆けつけてくれた 元韓国現代美術館館長 キム・ヨンスさんが 最後に
弔辞を読んでくださったが
入力の都合で 岡乾二郎さんの弔辞を 先に公開する。 

 

弔詞

針生一郎先生。
申し訳ありません。針生先生、たったひとりの存在に頼りすぎてきた、
わたしたちはみな、先生にあやまらなければなりません。
とうとう、この日がきてしまいました。

誰もがいうように、針生一郎先生こそが美術評論家でした。
反権力の美術評論家、社会派の美術評論家、そして最後の美術評論家。
針生先生はずっとそう呼ばれてきました。

三十年以上も前に僕が芸術の世界に興味を持ちはじめたときに
針生先生はすでにそう呼ばれていました。
そのころ針生先生は、すでに現場から退役すると宣言されていたのに、決してそうはならなかった。
針生先生に代わる人はどこにもいないし、今後も現れることがないだろう。
最後で最大の美術評論家。
けれど、こんな台詞を、われわれはずっと弁解にしてきたのです。

針生先生が存在する。針生先生に代わる人がいない、と、
すべての任を針生先生ひとりに押しつけ、
三十年以上もの間、目の前で起こりつつある出来事をやりすごしてきたのです。

批評は、いかなる作品、事象を対象に論じるときでも、それが関係する利害、権力と距離をもち、
それを切断した上でなされなければならない。

ゆえに批評には 必然的に社会への批判が含まれる。
言論が自律するとはそういうことである。
それが評論の原則であり条件である。

けれど、いつからかこういう弁は 無骨であり野暮であると いまでは敬遠されます。
煩わしい事など忘れて スマートに文化を楽しめばいいと。
距離をもつことは 決して無縁であることではない、
無縁であると振る舞うことこそ権力、利害、政治に関わるための都合のよい身振りです。

だから、いくら忘れたふりをしても事件は起こりつづけ、歴史が停止したことはない。
どんな事件も厄介であるし面倒なものです。

誰もが憧れる芸術ゆえに、かえって精神と感性に与える負担は計り知れない。
こんなときに無骨だと遠ざけられていた評論が ご都合よく召還されます。

こんな風に、ずっと何十年もの間、五十年以上も最後の評論家と、都合よく呼びながら、
針生先生の存在に わたしたちは頼ってきたのです。

心身の大変な消耗を伴うと知りながら、自分たちは敬遠し、その大変な役割をいつも、
針生先生に押しつけてきたのです。

先生は精神も体力も超人的にタフだから大丈夫だろう、いつまでもそこに存在しつづける、
と勝手に信じこんで。

一九八二年の事ですが、針生一郎、夏木さん夫妻が逗留していたパリのゲールサック街の
ポール・ヴァレリーが住んでいた伝説のアパートを紹介していただき、
針生先生の階下の部屋で過ごせたことは、ぼくら夫婦の重要な出発点として刻印されています。

深夜に室内を歩き回る、おそらく針生先生の足音と 夏木さんの打つタイプの音。
姿は見えないけれど、機械のように回転しつづける思考の音が 聞こえるようでした。

日中、カフェやレストランで、どういうわけか肝心な話になると
必ず下を向いて居眠りされていたのも当然です。

その強い印象によって、その存在感によって、
また千絵さんが 高校以来の友人であったため 多少は身近な存在として、
ぼくはずっと 針生先生を理解しているものだと 勘違いしていました。
今、その時の先生と同じ年になって、
まったく 何も自分が理解していなかったと気づき 愕然とします。

針生先生はいったい、どのように思考し、世界を捉えていたのか。

針生先生ひとりの存在によって、かろうじて束ねることができていた世界の広がり、
多数性がどれほどのものだったかは、じき、はっきりするでしょう。
すべて、ちりぢりに分解してしまうはずだから。

美術批評も現代美術も戦後美術も。
美術界とよばれるもの自体が無数の世俗的関係に分解してしまうでしょう。

それが再び結びつけられることは もうないかもしれない。
針生先生が 最後の美術評論家だった以上は。

わたしたちに残されたのは、針生先生はなぜ、
このような重みをひとりで支えることができたのか、
という問いだけです。

針生先生は、戦後の出発において、抵抗の拠点として、
主体性などはまったく意味がないと自覚した、と言われました。
むしろ抵抗とは物質、つまり主体によってはコントロールできない身体と、
そこに付随する感性によってこそ可能なのだと。

だから文学よりも美術批評に力を入れるようになったと。
抵抗は主体でも意識でもなく、主体すらも逆らえない物質、身体こそが行なう。
すなわち物質に準ずる。

それが針生先生の思想であり、日常の実践そのものだった。

千絵さんの言葉を引用します。

あらゆる 進言や忠告を拒否し、
周囲のやきもきや マネージを完全に スルーし、
ダブルブックも 失念も 遅刻も 無頓着。
禁忌を禁忌と思わず、
失禁を失とも禁とも感じず、
病気を病気と思い悩む感知力もなく、
最期まで 現役で仕事に出かけた。

無趣味の力という名言で、針生先生の批評原理の核心を述べてもいる千絵さんが、
感知力がない、あるいは鈍感力と、辛辣な言葉で述べるのは、褒め言葉です。
(と僕は受け取ります)

病気を病気と思い悩むことのない感知力、つまり病気を受け入れてしまう力。
これはたしかに通常の人間には到底まねができない。

けれども、そんな感知力がなかったら、
あんなにも大きな重圧を背負うこともできなかったはずです。
あれほどの混沌、錯雑した広がりを受け入れることはできなかったはずです。

くよくよ思い悩む、主体性など捨ててしまえば、
気に病むような病気も悪も存在しない。

針生先生の言葉でいえば、それこそがカウンターカルチャーの本質だった。

そうやってすべてを受け入れ、そして最後まで現役で仕事をしつづける。
どこにでも出かけていく。

ぼくにそれを見習うことができるかどうか。
けれど、なんとか少しでも、近づけるよう残りの人生をかけてみます。

針生先生、ほんとうにありがとうございました。
どうか安からかにお休みください。



平成二十二年六月一日                     岡乾二郎






| おばんの病みつき | 21:25 | comments(4) | trackbacks(0) |

不治の病

問題は 病気ではなく 性格です。

もう20年近く前になるが、
父が初めて 都立駒込病院に 不整脈のカテーテル検査で入院した時
なぜか 私が医者に呼ばれて そう言われた。
 
なんのことを言われたのか 今になっては思い出せないが
ともかく 医者の言うことを聞いていただかないと 病院にいる意味はありません。 みたいな
たばこを吸うことに関する イエローカード(注意勧告)だったような 気がする。

当時は ドクハラという言葉も たぶん知らなかったと思うが、
知っていたとしても 医者に同意する気分の方が 私には 強かった。(笑)

その後 1999年に父は 
もとベ平連事務局長 吉川勇一さんの『いい人はガンになる』出版記念会に出席した次の日
肺ガンの疑いで新宿の東京医大病院に入院し
肺ガンの小細胞癌ステージ4bで 手術も放射線治療もできませんと 宣告を受けた。
 
5月に第1回の抗ガン剤治療したが
その日に たばこが吸いたいと 病院を脱走。(爆)

新宿駅の 喫茶店まで出かけて 具合悪くなり(当たり前だ!)
父は集中治療室に ぶちこまれた。
連休に仙台から見舞いに来た 弟一家は 
ガラス越しに 戦力外通告受けた ジイチャンを見ることしか 許されなかった。
 
しかし その煙幕ショック療法が 功を奏したのか
ガン細胞が 増殖する環境があまりに悪いと 退散したのか 
肺ガンの その後の経過は良好。 11年生き延びている。 
やっぱり 「いい人」じゃなかったわけだ。

同じ 東京医大病院で 2003年12月に 心臓横の動脈瘤にステントを入れる手術をしたが、
その後の定期検査は 「もう来なくてよいと言われた」と言われたという。
2005年に 母が入院して 半年で亡くなったので、手がまわらずにいたが、
去年検査に行けとクリニックに言われて ひさびさ東京医大に行ったら
なんで こんなに放っておいたんだと叱られた。
「もう来なくてよいと言われた」のは 自己診断だったらしい。(爆)

その 去年8月の検査入院の時。
入院中は吸えないから置いてきたのかと思ったら たばこを忘れたと 苛立つ。
見舞いに行ってくれた私の友人が 愛飲のたばこ わかば を差し入れたが、
入院時の洋服を 私が洗濯に持ち帰ったために パジャマでの脱走は はばかられたのか
なんと 病室のベッドでたばこを吸ったらしい。(爆)

4人部屋は 煙にまかれ 病室の火災報知器が鳴って 大騒ぎ。
差し入れのタバコは 全部没収された。(笑)
よく レッドカードで 病院を 強制退去されなかったもんだ。

第一に 病気を 気に病む 能力が ない。
第二に 病院や 医者の進言、ルールにまったく従わない。
鈍感力!

「ちえさん、長崎八人兄妹物語の次は お父さんの 鈍感力について書いてよ〜。
病気と生きるのって ある意味そういう鈍感力が 大事なのかも。」
医療関係の著作が多い 友人の土本亜理子に言われたが、
「いや、あまりに普遍性がなくて 他の人には応用できないと思うよ。」
と 笑った。

検査の結果は 心臓横の動脈瘤が 6センチに肥大。
もうステントの追加も 開胸手術も 年齢的に危険。 治療のしようがない。

禁忌項目は
 たばこを吸わないこと。 
 重い荷物を持たないこと。 
 階段を登らないこと。
 遠くに出かけないこと。

それしか やってないようなことばかり(笑)だったが
担当の K医師は ハリウさんは若輩の僕が何を言っても 聞かないだろうから
自分の好きなように暮らして それで爆発したら もうしょうがないじゃないと 
達観していた。

3月の定期検査の時 あまりに喘鳴と ラッセルがひどいので
肺の検査も頼んだら 呼吸器外科に回され 
「たばこ吸ってるんですか? 言語道断です。
そういう方はうちの科では 診られません。」 
と キレる医者に

「僕はね〜 文筆業で 原稿を書かなきゃならんのだが
80才を過ぎたら、ちっとも 頭がまとまらなくて
そういう時には たばこを吸わなきゃ ダメなんだよ〜」と 語りだして
ポケットの たばこを 出そうとする始末。(笑)
さすがに それは はたいて、医者には なんとか頭を下げてお願いし 4月に検査。

肺気腫と 永年の喫煙による 慢性閉塞性肺疾患(COPD)と診断され、
これは 一種の老人病で つきあっていくしか たばこをやめる以外 治療はありません
と 薬も出なかった。

つまり つける薬もありません というわけだ。

思うに 人間最後は ビョーキならぬ 不治の病が 大きく左右する。

不治の病 つまり 自分の性格と気性、 そして絶対やめられない 病みつきだ。 
当人は 長年連れ添って 共存してきた 性格だから
それを治そうとか 戦おうとかいう発想は さらさらないが、
治療方法から 生活環境の整備まで 選択決定するのは この性格だから、
家族は 実はこの性格と 戦うことになる。

これは ビョーキより コワイ。 つける薬もないだけに 泣かされる。 

まあしかし 自分に置き換えても
やめろと言われると 俄然 馬力が出ちゃうし(笑)
自分を駆り立てる 内燃機関の始動が 最終的には 一番の免疫力アップだとしたら
不治の病=性格も 人間をやり続けるアクセルとしては 有効なのかもしれない。 

それが 父にはたばこであり 私にはお菓子と音楽である。 ってことか。(笑)  


と ここまで書いて 公開日時を 6月1日11時32分に設定して保存した
26日水曜日朝。

おババさまと朝茶をしていたら、11時14分。携帯に電話あり。
救急救命士からの電話だった。
玄関で 父が倒れているのを 宅配の人が見つけて 救急車を呼んでくれたらしい。

その前の週 ヘルパーさんの報告で 家に駆けつけた時、
呼吸があまりに苦しそうで 嚥下も不自由だったので
弟たちにもメールを回して 一郎ヤバイよ
シフトを組んで交替で見回るようにしよう、と
ヘルパーさんも 増やしてもらうように 手配した。

火曜日の夜中に 目が覚め ひどい下痢。
そういえば 母の時も 2日前に 自分がこんなになったと 胸騒ぎ。
夜中に 病院を調べ あれでは 酸欠になる。 酸素吸入だけでも してもらいたいと
19日水曜朝  新宿の東京医大病院に電話して 入院を頼んだが
地元の病院の方がよいと言われた。
ではしかたない、聖マリアンナ病院に連れてきてと
泊まってもらっていた娘のアヤカに頼んだが
父はアヤカの 断固説得に応じず。 

前立腺ガンの 注射に通っている 神田泌尿器科
痛風で通ってる 新百合ヶ丘クリニック
動脈瘤で通っている 新宿東京医大 
これ以上 病院を増やすのはイヤだという。

私はすでに電車に乗って向かっていたが、北千住で千代田線に乗り換える時に
気持ちはわかるが 痰がからんで 呼吸困難になった時に 救急車で運んでもらえる
近くの病院にカルテがあった方がよいよ!と 電話したが

たまに来て 色々やってくれても
だいたいにおいて 的はずれなことが多くて
はっきり言って迷惑なんだよ!
と 怒鳴られた。

ハア?  なぜ今 このタイミングでそのご発言?
と キレて 北千住から 帰ってしまう手もあったが
一方で これは介護される側にしたら真実を突いた名言だ!と 感じる自分もいて(笑)
「じゃあ 新宿の病院なら行くの?」
と折衷案を提示し、 それを呑んだ父を
娘が付き添って新宿の病院まで連れて来た。
 
その日の話は長くなるので またいつか書くが
3月の検査の結果 動脈瘤は8センチにさらに肥大
ハリウさんが 生きてること自体が奇跡ですよ。 
前に入れたステントのおかげで皮1枚でつながっている。
爆発したら 救急車を呼ぶ時間はない、病院に運ばれても死亡確認するだけです。
と 医師は 本人に明るく伝えた。
(なぜか積年のドクハラシャワーに麻痺して どぎつい説明も平気な私。笑)

救急救命士の話では すでに心肺停止。
聖マリアンナ病院に運ばれて、人工呼吸を施したが、
駆けつけた父の弟夫婦が 12時2分に 死亡確認宣告を受ける。
弟夫婦も娘2人も会えず。 まさに 先週 医師に宣告された通りの シナリオだ。
父の警察の検死に回されたので 私は病院にさえ行けず
実家で 遺体の帰りを待った。 

18時過ぎに 遺体は帰ったが
検死の結果 動脈瘤の破裂ではなく 急性心不全だという。
爆発したら かなりの痛みがあると聞いていたので、
よかった。 心臓ポンプが 止まっただけなのね。 

 在宅時はいつも着物なのだが、出かける洋服姿で靴をはいて
玄関の土間に足を投げ出し座った格好で息絶えた模様。
宅配の魚やさんが ドアが開いていたので 救急車呼んでくれたらしい。

ポケットには小松空港から羽田の航空チケットの半券。
羽田→新百合ヶ丘リムジンバスの半券。

死亡通知を電話する中でわかったことは、
24日日曜日夜に福井あはら温泉常宿越路に泊まり、
25日火曜日 館長をしている福井金津創作の森の理事会に出席。
顔色悪いので、もう一泊されたらという事務局の進言を聞かずに、
4時の飛行機で羽田に戻ったらしい。

あらゆる 進言や忠告を拒否し、
周囲のやきもきや マネージを完全に スルーし、
ダブルブックも 失念も 遅刻も 無頓着。 
禁忌を禁忌と思わず、
失禁を失とも禁とも感じず、
病気を病気と思い悩む感知力もなく、
稼いだお金の残高はチャラにし(これは別のビョーキ)
迷惑千万かけてひるまず
異臭芳香放って憶せず
最期まで 現役で仕事に 出かけた。
あっぱれ 理想的な 在宅のたれ死に というところか。
 
ベッドにあった 読みかけの本は

『 日露戦争 起源と開戦』 和田春樹
『思い出袋』 鶴見俊輔
『死体について』 野間宏

ちょうど私も読みはじめていた 鶴見さんの 思い出袋の中にこんな文章があった。

もうろくという感覚を自分でとらえてみると、
もうろくの中心に、「ある」というこの感覚がある。
  
昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。
その向こうに、「ある」という感覚が待っている。
 
今、これを断念するということを、わびしいと感じない。
人はそれぞれ、たくさんのことをしてきた。
その中のひとつ、ひとつ、だから。

玄冬の向こうに、よみがえりの春が来るのを信じることなく、
しかし、「ある」ことが、自分を終わりまで、ここで終わりと気づくことなく、
支えるだろうと期待している。

靴をはいて 今日も出かける姿で 玄関の間口に座って 息絶えていたという父の脳裏を
駆け巡ったのは こんな感覚だったのか。 どうか。 

私の父へのインタビューは、
立場上 いつも生活面の事情聴取と 詰問 指導になってしまっていたが、
現実は いつだって 間に合わない。 対話するのは これから。 というわけだ。





附記
5 /30 09:00〜09:45 NHK教育 日曜美術館 長谷川りん二郎
解説に 針生一郎 ちょっと出るようです。 興味のある方は ごらんください。


| おばんの病みつき | 23:22 | comments(4) | trackbacks(1) |

ケータリング・サービス♪

社会人1年生の けいこちゃんから 
通勤の電車の中で 携帯でかんからかんのかあんを見てます。
食べ物ネタが楽しみです と メールもらったので ホクホクうれしくて
さっそく食べ物ネタを。

先週は木曜日に おババさまの 退院後1週間の検査で
結果は良好 完治のお墨付きが出たので、
金曜日は 食欲のさえないお友だちのところへ
玄米スープと 野菜料理の ケータリング・サービス 宅配してきました♪
(ねもとパーティの 幼児クラスがなくなったら シルバープラチナクラスが忙しい。笑) 

 5月2日からのババジジシンドロームで、手が回らなかったお友だちですが、
彼女は有能なマンパワースタッフ、おばさんネットを たくさん抱えているので 
安心してお任せしています。
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この日の宅配メニューは


玄米スープ
切り昆布と大豆と人参の煮物
畑の朝採り 絹さやゆで
豆腐のしのだ巻き
(豆腐に挽肉、長ネギ、エリンギを混ぜて
油揚に入れて煮たもの 畑の三つ葉)
ほうれんそうの ゴマあえ
きゅうりとキャベツとかぶの 一夜漬け
いなだのおさしみ さっと煮
畑の蕗のしょうゆ煮
卵味噌(味噌とかつおぶしと醤油と卵2個で煎る)
さといもの煮物


自分が食欲ないのに、
自分が作らなければ 何も出てこないというのは 泣きたいですよね。(よくわかる)

食欲ない時は
何が 食べられるか 自分でもわからないので
ヒットがなくても あれこれ 目で 楽しめるよう
たくさん 作ってあげます。
ちょっとずつ つまんでね。

病人食は 薄味と決まっていますが、
我が家は おばばさまが 甘辛が好きなのと
おかゆには 濃い味がないと 食が進まないし
どーせ そんなに食べられないのだから
アクセントに 辛いものも けっこう入れちゃいます。

 (家ではいつも こんなに並べても 食べられない と 言われてしまいますが。
 入院中も 減塩食なのに 漬け物とか佃煮とか せっせと運んでました。
 ともかく 食べる意欲を促すことの方が肝要です 笑)

ちょうど チームの ハマチョコさんや
さとこちゃんも来てたので みんなで 試食パーティみたいになりました。  
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みんな おいしいおいしい!と 言ってくれました。

どーせ 毎日これくらい作っているんだし、
我が家に ジイちゃんも お友だちも まとめて引き取って
ケアハウスでもやっちゃおうかな〜なんて 言ったら、
「できる できる!」ってみんなが おだててくれました。
でも その場合は 部屋を片付けなきゃだからなぁ〜  ちと ムリか・・・

老人3人の食事用意は まじでモチベーション上がらないので
たまに ケータリングや 持ち寄りで 喜ばれると ハリきっちゃいます。(笑)

ので その気分の上昇を 自分のアップに利用します。
 
自分が抱える問題は 自分ではどーしようもできないことが多いので
いつも 他人の問題の心配に すり替えて、
エンジン全開にして 生き延びることにしています。

オバサン式 処世術。 ゴミ焼却の熱を利用した 温水プールみたいなもんです。 (笑) 
でもこれは オバサンでなくても 使えますよ。
みなさん 自分の問題は棚に上げて 人の心配して 泳ぎ切りましょう♪ 
 
| おばんの病みつき | 21:00 | comments(2) | trackbacks(0) |

おばんの病みつき 無我夢中 

いやはや なんつー5月だ! バラ園どころじゃない。(汗)

おババさまが 先週の金曜日に 1週間で退院し、
1日3回の病院通い(汗汗)は なくなったものの
今まで10時過ぎまで起きないために確保されていた 私の唯一の1人だけの至福の時間
モーニング・コーヒー&パソコンタイム♪は 
母が抗生剤を飲むために 8時に朝食を摂るので
食事を準備してお相手をする 2人のモーニングタイムに切り替わった。(汗汗)

入院中に スパルタな 若いリハビリの先生に指導されたので
夕方は 杖ついて庭に出て いきなり植木を バシバシ切り始めたりするので
遠目にも 見守っていなければならず 
ハイハイ こちらはいつでも(これまでだって)シフトチェンジ
生活パターンを 組み替えて 対応中。(汗汗) 

まあ 病院でのハイテンションは 家に帰れば どっと疲れが出たのか
カームダウンしたので なんとか 新しいリズムにも慣れ 
今日は こっそり自分の整体に行って 体調整えなきゃと思った月曜日。

こんどは 実家の父のヘルパーさんから 電話あり。
父が 咳と呼吸が苦しくて 倒れそうだと寝たが 心配で帰れないという。
娘と駆けつけた。が 2時間半かかる。

昨日は 父を病院に連れていくので すったもんだの一日がかり。
(なまなましいので 後で書くね)
その間土曜日には 東京の親戚が退院したとは知らず6人で 母の見舞いに来てくれたし、
友人の検査結果や、 母の知人の脳の検査結果が届き
今日は母の 退院後の検査で また病院へ・・・・・

というわけで同世代のみなさま 看護、介護、病気、健康ネタ 独立させました!
おばんの病みつき 無我夢中(笑)

病みつき とは 夢中になってやめられないこと デスガ
なんだか一年中 人の(もしくは自分の)病みと つきあっている
番記者ならぬ 病み付きおばんの ささやかな現場報告です。

(寝たきりや 意識不明の親の介護をされてる方には 失礼なくらい 
介護とか看護の 前段階レポートですが)

夢中になってやめられないわけではありません。
無我夢中なだけです。 いつでも喜んで交替します。


同居であれ、通いであれ、
親を看ている人なら 誰でもわかると思いますが、
敵は 病気でも 老いでもありません。
 

譲らない気性、 
言うことを聞かない気丈、
社会や周囲への憤懣はエンドレスでぶつけたい本性 
タイミングをはずすマイペース
自分の不幸を脚色する自家中毒
デス。 実感するでしょう?(笑)

本当はそのことが 一番へとへとになるが、
ドメスティックな問題は 言葉にできない葛藤やバトルが大半で
リピートしたくないので、結果 記録が残りにくい。

心臓凍る 肩から溶けて瓦解するようなハラスメントを受けていても
やるっきゃないことはやるっきゃないから 後で文章に整理すると 
思考停止のよい子博覧会 みたいになって 
自分の気分からは どんどんかけ離れる。(笑)
実感するでしょう?

一方 今 なぜこのタイミングでそのご発言?
みたいな キビシイ 親の側からの指摘は
それはそれで 真実を突いている。(実感するでしょう?)

だからこそ こちらに刺さる。 ので、
グチって切り捨てるだけでは 片手落ちる。
第一 親の世代は ネットでグチグチ全世界発信して ウサを晴らしたりはできないので
フェアじゃない。 

介護のジャンルでも 医療のジャンルでも 抜け落ちやすいその葛藤に肉迫しないと
私たち世代が抱える問題の本質は 上すべるし、
経験から哲学を汲み出せないまま すぐに到来する 逆転状況(自分が看護される)に
善処できないなぁ〜。 と思っている。


 私たちは、いのちに対して、
もっと力をつけなければいけない。
と友人土本亜理子の本の紹介の時に 書いた。(ふつうの生ふつうの死 ↓)

お互いの世代が 
弱りつつある肉体を 納得できる療養法とケアで
見守りつつも 傷つけあわないで 自分らしく生きていく力。(難題だ!)

たぶんそのことが、私のテーマなんだろう。 

というわけで おばんの病みつき 無我夢中
ちょっと痛いけど 読んでいただいて 一緒に考えてね〜。 
 


やさしさのスイッチがはいるとき http://kankarakan.jugem.jp/?day=20071214

ふつうの生ふつうの死       http://kankarakan.jugem.jp/?day=20071019


これまでの ビョーキネタは 右側カテゴリィ おばんの病みつきを クリックして
スクロールすれば 辿れるようにしますね。
| おばんの病みつき | 07:12 | comments(2) | trackbacks(0) |

玄米スープ いのちに向きあう時間を

同世代は 仕事をしながら 親の介護や 看病に追われ、 自分も病んでる人が多いので、
このブログでも なんどか 看病や介護 健康 ビョーキネタを書いているが
本の紹介や おばんの歯ぎしり おばんのお勝手に あちこち散らばり 見つけにくい。

そろそろ カテゴリィを 独立させようかと 思案中だが、
おばんの看病では まんまでシャレにならないし、
お気の毒ですが1万年はもちません(宮沢賢治) では
シャレすぎててわかりにくいし(笑)
なかなか 気に入ったネーミングが 見つからない。

当方も 毎日悪戦苦闘まっただなかの現場なので、
なまなましくて あまりリピートしたくないこともあり(笑)
出かけられなくてもできる! 私の延命装置としてのブログで、
わざわざ正面から取り組みたくないテーマではある。

かなり毒を抜いて、面白おかしく味付けして出してるつもりではあるが、
どうしてもグチ入っちゃって 全世界にSOS発信みたいになっちゃうので、
介護ネタを お勝手ネタに混ぜちゃうと 食欲減退しちゃいますよね〜? 

それはともあれ
連休中 母がずっと結石の痛みと熱で苦しんで まったく食べないので、
なんとか食べさせようと
以前から 作ってみたかった 辰巳芳子さんの 玄米スープに初めて挑戦した。

つよき稽古 もの数を尽くせよ が信条の 辰巳さんの 初めて作るスープを載せるのも
おこがましいが・・・ 思っていたより 簡単にできて 美味しかったので、
みなさんもぜひ お試しあれ。


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玄米(発芽玄米を使った)2合を洗って 6時間おく。 と書いてあったが
母の食事に間に合わせたいので、3時間くらいしか おかなかった。

厚手の鍋で 弱火で 30分くらい 煎る。

木ベラで しずかに 返していると
禅寺の 庭の玉砂利を掃くような 静かな安堵感がある。

この状況が一体いつまで続くのか。 先の見えない 閉塞感を掃くような 
心静かな 悟りの境地に入って とてもよい。
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        そのうち パチッ パチッと
        鍋底から ポップコーンのように
        玄米が はぜる音がして 
        カタストロフィ 緊張が走る。
        玄米が 白くはぜているのが 見えるかな。

        この状態の 煎り玄米を 2分の1合ずつ 使うので、
        袋に入れて 残りは冷凍しておく。


 
ホーローの鍋に玄米 2分の1カップ 切り昆布2、3枚と 梅干し 水4合 を入れ
ことこと 30分くらい炊く。 ホーローの鍋がないので 土鍋で やってみた。


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米を漉して 召し上がれ。 昆布と梅の塩味と酸味が しみわたる。
30年前、韓国済州島で お釜のおこげに お湯をさしていただいた 
スンヌン に梅干しを入れたような 香ばしい味。 夏バテにもよいのではないかしら。

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母は 昔 自分の作った料理にどれだけ近いかが 美味しいの基準な人なので
未知の味には 無反応。 
38度熱があったので 食欲ない、いらないと 追い払われたが、
部屋に置いておいたら 飲んであった。 よかった。

漉した玄米は そのままおかゆに炊いてよいと書いてあったが、このままでも十分美味しい。
看病してると ゆっくり食べてるヒマがないので、 看ている人も お茶漬けみたいに
さらさら めしあがれ。 力をつけて 乗り切ろう。 

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連休明け 1年に1回も病院に行かない母を なんとか 病院へ連れて行ったら、
結局 胆石と腎臓結石の痛みから来る 複雑性尿路感染で炎症がひどく 緊急入院になった。

病院にお世話になってみると 
ほんとにたくさんの 看護師、医師、リハビリの先生たちが 入れ替わり立ち替わりで
「91才とは思えない、しっかりしてる」と ほめられ 母は 超ご機嫌。(笑)
1週間で たちまち回復して 超ハイテンションのまま 私の看護に戻された。 トホホ 

逆に私は 医療看護と 管理栄養調理と カウンセラーケアマネ介護
リハビリ傾聴を 毎日 私1人でやってるかと思うと 限界あるよな〜って 改めて思った。  

そういう 万人の苦労の中から 生まれたシステムなんだろうけどねぇ・・・・・
家族が 家族を看るのが 当たり前でしょ! 
育児も介護も他人に任せて だっから日本は滅びるんだ。
 日本は女が滅ぼしたんだ!
って おババさまには なかなか 導入していただけない。

確かに そういうシステムに任せてしまうおかげで ほんとうのケアが なんなのか
私たちは いのちに対して力をつけずに 済ませてしまっているところがある。
 
実家の親に対応する場合がそうだが、いざ 親が具合が悪くなっても
電車に乗って2時間半、そこから 病院に連れていくのが1時間。
看病と言っても 病院にいる親を見舞ったり、家にいる親を見舞ったり、
医者やケアマネと 交渉したり、貯まった支払いを 一手に引き受けたり、
短い時間で 諸問題を一気に片付ける ケアマネ(マネージャー)化していて、
それって マネージメントで ケアではない。

それっていいのか。 とも思う。

玄米を じっくり煎ってると 
それだけの時間を、 ひとのいのちのために かけているか・・・・
考えさせられる。  

(この記事を苦しんで書いていたらネーミング思いついた!(笑)
   ので 近日別立てにしますね。)
 



| おばんの病みつき | 08:40 | comments(2) | trackbacks(0) |

アレルギー体質

「お母さん、私の部屋に入ったでしょ? 窓開けた?」
2階から ねぼけた 死にそうな顔で 娘が下りてきた。  2月末だったか。
「うん 昨日は ひっさびさの天気だったから ベランダにフトン干して シーツ洗った」
ググググググ しどい・・・ 鼻ぐじゅぐじゅ 夜中眠れなかったような様子で コタツにもぐり込む。
「花粉? ごめん・・・」

私は アレルギー体質なのに、なぜか 花粉症 ではない。
娘2人は ひどい花粉症だが、私は無頓着なので、
お母さん わかってない と ブーイングを 受ける。
実際 春めいて 一番ウキウキ外に 浮かれ出したい季節に、窓も開けられない、
フトンも 干せないなんて なんて気の毒な。

先週の SLの遠足でも お母さん 7人に4人は マスク。 
雨続きの 後の ポカポカした日だったから 花粉放出ピークだったらしく
みんな 目をかいたり 鼻かんだり 汽車の窓も 開けられないし
ほんとに 気の毒だった。

国民の 4人に1人が 花粉症だというのに、
アレルギー体質の私が 花粉症にならないのは なぜだろう。 

ハタチを過ぎて、就職、結婚してから発症した ゼンソクでは かなり苦しんだ。
最初の子がお腹にいる時も ひどい発作で入院して、ベッドでのたうち回ってたので
流産するのではないかと 怯えた。
ステロイドの 点滴を 毎日何本も 入れるのだから 障害も 心配した。
2番目の子が生まれてからも 入院した。
お産と合わせると 毎年入院していたことになる。

お産は 入院の日が だいたい 予想つくが、 ゼンソクは 夜 発作がひどくなって、
夜間外来に行って そのまま 入院になるので、
朝 起きたら お母さんが いない! で
小さい長女には 晴天の霹靂 母親に 裏切られた状態 だったらしく、
退院して 家に帰っても しばらく なついて くれなかった。
(これについては おばんの子に育てられで いつか書く)

来週の予定など 組めたことがない。
ステロイドの吸入も 常用していたが、 ひどくなると 効かなくなる。
夜 吸入をする タイミングが むずかしい。
横になると ひどくなるので 一晩中 起きていたことも 何度もある。

それでも 色々言われるとイヤなので、昼間は なんでもないフリをして 普通に動くから、 
肩と胸に 加圧がかかって、夜 余計ひどくなる。
ステロイドの副作用で 手がブルブルふるえ、唇はしびれ、肩はガチガチ、
ボ〜っとなりながら 動いていた。
悪循環だった。 あの 苦しさに 比べたら なんでも できるなあ と 思う。

ところが、3人目を 産んでから、なぜか プッツリ 体質が改善した。
(毒は すべて 次女に 流れた? 笑)
今は 急に冷えた時と 本の埃を吸った時に ちょっと気道が コホコホするくらいか。

来週の 予定も 組めないのだから テューターなんてムリ と辞退していたが、
理由を 失った。
テューターとして 自分のパーティを回すように なったら、ますます 元気に なった。(笑)
発作は 出なければ 気道に 加圧が かからないので、ますます 遠のいた。

なんだったんだろう。 マサコさま ならぬ  適応障害 か?
結婚も 子育ても どんだけ ストレスだったのねぇ。 おきのどく。

なんとか 乗り越えて かなりな 加圧に 耐えられる 心臓になってみると、
その 適応が、 生物的に よかったのか、
適応できないで 反応出してる からだの方が 正直な 自分なのではないのか
なんて 思わなくもない。(笑)

アレルギー体質といえば・・・

昨年秋 9月25日の朝刊一面に
 米原子力空母 ミッドウェー 横須賀配備

という 小さな 記事を見て、鳥肌立った。
え? なに? 聞いてない!
しかも なぜ こんなに あっさり? 静かに?

ちょうど ねもとパーティで あかねちゃんを呼んで ライブの 直前だったので、
歌ってる場合か? って ワナワナした。

しかも 小泉純一郎が 突如 引退して 息子を出すなんて ニュースが 流れて、
なにぃ? 横須賀出身の 小泉が、矛先を そらすために 花火を 打ち上げたのか?
なんて カンぐった。矛先は たいしてなかったから 花火を打ち上げる必要も ないようだったが。
   
そう。 日本は 世界で唯一の 被爆国なのに、その経験が ちっとも アレルゲンに なってない。
もっと  4人に4人が 核アレルギー体質に ならなきゃ!

適応しちゃ ダメだ。 身体で 反応しなきゃ。
8月6日、8月9日だけに 振り返ったって ダメなんだ。
現在だって 原爆との関連が 認定されていないだけで、
ガンや 白血病で 苦しんでいる70代 80代が 大勢いる。

被爆の あの 写真を 見れば、原発事故だって、現実はどうなんだろうって思う。
原発の 所長が もう大丈夫ですと 挨拶に行ったとか、焦点ボケた ニュースばかり流れて、
実際の 職員の 後遺症とか ほとんど 隠蔽されて 報道されない。

放射能は 死の灰 と 呼ばれたのに、 スギ花粉に 負けている。
花粉症や その対策に ついて 流れる メディアの 量に比べたら、
どんだけ 不感症なんだ? って わかるだろう。 
しかも 自然の摂理と 違う。 拡散は 防止できるんだ。

アレルギーは アレルゲンに 正直に反応する からだ の 証明だ。

苦しいけど、 適応できない!  って   反応しよう。

死の灰、 黒い雨を 浴びて、 家族を失って、 立ちすくんでいた
たくさんの少年少女たちの 想いを 体質として 受け継がなきゃ。
悲しいけど それが できる 国だから。


 
  
| おばんの病みつき | 08:50 | comments(0) | trackbacks(0) |

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