長崎活水高等女学校 同級生 タミ

11月末 母夏木の 長崎活水高等女学校と専門科(英文科)の同級生 
旧姓 木藤多美さん(鹿児島在住)に 初めて 電話した。

折あるたびに 私の代わりに 同級生から 情報収集してくれている 大阪の睦子おばが
「木藤さんは 学徒動員も夏木と一緒だったし、色々情報が得られるかもよ」と 教えてくれたのだ。

以前インタビューを公開した 同じ活水同級生で 幼稚園から一緒だったピアノ科のタエ子さんの家で
活水同級生が子連れでやっていたクリスマス会で 私も子どもの頃 お会いしたことがある。 
今夜は クリスマスイブなので 84才の同級生たちに 昔話を プレゼントしよう。

「夏木の娘の千絵ですけど・・・・」
「わぁ 千絵ちゃ〜ん、覚えてますよ〜。 マサキさん(タエ子さんの旧姓)の家のクリスマスで 
千絵ちゃんピアノ弾いてたよね〜。 
私は 戦後 東京や鹿児島の3ヶ所で 英語を教えていましてね、 
最後の教え子が 今話題の 東大の原子力工学科の一期生なの。
六大学美術コンクールっていうのが 当時ありましてね、 その教え子と芸術部の仲間たちで 
あなたのお父様の評論を 読んで議論を戦わせたことがあったけど、とてもむずかしい本だったそうよ〜。
千絵ちゃんは 奈良で結婚式したでしょう? 夏木が写真を 送ってくれたのよ〜。
睦子さんから 聞いたわよ〜。 夏木のことを 調べてるんだって?」

こちらが質問を投げる隙もなく 話はあちこちにどんどん進む。(笑)
それでも、ご自分で軌道を核心に修正されて、 話が早い。 

木藤さんは、活水卒業後、久留米師範学校付属中学で英語を1年教えた後、
もっと英語の勉強がしたいと 活水の家政科の先生だったブルナーさんを頼って 昭和22年頃 上京したらしい。
夏木も 大村師範学校で英語を教えた後、タエ子さんの話で 昭和22年の秋頃上京したとわかったので、
ほとんど同じ時期に 上京したことになる。 (これはまったくの偶然で お互いに相談もしないし、知らなかったそうだ) 

「あ ちょっと待って。今 人が来たから 5分後にかけ直します。電話番号教えて。」
「いえいえ 私からかけますから」
「いえ こちらからかけます。番号教えて。」
私がおずおず番号を言うと 「two? 最後はtwoね? 数字だけは、英語で確認した方がいいのよ〜。」
なるほど。 そうかもしれない。
さすが英語の先生らしく すばらしく発音のいい トゥーで 私の電話番号を確認して 電話は切れた。

きっちり5分後に 電話がかかってきた。
「すみません、お客さまだったら またおかけします。」
「いいのいいの、植木屋さんが打ち合わせに来たんだけど、またにしてって帰ってもらったから。」
「え? いいんですか?(笑)」
「いいのいいの。 それより うちは主人が85才で私が84才でしょう。 
お互いに耳が遠いから いつも大声で話してるから 喉がかれちゃって。(笑) 
今 のど飴なめてきたから大丈夫。 ハイ、で、お聞きになりたいことは?」

アハハ さすが篤姫を生んだ薩摩の女性は 圧倒的だ。  以下 多美さんのお話。

活水の中でも だいたい2人組で 仲良しだったのよ。 
マサキさんとイトキが仲良し。私と夏木が仲良し。
睦子さんは 途中で転校してきたからね、ちょっと 後からのお友だちなの。

私と夏木は英文科で 高等女学校から 専門部の英文科まで ずーっと一緒だったのよ。
2人とも 大の読書好き、音楽好き。 趣味が共通だったのね。
それに 我が家は父がロシア語の専門家で、活水の下のもと居留地に住んでたのね。 
周りはイギリス人、デンマーク人に囲まれていたでしょう? 
なんとなく ハイカラというか 外国かぶれのところが 響写真館の 夏木と 生活環境が似てたのよ。

それに 夏木と私は同じピアノの先生に習ってたのよ。
お諏訪さん(諏訪神社)の横の 高見先生ってすごく背の高い先生でね。
170センチくらいあったけど、ほんとに美人で素敵な先生だった。

我が家にも、夏木の家にも 当時としては珍しい電蓄や洋書、文学全集が揃ってたしね。
お互いの家にある本や、図書室にあるものを乱読して、お互いに感想を交換していたの。

夏木はフランス文学がお気に入りだったみたいで、バルザックの 『谷間の百合』とか
『ゴリオ爺さん』 ジイドの『狭き門』 アナトール・フランスなんかを 読んでいたわね。
私はロシアやドイツの本が好きで、ゲーテの 『若きウェルテルの悩み』とか トルストイの 『復活』
ドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』などが好きだった。

あの時代はテレビもないし、街中にある映画館は、女学生は保護者同伴じゃなきゃ入れなかったので
読書が最大の楽しみだったのね。

音楽の趣味も共通しててね。やはりシューベルト、ショパン、べートーヴェンが人気。
夏木は音程のしっかりしたアルトで、シューベルトのリートが一番だったけど、
べートーヴェンの「アデライデ」という歌曲も好きだったわね。
家で歌ってたら、桃太郎兄さんか幸蔵兄さんだかが「アデノイド、ああ、アデノイド」って
からかって歌うのよ〜って 憤慨してたわ。(笑)

夏木はテニス部で 才色兼備っていうのは ああいう人のことを言うのね。
夏木はおませさんで、刺激的なことをたくさん教わったわ。
私も6人姉妹の末っ子で 姉たちから色々教わるから おませさんだったけど。
2人で 秘密のやりとりもしてたのよ。 女学校の2年の時だったかな。

人に知られたら困るから ペンネームにしましょうってことになって。(笑)
夏木は みどりっていう ペンネームにしたわね。

― 碧は 赤ちゃんの時に死んだ 自分の姉の名前ですね。

さっすが千絵ちゃん、よく調べてるわね〜。
そうそう 自分の姉が みどりっていう名前で 生まれてすぐに死んだから
次に生まれてくる子は 夏の木のように 丈夫にたくましく生きるようにって 願いをこめて 
生まれる前から 夏木って名前が決まってたって お話をしてくれたわ。

秘密のやりとりとは言っても、テストの点数とか、本の感想とか、 
それから 夏木が上級生に手紙をもらってそれを先生に届けるかどうか とかね。

活水だけじゃないと思うけど、女子校では自分の気に入った下級生に上級生が手紙を送って、
手紙が下駄箱に入ってたりするのよ。
それをS(sister)になるというんだけど、学校では禁止されてたの。
だから手紙をもらった人は必ず担任に届けなければいけなかったのね。

夏木は才色兼備で ファンも多かったから 困ったと思うわ。
あの時代は、今の学生には想像できないほど、学校からも親からも管理されてたのよ。
まあ、自分たちは、特別不自由とは思っていなかったけどね。

活水はね、校舎の裏門から登下校する組と、表門から南山手方面に登下校する組に 分かれてたのね。
夏木は裏門組で 私は表門組だったから、登下校の時に ワイワイ情報交換することができないのよ。
それで 秘密の手紙をやりとりしてたのね。

表門、裏門の話で思い出したけど、 校舎の前で 両方の登下校組が「おはよう!」と顔を合わせる場所があるのね。
ある日 夏木を見たら、お弁当の入った 小さな袋だけ ブラブラ下げてニコニコしながら 歩いて来るのよ。
「夏木、カバンは?」って 聞いたら キョトンとして 「エッ? アッ!! 忘れてきたみたい!!」
さすがの夏木もあわてて、 小使い室に走りこんで 電話を借りて 家から 女中さんが カバンを届けた
ってことがあったわねぇ。(笑)

夏木はおしゃれだったしね。 母親の梅子さんが、とってもモダンなインテリって感じだったでしょう?
梅子さんは 東京にいたとき、岡本かの子の弟子だった(和歌?)って 夏木が言ってたわ。

― へえ? それは初めて聞きました。 たしかに梅子さんは 死ぬまで和歌を書いてました。

戦中も戦後も、あらゆる物資が不足してたでしょう? 
衣料もほんとに 今からみればみすぼらしい格好だったんだけど、みんな自分なりに工夫してたわね。

ある日夏木が黒いズボンにとてもステキなダーク・ブラウンのビロードのジャケット着てきてね、
わぁそれどうしたの?って聞いたら、夏木がニコリと笑って 「実はこれ、お店のカーテンなの」って。
(サウンドオブミュージックみたい。笑)
野口さんて洋裁やってる方が、作り変えてくれたみたい。
遠足など 自由服でいい日は、 梅子さんが選ぶのか とてもセンスのいい上質の服を着てたわ。

― 多美さんと夏木は、ケンカ仲間だったとか?

いえいえ、夏木さんは ケンカってものをまったくしない人でしたねぇ。
夏木の激しい言葉はみたことない。 宮沢賢治じゃないけど いつも静かに笑っている。 
ケンカ売ってるのは、こっちでね、それでもまったく乗ってこないの。(笑) 
性格的に トラブルを好まないのね。
 
そもそも 夏木の走ってるところを 見たことないわ。
遅刻しようが何しようが、決して走らないの。悠々然と 全然悪びれず。(笑) 
みんな待ってて いい加減イライラしてるのに 
「みなさん  こんにちわ〜」って笑って言われると 怒れないのよぉ。

― 多美さんと夏木は 学徒動員も一緒だったとか?

三菱兵器の大橋工場に 通っていました。 
中は広ーくて 建物がたくさんあってね、(20棟くらい) みんなバラバラでしたね。
夏木は ゼンソクがあって からだが弱かったから 事務方に回されたんじゃないかしら。

大橋工場の工場長が 全員を集めて 発会式で訓示したのを 覚えています。
他の学校の人も 学徒動員兵が 大勢いたんですよ。 それを ズラ〜っと並べて

「今から みなさんは お国のために 働きますよ。 
 物資がなければ 精神力で補わなければならない。必ず精神力で補えます。」って 
工場長が話したのだけは よく覚えているわ。 洗脳が始まったのね。

でも 何しろ物資のない頃でしょう。 残業の時とか 夕食に 大豆の入った雑穀なんだけど お弁当が出たのね。
私はそれが楽しみで・・・(笑)  だから学徒動員は けっこう楽しかったわね。

大橋工場には 旧制七高(今の鹿児島大学文理学部)の人も 学徒動員で来ててね。
「デカンショ〜 デカンショ〜で 半年くらし〜」 って歌知ってる? (デカルト カント ショーペンハウエル) 
旧制中学って 帝国大学に入る前の 大事な教養の時期なのよね。
そのバンカラな男子が何人か来てて、 女生徒と あちこちロマンスもあったのよ〜。

大きな鉄板の机の上で 七高の男子学生2名と活水の女学生2名が向かい合って
小さな部品に 黙々と コンマ何ミリって 印をつけていくの。
七高生は 大きな図面を拡げていた。
私の工場は 飛行機の部品 って言ってたわね。 非常に小さな部品を作ってた。
でも 本当のことは 私たちには 知らされなかったと思うわ。
私は 途中から トンネル工場の方に回されたんだけどね。

夏木が言ってたんだけど 七高の男子学生の中に すごい右翼で ひげの濃い人がいてね、
昼休みになると 広場に円陣を組んで 皇居の方に向いて 頭を地べたに 押し当てて 東方遙拝をするんだって。
平野国臣の 「わが胸の 燃ゆる想いに くらぶれば けむりはうすし 桜島山」って 和歌を詠んだりしてね。
夏木さんも 日本女子大の女の人に誘われて その東方遙拝にむりやり参加させられたりして
「困るのよ〜」って 言ってたわ。

― 夏木は 父親傳次郎が こんなバカな戦争は負けると言って 佐賀に疎開したのに 一人長崎に残ったし
やはり軍国少女だったのだろうかって 思ったんですが。

まあ あの時代はね。 でも夏木は 何に対しても 過激じゃないというか
今考えると こうだ!って 色分けしない人だったわね。 

―  多美さんは 原爆の時は?

うちは 父が外務省で もと居留地の 南山手32番地に住んでいたんですけどね、
うちが 要塞司令部になるかもしれないっていうんで 家族は島原に疎開したんです。
(後で聞いたところでは、結局我が家は 三菱が買ったらしいわ。)

でも 私の姉の ちえ子が 活水の音楽の先生になってたんですね。
で結婚して 南山手16番地の 沢山さんって財閥のお宅が持っている貸し家に住んだので、
妹の私も そこに住まわせてもらって 学徒動員に通っていたの。

ところが たまたま 膝に水がたまって 関節炎になってしまってね
福井整形外科に行って 10日間の休養って 診断書を書いてもらって 島原に帰ってたの。

―  え? じゃあ 原爆に遭わずにすんだんですね! 夏木と同じだ。

そうなのよ。 たまたまね。 島原にいても 赤いような 不気味な色の雲が 見えたんですよ。
空中爆雷とか 新型爆弾とか いろんなウワサが飛んでね。

10日ぐらいしてから 隣が警察署長さんだったので、警察の車で 私たち家族3人を乗せてくれて 
長崎まで 行ったのです。 南山手にいる 姉が心配でした。

浦上の方から 長崎へ入ると もう 目も覆わんばかり。 見るも無惨な惨状でした。
大八車で 死体を運んでいる人がたくさんいました。

長崎駅付近で 車が朝鮮の方たちにとり囲まれて 「チョーセンチョーセンパカニスルナ パカニスルトコロスゾ」って 
車の窓を バンバン叩かれたのが とても怖かった。
警官が 窓を開けないでくださいって さあ〜っと車を動かして その場を逃れ 南山手に辿りつきました。

― 桃太郎の話でも、長崎には炭鉱で働く 朝鮮の人たちがたくさんいて、
毎日 落盤事故で 何十人死んだとか言ってました。 

そしたら なんと姉は 脱出して 私たちとは入れ違いに 島原に帰っていたのです。

― よかったですね〜

三菱にいた親戚は、急性白血病になって 1ヶ月後に死にました。
活水でも 先生や生徒が70人以上死亡しています。全身にガラスの破片がつきささった友だちもいます。

夏木が どこに住んでたかっていうのはね睦子さんにも 聞かれたけれど 私も知らないのよ。
西山の 野口さんっていう お店か何かやってた家に 寄宿してたんじゃないかって 睦子さんは言ってたけど。
あの当時は みんなが バタバタだったから 当時の話を聞くのは 大変だと思うわ。 

戦後 2人で一緒に 佐賀に旅行にも 行ったのよ〜。
井手家は 佐賀に疎開していたでしょう?
夏木さんが 「佐賀の人たちはね おもしろい言葉を使うのよ〜」って 膝を乗り出して
「ところで・・・」と言う時 「さらばのまい」って 言うのよ〜って (笑) もう みんなで 大笑い。
by the way ですね。 「さらばのまい」 って もう いっとき 私たちの間で 流行りましたね〜
「さらばのまい」  (笑) 

結婚してからは お互いに 子育てに忙しくて だんだん 疎遠になったけど
私の息子が 中学生の時 夏木さんは 遠山啓先生の 『ひと』 っていう雑誌の 
母親編集委員に なってたでしょう?

英語教育の特集があって 私も 英語教育と母親の立場から 現場の意見を発言してくれって
夏木に頼まれて 座談会に出たことがあるのよ。
夏木さんは 座談会の司会で 遠山啓さんとか板倉聖宣さんとか 有名な先生方がたくさんいる中で、
平凡な一母親である私が自由に発言できるように 雰囲気を作ってくれて 実に冷静な司会だった。
おかげで 私も堂々と先生方に反論したりして(笑) とても楽しかったわぁ。

それから 私は 鹿児島に移ったので なかなか会えなくなってしまったけどね。

夏木の話は くめども尽きないわねぇ。 思い出すと きりないわ。
夏木がいなかったら 私の青春時代は 生彩のない平凡なものだったわね。 これ おせじじゃなくて ほんとよ。
千絵さんの、お話ぶりや声の雰囲気も 夏木とそっくりねぇ。 なんか夏木と話をしてるような気になるわ。
とてもとてもなつかしいわぁ。





電話でお聞きしたことを 鹿児島に送って 赤ペンで修正していただき、
さらに便せん7枚!に 補足で書いていただいたものを 構成しました。
多美さんは、80才までは 毎年アメリカやヨーロッパを旅行されるほどお元気だったそうです。
81才で病気されてからは、弱ってしまってと書いておられましたが、
どうしてどうして 電話だと とてもお元気。 圧倒されっぱなしでした。
どうぞ お元気で。 また 愉快な話を 聞かせてください。    メリー・クリスマス!





| 長崎8人兄妹物語 | 10:12 | comments(0) | trackbacks(0) |

旧制鹿島中学 沈殿組3羽ガラス

だいぶ間があいてしまいましたが、
9月末に 長崎八人兄妹物語 取材のために 初めて 訪れた 佐賀県太良の 続きです。

泉おじさんの 同級生 60年ぶりに 再会した 旧制鹿島中学 沈殿組 坂下さん 若芝さん 井手泉

下の写真は 泉おじが持って来た 沈殿組の写真。
下段 中央が 担任の 岩永先生。 若いイケメン先生ですね!
落ちこぼれのクラスで みんな勉強しないから カンナかけをさせて 本棚を作らせたり ユニークな授業をされて
学校嫌いの泉も 先生の家に遊びに行くほど好きだったらしい。

下段 右から2番目が泉 その左が弟の 清明。
泉は 留年したので 弟と一緒のクラスになったけど お互いに 兄弟ではないふりをしてたとか。(笑)
2段目 左から3番目が 坂下さん。

この写真は 泉が足を組んでたら 「おう みんな足組め〜」って 先生が言ったとか。(笑)
みんな はだし だし。 さすが 沈殿組。




坂下 おまえ、覚えとるか。学校行って、校門入らんとばい!
泉 うん。
坂下 それでそのまま、俺と一緒に帰ったばい。
津埼 そういうことって、なんか大きくなってから、年取ってからの話題になるよねぇ、いい悪いは別として。
―  アハハ  いい悪いは別としてって。(笑)
坂下 話題になるよ。 そいで、もう帰ろうって。 道草くってあっち寄ったりこっち寄ったり。
     学校の帰りに あそこのみかん、ごっそり取ってもって帰ったやろ。
若芝 みかんて、においがぷ〜んとするんだよね。
―  アハハハ  バレちゃうじゃないですか。(笑)

泉  あれは登校拒否のハシリやなぁ。
―  いやぁ、登校拒否はそんな積極的じゃないですよ。(笑)
    今はみんな家に一人引きこもってるから。 そんな仲間がいたら楽しいよね。
泉  楽しかったねぇ。
―  でも 鹿島中学は厳しかったんでしょう?
泉  厳しかったよ〜。葉隠れの 佐賀鍋島藩やから。


津埼 鹿島中学は隣に女学校があるんですが、女学校の門の前を通ってはいけないので
    ぐる〜と回らなければいけなかったんです。
―  へええ? 門の前を通ってもダメなの?
津埼 はい、その当時はね。 
―  夏木と話したことありますか?
津埼 うちらは 女学校の前を通るのも恥ずかしいから。 話したことないです。
坂下 そうそう。


泉  おれらはそ〜とう悪かった。
坂下 悪かった。多良の3羽ガラスって言われたばい。
―   アハハ 丸刈りなのに 髪を長く伸ばしてるから はさみ持って先生に追いかけられたとか。
泉  いや、無精ひげを伸ばしてたからねぇ、ひげを切れって追いかけられたんです。


若芝 ぼくたちは昭和25年卒業だからね。 ぼくはチフスで1年留年したんです。
泉   そうでしたか。
―  泉さんだけじゃなかったんだね、落第したのは。 卒業はしたんですか?みなさん。(笑)
坂下 卒業はした。
泉  あれ? おれは 卒業したのかなぁ・・・・(自信なさそう)
若芝 勉強もしないし、頭も悪かった。
泉   若芝はよく勉強しとったよ。 おれは教科書買わんかったもんね。
(泉さんは 教科書代で 馬糞紙を買って絵を描いてたって前に言ってた。)

坂下 金がなかったばいね。
泉   でも坂下もよう勉強しとったよ。
坂下 学校の勉強はしないで、他の勉強しとったよ。 
    (坂下さんは 戦後 英語の勉強がしたくて 進駐軍で働き 今はNHKの講座で 6ヶ国語しゃべれるとか)
坂下  おいは 毎年 海外旅行行っとるけんね。 「トイレどこですか」さえ 言えれば どこでも行ける。
―   アハハ
坂下  今度 一緒に 韓国行きましょう。 うちに泊まれば すぐよ。 若い男紹介するよ。
―   アイゴー! 行きたい〜! カッチカジャ!(笑)

坂下 試験の時に なんか気に入らなかったらなね、「おう、白紙出すぞ〜」って言って白紙出す。
―  白紙? 白紙同盟みたい(笑)
坂下 学校行っても 代返(代わりに出席の返事)してもらう。
泉   若芝は よう寝とったなぁ。
坂下 おう、よう寝とった。
若芝 眠いから寝とる。 休み時間になったら、先生が、「もう 休み時間だから起きんさい」っておこしてくれた。
―   キャハハ 先生も太っ腹だ。
―  昔は厳しいけれども、おおらかなんですよねぇ。今は厳しくないんだけれども、きつい。

泉    おれが覚えているのは、おまえは学校の机を改造して、なんかやっとったやろ。 あれ、何やっとったか?
坂下 おお そうそう。
泉   学校の机をですよ。ちょうつがいか何かつけて。もう怒られて、先生に これ誰の机だって。
坂下 そうそう。(思い出す)そいで、ほら、冬休みになってストーブ使うようになったら寒いから・・・
泉  そうそう。倉庫から机を出してきて、足でば〜んと蹴って割って、
坂下 そうそう。教卓の下にな。 そしたら先生が来て、感心して、
       「ほお、この教室はいつ来てもぬくいなぁって。」  机をストーブで燃しとったのよ。
―  えええええええ! ひどい(爆笑)

泉  もう、悪かった!(吐き捨てるように)
坂下 う〜ん、悪かった。
―  どうするの? 机ない人は。
坂下 そりゃ困るわけよ。だから倉庫から どんどん机持ってきよった。
―  キャハハ 悪いなぁ〜(爆笑)  

若芝  まあまあ 話はつきないが・・・・私は毎日津崎さんに お茶のみに来るから。(笑)
津埼  やかましかけんが。 (笑)
坂下  うちに泊めたかったけんが、宿決めとるっていうからね。 今度来たら うちに泊まりなさい。
     あんたよか人ねぇ。 なつかしか〜 気がする。 明日の朝 うちの栗を 宿に届けるけん。
―   わあ 栗大好き! 欲しい欲しい! ありがとうございます!
若芝  初めて会ったんだけど、初めて会った気がしないなぁ。
津崎奥様 ほんとに 初めて会った気がしないわぁ。 
―   夏木の娘だからですよ。 傳次郎の孫だし。(笑) 今日はほんとに嬉しかったです。
    傳次郎の写真とか こんなに大事にしてもらって。 
奥様 うちの人、井手先生が大好きですもん。
―   佐賀に 親戚が 増えた気がする。(笑)

泉少年が 毎朝敬礼していたという 有明海の 朝日。  私も思わず 拝みました。 (露天風呂から)
タラ・・・・・ ほんとに来てよかった・・・・・・

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| 長崎8人兄妹物語 | 08:52 | comments(4) | trackbacks(2) |

津崎写真館 津崎和朗さんのお話

雨がぱらついてきたので、糸岐川沿いの 水車小屋跡を 引き上げる。 

― 泉さんが、毎朝、有明海からのぼる朝日に敬礼していた 高台はどこなんですか。
泉  高台じゃないですよ。 もっとむこう。川を下ってちょっといけば、有明海はどこからでも見えますから。
津崎 うちの前から みえますよ
糸岐川の先は 有明海

若芝 戦後、海岸は一部デコボコしとったけど、金のある人たちが自分で埋め立てました。
     戦前は その橋のすぐ先が もう海だったのです。

この後 津崎写真館と看板のある 津崎さんのお宅にお邪魔して、津崎和朗さんに お話をお聞きした。


―  おじゃましま〜す。 すてきなおうち。わあ 火鉢がある。(きゃあきゃあ)
    これ昔の建物のままですか? 
津埼 いやいや建て替えた。むこうが(川に近い庭の方)写真館でした。
    はじめ写真は2階でやっとったですが、写真がストロボになったでしょうが。じゃけん下におろして、ここでやっとった。 
    
長崎の響写真館も写場(スタジオ)は2階だ。 NHKの朝のドラマにもなった田辺聖子さんの
大阪の実家も写真館で 2階が写場だった。 自然光を取り入れる必然からだったのだ。

津崎 終戦直後ですから、材料がなくてね。 うちの山の木を切ってきて、建てました。
    暗室は土蔵に、地面のところは石ころ入れて。

―  津崎さんのおたくは お醤油屋さんだったんでしょう。
津崎 米や醤油 なんでも売っていました。
―  井手家は長崎から疎開して まず津崎さんの広い家に7人で転がりこんだと聞いています。
津崎 私は、兵隊でおらんけんね。 その時は知らんのです。 特攻隊でしたから。
―  え? 津崎さん、特攻隊だったんですか? 知覧にいたんですか?
津崎 知覧には行ってません。その前に、まだ訓練兵でしたから四国の松山にいたんですね。
    4人だけ 訓練兵が残ったのです。
―  まあ、なんという! よかったですね〜 花と散らなくて。
 
津崎  内地だったので、終戦になったらわりとすぐ帰れました。
    私が帰ってきた時は、もう井手家は多良にこんさっとですよ。
―   昭和20年の春には、長崎から多良に引越してきたようです。 
     写真の道具とかも手放さないで持って来たんですね。
津崎  はい。トラックでみんな運んで来られたようです。 昔のカメラですからね、なにしろ大型で。  
     
     そしたら 井手先生に「津崎くんは軍隊で何をやってきたか」って聞かれて。
     写真の道具持って来てるから、教えてあげるから、写真をやったらどうだって言われました。
―  まあ、じゃあ、昭和二十年の秋には、傳次郎から写真を習ってたんですね。 
    津崎さんの家で教わったんですか? 
津崎  私が水車小屋まで行ったり、それから井手先生が自転車で来られたり、行ったり来たりですよ。
     この川沿いに桜の並木があってね。そこを先生がばああ〜と自転車でかけてくる。

津崎  一番の思い出はね、鹿島市ができたとき、何かの出張撮影に井手先生について出かけたんです。
    その当時は、キャビネ判で撮ってたんですが、ガラス乾板を半分にして撮ってたんですよ。
    それで半分残ったもんだから、「おい、写真撮ろうか」 「誰をですか?」「おまえの写真ば撮ろう」 って。 
     これが、その写真です。「おらは写らん」って言ったんですけどね。(笑)

                      
―   わぁ! 若い!津崎さん、若い自分とツーショットで撮りましょう。

津崎さんがアルバムを見せてくださる。

―  わぁ! 長崎の響写真館だ! 傳次郎もいる! 



津崎 これは、僕が撮った写真です。



―  そうそう、傳次郎はいつもルパシカを着て、パイプをくわえていたそうですね。
    左の小さい写真は 津崎さんですか? 超ハンサム! 映画俳優みたい。
   これもガラス乾板ですか?
津崎 その当時だからガラスです。
―  傳次郎は修正の技術が高かったそうです。津崎さんもすごく技術が高いですね。 すごいきれい。
津崎 先生は写真のことに関しては、ものすごくやかましかったですもんね。

 ―   津崎さん、傳次郎にかわいがられてたんですね。怖くなかったですか?
津崎  怖くはなかったですね。
―    子どもたちはすごく父親が怖かったみたいだけど。
津崎  徹生さんたちはよく怒られてましたね。
 ―  そうそうそうそう。(笑)
津崎  まちがったことをすれば怒られますよね。傳次郎先生はそういう性格です。
     その点は僕は軍隊で仕込まれてますから。
―   なるほど〜。

津崎  集合写真を撮りに行ったことがあるんです。 
     普通はそういうのは弟子にやらせるんですが、たまたま先生が撮影に行った。
     議員さんが 「おおい、写真屋はまだか」って怒鳴ったらしい。
     そしたら先生は「おい、カメラたため。 帰るぞ」って帰ってしまった。
―   キャハハ 帰っちゃったの? 傳次郎らしい。(笑)
津崎  先生はそういう性格ですよね。 自分の約束はきちんと守るが、えらい威張った人に頭を下げない。                     
    東京の資生堂の社長さんとか、そういう方たちとのつきあいも多かったですね。

―   え? 資生堂の福原さんですか?
津崎  誰だか知りません。
―   資生堂の福原信三さんだと思います。 傳次郎と 芸術写真社をおこした資生堂の福原信三さんと
     交友があったのではと 去年から調べていたんですが、
     福原信三さん直筆の井手傳次郎様という宛て書きがある 福原さんの写真集が 
     泉さんの家から 最近見つかったんですよ。
津崎  長崎来ると響に寄りはって、酒飲みなさるんで、一晩中話ばされて、泊まっていかれたと 聞いてます。
―   福原さんは、全国の写真館主と 交友あったからと 聞いていたのですが、
     長崎に来た時は 響に泊まるほどの仲だったんですね! 去年秋からの疑問に確認取れてうれしいです。


―   津崎さんは、何年からここで写真館を始めたんですか?
津崎 昭和21年。
―  ええ? 20年秋に 兵隊から帰って、写真習って、21年にはもう始めたんですか? 早い!
津崎 昭和21年11月3日、新憲法発布の日に津崎写真館をはじめました。
    そこにあるでしょう? これを見てください。 

縁側の方の 鴨居に額がかけてある。
はずせないので 椅子に上って見ると・・・・・    
                                             
―  へええええええ すご〜い! 傳次郎直筆のご挨拶が 飾ってある! 


 昨春 奇縁ありて 御当地に疎開以来 郷党各位の 御厚意と 御懇情と依り
 幸い 安住を得ました事を 衷心感謝いたしたいと存じます。

 就きましては、 かねてより昵懇の 津崎令息和朗君が 終戦帰還後
 性来愛好の 写真術修得の 希望を寄せられましたので
 再建写真文化発揚の 幼苗(ようびょう)として 嘱望の 好青年と認め
 爾来 一年有余 精根を尽くし 修練の結果 
 漸く(ようやく) 専門家としての 素地完成の 折から
 今秋来計画中の 新写場も落成の域に達し 
 いよいよ三日 新憲法公布の 佳節を卜し 開業されましたので
 不肖私常用の 写真機一切を持参 引き続き 全責任を以て 撮影指導の任に当たり
 必ず 各位御要望と御期待に 副い奉るべく 何卒 御鞭撻(ごべんたつ)御愛顧の程 お願い申し上げます。 

                                元 長崎市写真館 響 本館主
                                         井手傳次郎 識 



―  まさに 響写真館の お墨つきじゃないですか! すご〜い! 私も お宝発見だ!
津崎 ずっと 写真館の ガラスケースの中に 飾ってたんです。
 

津崎さんが 箱に入った アルバムを2冊出してくる。
なんと 井手傳次郎が 生前出版した 写真画集 『長崎』 と 『雲仙・島原』 だ。
開業祝いに 傳次郎が 贈ったものらしい。


―  わ、これは、まるで新品のようですね。 今うちにある母のより、ずっといい!
津崎 写真を大事にされることは 井手先生に教わりました。
泉  いや〜、こんなに大事にしていただいて。 僕ら不肖の息子たちは、ダメですなぁ。(落ち込む)
―  写真美術館に寄贈したものより、ずっといいですね。 響写真館のスタジオで撮った写真400枚位と
   写真画集『長崎』は、まだ母が元気な時に東京都の写真美術館に寄贈したんです。
    雲仙・島原は、 私初めて見ます。
泉  うちに2部ありますから お送りします。 僕は 長崎より 雲仙・島原の方が 自然が多くて好きです。

―  傳次郎は、津崎さんのことを すごく高く買ってたんですね。  写真館の開業もすごく嬉しかったんですね。
    こんな 挨拶文を書いてくれたり 開業祝いに 写真画集を贈ったり。
    
津埼  井手先生から最初は 長崎ば引き受けろって 言われたとですよ。片淵町をですね。
―  え?響写真館をですか?へえええええ。 それは びっくり。

津崎 でもそんなん、こっちに余裕もないし、お袋からえらく怒られました。
    なんで長男坊が 長崎に行かにゃならんかって。 
    どこにも行くな。 せめて鹿島にしてくれって やかましい言われました。
―   鹿島にも 写真館を出されたんですか。
津崎 いや、鹿島には出しませんでした。話だけで、お袋に止められたから。

―  津崎さん、素直だから 傳次郎に かわいがられたんですね。 響をやれって言われるなんて。 
   傳次郎は気むずかしいから お弟子さんもついていくのが大変だったみたいですけど。
   井手家だって 息子が5人もいるのにねぇ。(笑) まだみんな小さかったからかなぁ。
   長男桃太郎 次男幸蔵が 復員する前だったのかなぁ・・・・

    でも 傳次郎は やはり長崎の響写真館を 再興することを 考えていたんですね。
   なぜ 戦後長崎に戻らなかったのかが 私にはすごく不思議だったのです。 

津崎 原爆の後 井手先生は 家のことで長崎にちょくちょく行くようになったですもんね。
    そしたら先生が あるとき、「おう、響写真館を売って来たぞ」って。 
    当時のお金で5万円ですよね。 当時5万円って言ったら大金です。

―  なんか石鹸とか くずみたいな宝石と 響写真館は交換になったと聞きましたが。
津崎 「今現金はないけんが、これをやっとく」と言われたらしく、
    私が見てもくずみたいな石ころをもらって来なさったんですよ。 
   
    私も忠告はしたんですよ。「先生、そがん大金ばよかとですか」って。
    「いや、あれは信用しとるから」って。 私もそれ以上は別に言われんけんね。
    そしたら結局 最後は泣き寝入りっていうか。
―  ええ? じゃあそれだけ?5万円はもらえなくて、そのくず石だけ?
    だまされちゃったのかなぁ・・・・
    長崎県自転車振興会というのに売ったようで 登記もそうなっているんですが、
    間に入った 複数の人の思惑で 売却がうまくいかなかったみたいです。  

   長男桃太郎が管理していた傳次郎の手紙を、つい先月、私も初めて見たんです。
   奥さんの睦子さんが 一箱送ってくれました。
   傳次郎が 「響を再建するための大切なお金だから、お金を払ってくれ。 
   家族も 水害で困窮を極めている」っていう 内容証明つきの手紙がたくさんありました。
   昭和29年頃まで 奈良に移ってからの手紙もあるから 10年近く 響写真館の売却で もめたようです。

   

―   じゃあ、津崎さんは ここで酒屋さんとお醤油さんと写真屋さんを やられたわけですね。
津崎 その当時はお米が配給制でしたから。味噌も醤油も全部配給せにゃならん。
―   写真も繁盛したでしょう? その頃は 今みたいに家庭にカメラがありませんものね。
津崎 おかげさんでね。この前も「おれを覚えてる? あんたんとこで写真撮ってもらったたい」って
    お婆さんに会いました。(笑) でもデジカメが出てからは、全然だめです。

若芝 僕も津崎写真館で 撮ってもらった。たぶん結婚式。(笑)
    井手傳次郎さんにも1回だけ写真を撮ってもらったことがある。
泉   は、そうですか? 多良で?
若芝  うん、いっぺんね。なんか受験の証明写真だったかな。
     お父さん、ジェントルマンだからね、ものすごく丁寧な言葉で、ああしてください、こうしてくださいって。
     だからよく覚えてる。 それから うちの姉は 長崎の高等女学校だったけが、
     アルバム見たら響写真館製って入っとった。

津崎  井手先生がスタジオでよく使ったすすきの株は、 うちの庭に持ってきてます。 
     長崎のスタジオで使っていた 高さ1間くらいの大きなすりガラスは 
     佐世保の 森泊丁が欲しいと 森さんのスタジオに行きました。
泉  僕も 一度だけ 津崎さんの暗室に入って 見学したことがあります。
―  今日は 60年ぶりに来られて よかったね〜、泉さん。
泉  ほんとにまぁ 傳次郎の 写真も何も こんなに大事に保存していただいて・・・・・
津崎  いえいえいえ これはもう私が生きとる間は 井手先生の大事な資料として 保存しとかんばと思ってます。
泉  ほんとに申し訳ないです。 今日はほんとに感激しました。 出来が悪いからなぁ・・・息子たちは・・・・
―  アハハハハ また反省してる。 今から反省しても 遅いよ。 鹿島中学で長靴はいて逃げてた時に
反省しなくちゃ。(笑)





ネットで 津崎酒店を見つけて 電話した時には、予想もしなかった 深い繋がりだった。
津崎写真館 津崎和朗さんは 井手傳次郎の 最後のお弟子さんになる。
今ご健在のお弟子さんに 直接お話が聞けたのは、 
そして 傳次郎の息吹を感じる 数々の思い出の品を見せていただいたのは 本当に幸運だった。

「このバカげた戦争 日本は負ける」と言っていた傳次郎が 
家族を守るために 写真館を閉じて 長崎を離れた傳次郎が
戦後 写真館の再開を賭けて 通った長崎で  あの原子野のまん中で 何を 思っただろう。 
被災は いつも 二重三重の バカバカしい人災と 苦痛を強いる。


津崎さん 奥様 長い時間 お邪魔して 貴重なお話をありがとうございました。(佐賀ぼうろも 美味しかった!)
水車小屋までの道を 辿りながら伺ったことと お宅で伺ったことを 津崎和朗さんの 話に絞って 構成しました。 ご了解ください。
取材だと思って 遠慮して静かにしてくださっていた?(笑)沈殿組3羽ガラスのお話は 次回のお楽しみに。
| 長崎8人兄妹物語 | 09:24 | comments(2) | trackbacks(0) |

太良 糸岐川に沿って歩く

佐賀県太良町で 津崎写真館の 津崎和朗さんと 
泉おじの 鹿島中学時代の同級生 坂下さん 若芝さんに案内されて 私たちは 糸岐川に沿って 歩いた。

津崎写真館から すぐに 長崎本線の線路を くぐる。
ちょうど 単線の 長崎本線が通る。



泉  津崎さんのところへ泊めていただいた時に、
    すぐ横を 汽車が通って 大きな音に びっくりしたことを 覚えています。
津崎 はあ、そうでしたか。私は兵隊でおらんけんね。
泉   そうでしたね。だからぼくと津崎さんは、戦後からの出会いです。
    洪水の時も 泊めていただいたんですよ。 津崎さんには、本当にお世話になりました。 
津崎 やかましか 親父の 津崎正義ですね。(笑)
若芝 洪水の時は 水車が ここらまで流されたんですよ。



津崎 この川のふちに ずっと桜並木があったんです。
    井手先生は、この道を自転車でうちまで、ばあ〜と走って来なさったですよ。

私の祖父 井手傳次郎が 愛用のルパシカを着て、桜並木の中 自転車を駆る姿が 目に浮かぶ。

たびたびの水害で 桜並木は流されてしまったらしい。
今は桜はまったくなく 岸も高く盛り土し コンクリの護岸になっている。

川をのぞくと 小さな蟹がたくさんいる。 

若芝 雨降り蟹と言ってね、雨が降るといっぱい出てくる。
津崎 もとはここでも食用になる 津蟹っていうのがいましたよ。
―  わ 魚も いっぱいいる。
泉  ハヤですね。 津崎さんとこの 弟のまーちゃんは、ここで魚を獲るのがうまかったですね。
津崎 アハハ あれは 町内じゃヘタのうちですよ。でも魚獲りが好きやったけんね。

川の生き物をのぞく様子は、みんな昔のわんぱく坊主 そのままだ。

泉   山口くんは・・・
若芝 おるよ。上の直次郎もおる。
泉  ああ、そう。あそこも兄弟が多かった。
若芝 だいぶ死んだよ。 山尾、綾部も死んだ。
泉  綾部も? あれは元気そうな感じだったけど。
坂下 田古里、野口、田代も死んだ。順番が来たよ。
泉 順番だね・・・

 歩きながら 泉さんは 60年ぶりに訪ねる 鹿島中学の旧友の安否を確認している。

防空壕があったという 八幡神社。

若芝 ここは タラで一番の お屋敷やった。(右の写真の家)
泉  新宮さんですね。妹の 深雪の同級生がいました。
若芝 新宮家は 3姉妹で、3人とも 長崎の活水女学院に行きよった。
    結婚して今はここには住んでいないけど、みなさん元気でおられる。
    すごいお屋敷で、庭をきれ〜いにしておった。
津崎 このお屋敷の前がずっと桜並木だったんです。
坂下 そしてここを通る時は ピアノが鳴りよったもん。
若芝 そうそう ピアノが鳴ってね・・・・

美人の三姉妹のお屋敷の前を通る度に、
ピアノの音に 胸をときめかせていた 少年たちが目に浮かぶ。 (笑)

井手家の五男テツオが 仰天記憶力で書いてくれた地図で 下の35番が 新宮家のお屋敷。
(八幡神社は記載されていないが、そのすぐ下になる。)

 
糸岐川の河口近くに 桜並木があり、八幡神社にはさまれている。
新宮御殿は グラバー邸を模したという洋館と純日本邸宅の両方に二つの玄関があって、
庭木の間から 山の中腹にある茶屋が 見え隠れしていた。
 新宮さんの次女ヨウコさんが 井手8人兄妹の 末娘 深雪と 仲良しだったため、
夕方 新宮御殿に 深雪を迎えに行くのが 兄テツオの役目でした。
(番号ごとに テツオが細かい解説を書いてくれた)

その川をはさんだ  *印に 粉をひく 水車小屋が あったらしい。
(若芝さんのお話で 洪水で流された 水車小屋はこれだろうか。)

萌橋を 渡ると 多良海道 の道標。 海へ通じる道だから? 



川沿いを のぼって テツオの地図で たんぼ の 字の 向かいで 斜めに 川を渡っているのが
20番の めぐみ橋。



この橋から見える こんもりした竹藪が 井手家が住んでいた 水車小屋の跡らしい。
(地図で 左下 囲みの部分)  田んぼの縁の 彼岸花の赤が あざやかだ。



「洪水で崩れたから、土嚢を積んでるでしょう。(左側カーブの対岸に 肌色の土嚢)
2つの川が合流している中ノ島に井手邸宅はあったんですよ。」 と若芝さん。 



これは井手傳次郎撮影のガラス乾板写真。 
昭和21年頃の風景。 ちょっと高いところから撮影しているが どこからだろうか。

洪水の後 部落の人が石垣を組んでくれたらしい。
右側 井手家の 三角屋根の左下 石垣が見えるだろうか。 
昔は 川幅が ずいぶん広い。 川自身も 護岸されずに 今よりずっと奔放だったのだろう。
奥に見えるのが 経ヶ岳と 五ヶ之原岳。 
泉さんは 経ヶ岳に 津崎さんで登ったことがあるそうで、 
この日は曇ってぼんやりとしか見えないのを 残念がっていた。

井手家の外観 (昭和21年頃) 次女 美夜 三男泉から もらった写真。
テツオの地図には 水車小屋を改造して建てた家と書いてあった。

昭和20年 まだ十代だった井手家の兄妹たちにとって、
長崎響写真館の 贅をこらした洋館をたたんで 疎開した 見ず知らずの土地 多良。
それでも 兄妹たちにとっては 何度も思い浮かべる ふるさと なのか
みんなが 私に写真をくれる。
手前の 草地と 家の縁の濃い緑との間に 川が流れている。



左端に 白い花が咲いているのが 梨の木か。 
このあたりの三角部分が 今では下の写真のように 竹藪になっていた。


 
泉  昔は このへんに(竹藪をさして)梨の木がありました。
   梨を取ってたら、途中から枝が折れてバサ〜ンと落ちた。
   これでもうおれは死ぬんやなと思って、一瞬の間に一生のことがバアアアって
   走馬燈のように廻った。一瞬で一生をおさらいした。

今は 大工さんの 製材所になっている小屋の 裏側からの写真。 
 


右の 昔の写真で 右側の平屋の小屋が テツオ地図 左スギサキ拡大図のΑ’清饐屋 
この小屋の こちらからみて手前に 肥田子(肥溜め 地図ぁ砲あったらしい。
以下 テツオの地図解説より。

 直径40cm深さ50cmの 肥桶を 藁縄でオオコ(天秤棒)に吊し、
のトイレからい糧酖鳥劼泙如.Ε鵐舛魃燭屬里 キヨ(4男清明)とテツ(5男徹生)の仕事。
チンヤホンヤ♪ チンヤホンヤ♪ 先棒と後棒が息を合わせるかけ声。 賀屋のエイホッと同じ。
ウンチの重みで オオコ(天秤棒)がしなる。  その上下運動に 足腰の運びを 合わせる。
このタイミングをはずすと チャッポンと ウンチのしぶきを浴びる。

 それでも少しはこぼれるので、ウンチ街道の畝が濡れる。
ある日 そのおこぼれで ぬるぬるになった土を テツオが踏んだから サア大変。

ツルッ ステン、ストーン!  2m下の 田んぼに墜落。
当然 桶とウンチが テツオの上に 降ってきた。 ザッブ〜ン!
イ涼賄澄 キヨは畑中を ころげまわって笑っている。
テツオはすぐに川に飛び込んだが・・・・・ それから数日間、テツオのからだからは
えもしらぬ芳香が漂っていた。

テツオが送ってきてくれた 昭和21年春の庭。 
毎年 梅干しをつけたという 大きな梅の木。


手前にある 丸い井戸に テツオが落ちたという。 
写真の裏に この井戸は テツオくんが落ちるためにあったようなもの と 桃太郎?の メモがある。 
右から 井手傳次郎 深雪の乳母 5男清明 4男 泉 その後ろに 母親 梅子
その横に 末娘3女 深雪  なぜかテツオは写っていない。(井の中? 笑)


こちらは 梅の木より 北側 地図─ー齢百年の 榎(エノキ)
昭和21年頃か。 家族全員が そろっている。 右端の次男幸蔵さんが 外地から復員した時の記念かもしれない。 
次女 美夜おばにもらった写真。

左前列から 傳次郎 梅子 5男徹生 次女美夜 3女深雪 
都城から復員した 長男 桃太郎 
その後ろ右端に立つ シンガポールから復員した 次男幸蔵
四男清明 三男泉 長女夏木 乳母

すぐ後ろに 河原が見える。 
 
地図梅の木と ┗櫃隆屬法´が 川原に降りる石の階段下の洗い場がある。(今はない)

これらの写真は 写真家 傳次郎が写っているところから推察すると
多良で 写真技術を教えた 津崎和朗さんが 撮影したものかもしれない。

現在は 大工さんの 製材所になっている 作業場に 入らせていただく。
テツオが 落ちた井戸も 梅の木も 姿は変われど あった!
写真だと もっと 大きな井戸に見えたけどなぁ・・・・・ 

現在の井戸と 梅の木(泉さんの後ろ)  やはりすぐ下が 糸岐川だ。


坂下 玄関の横に柿の木があったろ。
    おれは、お父さんと挨拶するのがうるさいから、
    玄関から入らんで柿の木さ上ってあんたの部屋に入ったとよ。
    下で深雪ちゃんが、「なんか上に人がおるよ」って言ってた。(笑)


― てっちゃんが送ってくれた2階の写真がありますよ。津埼のマー坊も写ってる。
   ここに、柿の木から 上ったんですね。

左から 長男桃太郎 下のほおづえついてるのが 津崎さんの次男マー坊、
その後ろ テツオ、清明 美夜 夏木 幸蔵、深雪 泉

 テツオの地図でも 庭には梅、柿、梨の他に イチジク、桃、ザボンの木もあり、
子どもたちの楽しみだったようだ。

作業場の横から 川原におりる。 昔は 川でよく鮎が獲れたという。


―   わぁ、いいところですねぇ。 
若芝  ここは夏はホタルがいっぱい。ずっと下までホタル。
―   わぁ、今でもですか? 見たいなぁ。
津埼  昔は もっと川もきれいだったからな。住まうのはタイヘンだったですよ。電気も水道もないけんね。
     私が終戦直後に帰ってきて、井手先生のところにお世話になったとき、電気がないからいろりを囲んで、
    井手先生が「テツオ、炭持って来い!」って言われたら、テッちゃんが籠に炭をいっぱい入れて、
    「ぶ〜ん」って飛行機みたいに持って来て、私の前に「バクダン!」って炭を落としたとです。
    あん時、先生が怒るばいって私は思ったんだけど、先生は怒らなかった。
    テッちゃんの思い出では、あれが一番印象に残っています。
―  アハハ テッちゃんらしい。ランプのほや磨きが、おれの仕事だってテッちゃん言ってました。
   でも多良はすごいニュータウンになってるかなと思ったけど、
   川も 田んぼも テツオの60年前の地図と あまり変わっていませんね。そのままだ。
   井手家は 昭和20年の4月から、昭和26年に奈良に移るまで、ここに住んでいたんですね。

津崎 昭和17年でしたか、うちの親父が町議やったもんですから、
    「家を探せ!」って鹿島の代議士さんに言われて。
―  なんて代議士さんですか?
津崎 たぶん愛野時一郎さんだと思うんですけどね、もう亡くなったので、確認は取れません。
    息子は私と同級生です。 「家ば探せ!」といわれても戦争中でしょう? そんな家があるもんですかね。
    うちの親父もへんちくりんで、ありませんって言えば済むものを「あるよ」って言ってしまったんですね。
    それで井手先生がここの水車小屋を見に来て、
    「こげんいいところがまだ日本にあっとか。」って言われたそうです。
―  傳次郎、ここが気に入ったんですねぇ。 それで長崎の響写真館を引き上げる決心をしたんですね。

| 長崎8人兄妹物語 | 20:46 | comments(4) | trackbacks(163) |

佐賀県多良町 津崎写真館 再会!沈殿組

佐賀県太良町のHPによると
太良の表記は 昔は 多良だったが 昭和30年に隣の大浦村と合併し 太良町になったという。
町のどこからでも 多良岳と有明海が見え、干満の差が8メートル もあるので
「月の引力が見える町」 が キャッチコピーらしい。

仰天記憶力で 60年前の 地図を書いてくれた テツオによれば、
おれたちにとっては タラは太良ではなく あくまで多良だそうで。(合併前に奈良に引っ越してるからね)
私も 今現在の 太良と 60年前の多良と おじおばたちの話の中で 音だけでイメージしていた タラと
表記を わざと統一しないで 書いている。ややこしいでしょうが おつきあいください。

「長崎から 多良へ 疎開するときは トラックの荷台に乗って移動したのを 覚えています。」
太良町に近づくと、泉おじは レンタカーの後座席から 身を乗り出して 言った。

「舗装してないデコボコ道で 土ぼこりがすごかった。
風で 帽子がポ〜ンと飛んでね、 一つ帽子を なくしました。
しかし こんな道やったかなぁ・・・・」
旧道は、今走っている 新道より 一本山寄りに あったようだ。

「お電話でもお話しましたが、僕の鹿島中学時代の悪友、沈殿組の2人が、ぜひ会いたいと言うのです。
それで太良に着いたら、まず彼らに 時間を連絡しなきゃなりません。」
「それは楽しみですね。津崎さんと 水車小屋に どれくらい時間かかるかわからないので
夜にホテルの方に来ていただいた方が 確実かもしれませんね。」
泉さんは 60年ぶりの訪問に すごく緊張しているようだった。 


糸岐橋を 渡ると 津崎んに言われたとおり、セブンイレブンがあった。

津崎酒店がつまり、セブンイレブンなんだろうか。 
地方では、酒屋さんが なかなか成り立たなくて コンビニにする例がある。
 
セブンイレブンに入って聞こうと 駐車場に車を止めたが、
「わぁ これが 糸岐川か!」 思わず 川に惹かれて 今渡った 糸岐橋の方に かけていく。

糸岐川は 思っていたよりずっと小さく 川の上流に 山が見える。
でも 川は あった! 暗渠じゃなかった。 いいところだなぁ! この位置から 振り返るとすぐ
 有明海が見える。



 津崎さんに 電話する。
 「先日お電話した 井手傳次郎の孫です。 今 糸岐橋のセブンイレブンに 着きました!」
「おお! うちは 旧道の、一本奥に入ったところです。」

どうやら セブンイレブン= 津崎酒店ではないらしい。
携帯で 電話をかけながら セブンの駐車場の車に 奥に行くように 手で指示して
自分は 川沿いに歩いて行くと  あれれ? 

なんだかすぐ向こうで 何人か人が動いているのが見えたような・・・ 
つい吸い込まれるように 川沿いに上ると

津崎写真館 と 看板が見える。

え? え〜? これは まったく 予期してなかった。
「津崎写真館って書いてある! 写真館 ほんとにやってたんだ!」 びっくり仰天。




「津崎和朗さんですか? 」
「はい、そうです↑。 津崎和朗です。」
電話と同じ かくしゃくとした 語尾が上がる感じの 若い声
津崎和朗さんに 初めてお会いする。
電話よりも さらにお元気そうで ダンディな方だ。

           
  「井手傳次郎の孫の 根本千絵です! こんにちわ〜!わあ、写真館されてるんですね!
「いや、もう写真館はやっていません。 看板だけあげとるんです。 目印になっと。」
電話では 写真館の看板を目印にとは 一言も言われなかったから 不意打ちをくらった気分。 
でも でも 感無量! 井手傳次郎に写真技術を教わった 津崎写真館が
ほんとに 多良・糸岐川のほとりに 存在したのだ!

「わあ おじいさんになってる〜!」
車から 降りた 泉さんに 駆け寄る男性。
「はい、 おじいさんになりました。」と 泉さんが 敬礼する。

なんと 泉さんの 鹿島中学の 同級生 若芝さんと坂下さんが
津崎写真館で 旧友を待ち構えていたのだ。

「おお 変わったばい! なつかしか〜。」 60年ぶりの 再会。 旧友と抱き合う。


   「わあ お父さん(井手傳次郎)にそっくり!」と津埼さんの奥様。
「あんた、親父さん、傳次郎さんに似とるばい、そっくりや。」と坂下さん。
「似とる、似とる、そっくりや。後で写真見せます。」と津崎さん。

鹿島中学 沈殿組 坂下さん 若芝さん 井手泉                                        


泉  みんな悪かったんですよ、この3人は。
坂下 多良の三馬鹿って 呼ばれとったよ。
ちえ キャハハ、沈殿組 再会スペシャルですね!(笑) 
    坂下さん? 私 夏木の娘です。
坂下 おおおおお! 夏木さん、知っとおよ。(抱き合う)
      おいの妹とテッちゃんが同級生やもん。そいで、いっぺん同窓会に来とるんよ、テッちゃんは。 深雪ちゃんとも 文通しとったもん。
泉  僕が筆無精でご無沙汰ばっかりするからね、代わりに妹の深雪が手紙書いてくれたんです。
ちえ  深雪ちゃん 夏木と同じ年に 66才で死んじゃったんですよ。
坂下 そうて そうて。 

なんだか 私までが 旧友に会った気分。(なぜかどこへ行ってもそうなる私) 
佐賀弁シャワーが 心地よい。
思いがけないサプライズ!  82才3人と85才の生き証人がそろい踏みだ。(笑)

明るいうちに みんなで 井手家が借りていた 水車小屋跡まで 歩いて見に行くことにする。

| 長崎8人兄妹物語 | 07:25 | comments(7) | trackbacks(0) |

有明海 

有明海。  なんと 美しい 海の名前。
あ音と か音と のぼる朝日のイメージが 見たこともない海への想いを 募らせる。



長崎八人兄妹物語 5男テツオの話の中で 嵐の日に 糸岐川が氾濫して
傳次郎が大事にしていた 数百万相当の 盆栽は 濁流とともに流され
有明海の藻屑と消えちまったぜ〜。 

講談調の話を聞いていたので、なんだか 外洋に開けた大きな海の気がしていたが、有明海は その語感とはちがって 
佐賀県と長崎県と熊本県、それから柳川大牟田のあたりで福岡県にも囲まれた 大きな丸い湾だった。

干満の差が大きく、日本最大の大きな干潟で 独自の生態系が豊かな海産物を育てるという。
海苔の養殖の竿が並び 太良は 蟹が名産だ。
有明海の西南の一部、 島原半島で 囲まれた部分が 諫早湾。
干拓事業で 生態系を壊す ギロチン堤防が 物議をかもした。

すぐ向かいに 雲仙普賢岳そびゆる島原半島が見える。

我が家の子供たち3人がまだ小さい頃(1992年頃か) 
私の母が おばあちゃんの故郷を見せたいと 長崎へ連れて行ってくれた。
できたばかりの 佐世保のハウステンボスと 2日目は長崎市内、3日目は雲仙普賢岳に行って 白い馬に乗った。
その直後に 普賢岳が爆発して 子供たちは 白い馬は大丈夫かと ずいぶん心配したっけ。
なんだか すべてはあらかじめ 仕組まれたように 配置されているなぁ。(笑)

9月30日、82才の泉おじと諫早駅で合流した後 車は 有明海沿いに 佐賀方面太良へ向かった。

右手に ずっと 有明海。
左手には 正面に多良岳。 その裾野に みかんの段々畑。
そういえば 母は ♪みかんの花が咲いている〜 という 歌を 子守歌によく歌ってくれた。
田んぼの縁に びっしりと真っ赤な彼岸花。 佐賀はなぜこう 彼岸花が多いのだろう。
時々 カニや 牡蠣の 直売所がある。

道路と 平行してずっと 長崎本線の単線が 左を走っている。

そう、ほんとは この長崎本線に乗りたかった。
車窓からの 風景を 見たかった。

この『長崎八人兄妹物語』は 2005年に脳の悪性リンパ種で亡くなった 私の母 夏木が持っていた
被爆者手帳 被爆年齢17才 の文字を見た時から始まった。

母から原爆の話を一度も聞いたことがなかった。
脳がやられて失語した母から 母の物語を聞くこともかなわず、母の死後、私は母の兄妹たちに 素朴な疑問を聞いてまわった。
『長崎八人兄妹物語』は その聞き書きの記録である。

家族が 佐賀県多良に 疎開したのに 少女はなぜ 一人長崎に残ったのか。
疎開先で 学徒動員に参加することは できなかったのか。
そもそも17才の少女が、長崎のどこに 誰といたのか。

おじおばたちへの 最初の問いは これだった。

昭和20年8月8日 17才の少女夏木は 学徒動員で働いていた 長崎の兵器工場から
めったに取れない休暇申請が認められて 家族が疎開している 佐賀県多良へ 帰った。

三菱造船のお膝元 軍事の町と化していた長崎の ピリピリした空気から 
長崎本線に乗って 多良へ向かう時、17才の少女は何を 思っていただろう。 

それが 今回 私をタラへ 駆り立てた 動機である。


足におできが できて 兵器工場に 休暇を申請したのだという。
  
でも なぜ おでき?
おでき という響きは どこか喜劇的だ。

致命的な怪我や高熱と違って、本人の苦痛以外に 作業に支障をきたすとは思えない。
おできごときで、 あの非人間的な 国家総動員の時に、よく休暇申請が認められたものだ。


気丈な軍国少女を 八月八日 長崎から動かしたのは、本当におできだけだったのだろうか。
おできを理由に、家族の元に帰りたい 「なにか」が あったのではないだろうか。

2番目の問いは これだ。 これは今まで 誰にも聞いたことがない。 
全体を通して 一番知りたい問い。 多良へ向かう この道で、あの日の17才の少女に 向けたい問いである。

学徒動員で 通っていた 長崎大橋の三菱兵器工場は 魚雷回天を作る工場だったという。
特攻隊と同じ発想で、人間が魚雷に乗って、敵の船に突っ込む 自爆型の魚雷だ。

もちろん 学徒動員の少女に 魚雷の全貌など 知るべくもない。
長崎に一人残った 気丈な軍国少女であったが 
なにか 息苦しさが飽和点に達して ふと家族を 思った。 のではないか。
8月6日 広島に新型爆弾が落ちた報が 話す家族もいない 少女を ざわざわ不安にさせたのかもしれない。

父親 傳次郎なら どう言うだろう。
答えは わかっていたのに あえて それを聞きたくて 帰った。 私には そんな 気がしてならない。


家で父が「日本は負ける。まったくバカげた戦争だ」とつぶやくのを聞くたびに
(非国民)とひそかに反発する一方で、

町にひろがる「鬼畜米英」の勇ましいスローガンには、
やさしかったアメリカの先生方を思ってどうにもなじめず、
(夏木は活水の英文科でアメリカ人の先生が大好きだったから)

「海ゆかば水漬く屍・・・・」と歌うときには、その莊重な悲しい響きに、
皇国臣民の誇りと高揚感を覚えたりもする。

さまざまに分裂した幼稚な頭で、
私は(国家ってナニ?)と悩みながら うろうろしていたが、
すでに「自分」という存在と、 「国家」という見えない存在とのギャップを、
深いところで意識しはじめていたのは たしかだった。

                         (「共生の地球を夢見て」 針生夏木 授業を創る誌)

母が70才で初めて書いた随想の中の一文だ。 

今読み直すと 私の問いへの答えは なあんだ ちゃんと本人が書いているじゃないかと あらためて驚く。(笑)
8月8日 小さな岬を へつるように どこまで行っても有明海が続く 長崎本線に揺られながら 
少女の中で 渦巻いていたのは 言語化されていない こんな思いだったのでは ないだろうか。

ひさしぶりに戻った 姉さんを 迎える家族。
どう歓迎したものか みんなが 少し浮き足立つ。
「夏木姉さんは ほとんど多良に帰って来なかったよ」 4男キヨアキは言っていた。
兄さん2人は出征しているので 弟3人と妹2人 父と母が 多良の生活を やりくりしている。

いっぱしの 百姓みたいに みんなそそくさと 自分の仕事に 没頭するフリをし
夏木が大好きな おちゃらけた弟テツオが 歓迎大サービスで バカをやってみせたかもしれない。
叱る父。 笑う母。

嬉しい感情とはうらはらに どこかみんながちぐはぐな 居心地の悪さ。
それが 運命の前夜だとは 誰も知らずに それでもひさしぶりにそろった 大家族の夕方だ。

「夏木さんは よくレコードをかけてましたよ。」 泉おじは言う。 
「だって電気も水道もないところなんでしょう?」 
「手回しですから。」
「アハハ そうか 蓄音機って 電気じゃないんだね。」
「手回しです。 夏木さんは 多良にいる間は よくこうやって レコードを 聴いていました。」 

泉おじは 蓄音機のハンドルを手で回す仕草をした。
「夏木が帰ったときのことを 覚えていますか」と 聞いたときだ。

電気も水道もないところで この家族の中に 静かにできつつある 生きていくための秩序。

長崎の軍需工場で 自分を駆り立ててきたものと 明らかに違う。
ズレているのは 家族なのか 自分なのか。

所在なく 蓄音機のハンドルを回して かけていたのは なんの曲だったろう。

8 月9日。 少女は 長崎に戻ることは できなかった。 
朝早く 多良を出発しなかったのが 幸いか。
少女が 長崎に戻ったのは 8月16日。 終戦の翌日だった。






 
| 長崎8人兄妹物語 | 07:56 | comments(4) | trackbacks(0) |

タラへ

そうだ タラへ行こう!
そう思いついたのは 8月27日。 なぜか いつも 突然ひらめく 私。(笑)
8月23日 友人ミチコの命日に スイッチが入って、
震災以来 まったく手をつけられずにいた 『長崎八人兄妹物語』 の書き直しを始めたところだった。

タラ という地名を聞くと、行ったことも見たこともない土地なのに なぜか なつかしくなる。

映画 『風と共に去りぬ』で ビビアン・リー扮する スカーレット・オハラが 
すべてを失って帰る 実家の農園が タラという地名だったから。 だろうか。

空腹のあまり 土の中のニンジンかなにかを 掘って食べるスカーレットが
「つらいこと、考えなくちゃいけないことは 明日考えよう。
ともかく生きていかなきゃいけないから。」と 立ち上がる。 そして 農業を始める。

タラは 私にとって そういう 帰るべき大地のイメージだ。

私の祖父 井手傳次郎と 井手家の人々が 長崎の響写真館をたたんで 疎開していた 佐賀県の町タラ。 
行ったこともないし どこにあるのかも よく知らない。 そもそも佐賀県は まだ行ったことない 未踏の地だ。

長崎八人兄妹の5男 テツオが 書いて送ってくれた 地図がある。
タラの 井手家が住んでいた 水車小屋の周辺だ。


昭和20年当時の 佐賀県 藤津郡 多良町 糸岐 字 針牟田 

よくまあ 60年以上前の 6年しか住んでいない土地の地図を こんなに再現できるものだ。
テツオの 仰天記憶力には 兄妹たちも 感心する。

「タラは、川がすぐそばにあって ほんとに いいところだった。」 母が話してくれた。

この地図の 風景の中に 立ってみたい。

 「タラは川がすぐそばで 海まで歩いて 30分くらいで いいところだったよ。 
疎開民はよそ者だから しいたげられたけどね。」(四男 キヨアキ)

 「お隣さんがさ、田んぼのあぜ道を500mくらい行かないとないんだぜ。(笑)
 電気も水道もないところだったからさ、この草は食える、この草は食えない、原始の生活だよ。
滝つぼに飛び込んで、魚を捕る。楽しかったさ〜。俺は野人だからね。」(5男テツオ)

「タラは文化果つるところでしたからね。 ガスもない、水道もない、電気もない。
 そういうところで生活してみたら、こっちの方が面白いぞって思った。厳しいけどね。
本当に感動する自然との接触もこの地で体験しました。」(4男イズミ)

イズミが 毎朝 有明海から上る朝日に 敬礼をしたという高台は この地図でどこなのだろう・・・・
今は 便利なグーグルマップなるもので 探してみるが どの川筋なのか いまいち確信が持てない。

今は 面影もない ニュータウンになってしまっただろうか。
川は コンクリで固められて 東京みたいに 失われた川 暗渠になってしまっただろうか。

やはり この地図を書いてくれた テッちゃん(徹生)か 泉おじに 道案内を頼まないと ダメか。 
しかし 2人とも もう80才前後だしなぁ・・・・

「一度 太良へ行ってみるといいですよ。
疎開した時 よそものと疎外感を持ったおじさんたちの印象とは別に 土地の方々の感情もあるでしょうし
行かなきゃわからないこともある。」と 福岡の出版社のNさんからも アドバイスをいただいていた。 

井手家が 長崎から多良へ疎開したのは これまでわかったことで 昭和20年の4月。
終戦で 長崎に戻るかと思いきや、長崎には戻らず 昭和26年に 井手一家は 奈良へ引っ越したらしい。
疎開していた頃の 井手家を 覚えている人が いるだろうか。 どうやって 探せばよいのだろう。

手がかりは 4男キヨアキの話に出てきた ツサキという醤油屋さん」だ。

「初めは 糸岐の ツサキっていう 醤油屋さんに 居候させてもらった。
どういう 繋がりだったんだろう。 たしかそこの息子に 写真技術を教えるって名目で 
居候させてもらったんだと思う。 広い家だったよ。」

前にも何度か ツサキ醤油店を ネットで検索したが 見つからなかった。
傳次郎に写真技術を教わった 息子さんは その後写真屋になったのだろうか。
津崎写真館 で検索したが かんからかんのかあん『長崎八人兄妹物語』か ヒットしない。(笑)
ネットに出す世代じゃないものなぁ・・・・・

今回 佐賀県タラ ツサキで 検索したら あれれ? 前には出なかった 
津崎酒店 が出てきた。
酒店なら 醸造業、配達専門でも 土地の事情に詳しいはず。 電話してみた。 9月6日だ。

「あのう、失礼ですが、ご親戚か お知り合いで お醤油屋さんか 写真館やられていた方、ご存じないでしょうか。
私は 昭和のはじめに 長崎で響という 写真館をやっていた 井手傳次郎の孫で、
傳次郎が 疎開していた時 お世話になった 津埼さんという お醤油屋さんを 探しているんです。
そこの息子さんに 傳次郎が 写真の技術を 教えたというので、 もしかしたら 写真屋さんになったかもしれません。 
どなたか ご親戚で そんな話を 聞いたことありませんか。」

電話口に出られた男性は いい声で 闊達なしゃべりで 60代くらいの 印象だった。

「あ それは 私の父 津崎正義です。 父が 鹿島の代議士さんに頼まれて 家を 探したとです。」
「え? え? じゃあ お父さんが お醤油屋さん なんですか」
「はい、井手先生から 写真を教わったのは、私です。 津崎和朗です。」

「え? あなたが 傳次郎から写真を習ったご本人なんですか? 」
 
なんて ドンピシャな! 夏木マジック? ミチコマジック? 
受話器を持つ手が震えて 鳥肌が立つ。

「はい、私は もう85才ですが、 傳次郎先生に ほんとに お世話になりました!
井手傳次郎先生 なつかしい! うちにも 写真がたくさんありますよ! おい! おい!」
声の主はあわてて 電話口で 奥の奥さんを呼んでいる。

「ええええ 85才? 声が若い! わあ お会いしたいです。 
9月30日に 初めてタラに行くので お訪ねしても よいでしょうか。
井手家が疎開していた場所に行きたいんです。」
「どうぞどうぞ 水車小屋の跡に ご案内しますよ。」

ぎゃあああ なんという幸運!  

昂奮のあまり すぐに 奈良の泉おじに 電話した。

「いや〜 津崎さんですか。 和朗さん、覚えています。なつかしいなぁ。
僕は 長崎にも多良にも きちんとお別れのご挨拶もせずに 奈良へ来て60年 一度も ちゃんと帰ってないんですよ。 
死ぬまでに 一度行きたいと思っていたんですが」
「え? なら 泉さん 行きますか? レンタカーするから 長崎空港にさえ 来てくれれば 後は 車でまわりますから。」

勢いで 思わず 誘ってしまった。
強行軍で タラと長崎を回る弾丸ツアーなので おじさんを誘うことは まったく考えていなかったけど 
泉さんが来てくれるなら 場所もわかるし 津崎さんと面識あるなら 会ったこともない私だけで 行くより
話もしやすい。 助かるなぁ・・・・

「あ でも おじちゃん 無理しないでね。
でも なかなか こういう機会はないし みんな80過ぎて だんだん動けなくなるから
思い切って行こうと思ったら 宿など手配しますから 連絡ください。」

誘ってるのか 誘ってないのか。(笑)

泉おじは 奈良の千石先生と 呼ばれる 蛙 蛇博士で 吉野の山奥などに 蛙を追って歩いているから 気軽に誘ったものの、
後で 考えたら おじちゃんは 胃を全摘して 食事が 普通に摂れないらしい。
まだまだ残暑が厳しく  脱水症にでもなったら タイヘンだ。
行き帰り同行できないのに 慣れない飛行場で 会うなんて うまくできるだろうか。

数日後 電話がないので 電話してみた。 
いくらなんでも 姪のいきなりの誘いに 悩ませていたら申し訳ない。 無理しないで。 と 言うつもりだった。 


「家内とも相談しましたが、こんなおんぶにだっこの機会はまたとないので 行くつもりでいます。」

「え? 行くの? やった〜!」  私は はねた。

こうして 9月30日 前日に38度の熱が出て 体調が心配されたのは 私の方だったが(爆)
飛行機はやめて 京都から新幹線で 単身長崎入りした 泉おじと 諫早の駅の待合室で 無事に会うことができた。

イサハヤ

ミヤおばの話の中で、 次男コウゾウ兄さんが 久留米の連隊から 外地に出征するというので
母梅子と 夏木姉さんと ミヤで面会に行ったが 部隊は 夜中に 秘密裏に出発。
次男コウゾウには会えず、梅子さんが作った 栗ご飯を 夏木と梅子さんが 泣きながら食べたという 諫早駅だ。 

音だけで 私を誘っていた 地名が 
その土地へ行けば 風景とともに あぶりだしのように  輪郭を持って 浮かびあがる。

車は 諫早から 多良へ。
津崎さんに教わった 太良糸岐橋 新しくできたセブンイレブンを 目指して走り出した。 





 











| 長崎8人兄妹物語 | 18:18 | comments(8) | trackbacks(7) |

話したこともない祖父 写真家 井手伝次郎

私の母方の祖父 井手伝次郎は 長崎で 響写真館を営んでいた。

前の記事に書いたが、
響写真館は 親から代々受け継いだ老舗ではなく、 
親の借金を返すために 仕方なく東京から長崎に戻った 井手伝次郎が 
ゼロから立ち上げた 写真館だった。



8人いる子どもたちの 上2人は 東京、佐世保生まれ。
3番目に生まれた女の子翠は(大正14年)は 長崎船大工町で 生まれてすぐに死去。
その後 昭和3年に生まれた 母夏木以下5人は みな響写真館の住所=長崎片淵町生まれなので 
響写真館を構えたのは 昭和元年か2年ということになる。

ツタのからまる しゃれた調度の写場(スタジオ)で撮る 記念写真。
女性たちは、響写真館で 写真を撮ることが 憧れだったそうだ。



                                                            


画家をめざして 17才から東京に出た伝次郎の 
構図と 修正技術が評判を呼んだらしい。



右が修正前。 左が修正後。 ガラス乾板に ニスのようなものを塗って
エンピツで 丁寧に修正していくので デッサン力が 大きく左右したらしい。
お弟子さんも 女中さんも 大勢かかえた。


しかし 戦況悪化の中で 伝次郎は 軍部の検閲にうんざりし、
兵隊の写真撮影を拒否したために 憲兵から叩かれ 配給を断たれ 
写真館を閉じざるをえなくなって 佐賀県太良に疎開した。

原爆以後 長崎には戻らず 家族で奈良に出たので
響写真館は 昭和のはじめに 長崎にたった18年だけ存在した 
一代限りの写真館だったことになる。

私が赤ん坊の時に 奈良で一度だけ 祖父に抱いてもらったことがあり、
「この子には 私の血が流れている」と 初孫の誕生を喜んだそうだが、
もちろん 赤ん坊の私に記憶はまったくない。
いわゆる 「長崎のおじいちゃん」という 土地と暮らしぶりがセットになった 祖父の思い出は
私には 何一つないのだ。

母の死後2007年から始めた おじおばたちの聞き書きを 
『長崎八人兄妹物語』として公開していく中でも 
祖父のことは 写真館の興亡もふくめて みんな初めて聞く話ばかりだった。

長男桃太郎の死後 発見された1300枚のガラス乾板を 私が譲り受け
タケミ・アートフォトスさんに 全部焼き付けていただいた。
たくさんの 家族スナップ写真と共に、当時の暮らしぶりが 画像を持って 浮かびあがった。







『長崎八人兄妹物語』 を なんとか本にしてほしい。

ブログを読んだ友人たちから言われた 嬉しい反応に 後押しされて
2年前から 色々な方に時間を割いていただき 原稿を読んでいただいている。
が 私の力不足で 現実は そう簡単には 進まない。

私の中でも 17才で被爆 という母の原爆手帳を見たことから
長崎大橋の三菱兵器工場に 学徒動員で 通っていた母が
なぜ8月8日、つまり原爆前日に 疎開先の家族のもとに帰ったのか、
それまで長崎で 娘が一人 どこにいたのかを知りたくて始めた 聞き書きだったので、
おじおばたちの話で 次第にわかってきた 祖父井手伝次郎の 生き方や 
ガラス乾板の発見で 浮かび上がる 響写真館の興亡 など              
テーマと切り口が 絞りきれずにいるからだろう。 




息子たちが語る 父親 伝次郎の 
ヨーロッパの哲学や芸術への傾倒に根ざした 徹底した個人主義。
ある意味その気骨のために 響写真館は
昭和の軍国主義の中を 生き延びることができなかった。    

そういう気骨ある家族が 
日本のあちこちに たくさんいたのだと思う。
ひとつの精神の系譜として 知っていただけたらと思う。 
      
長崎に たった18年しか 存在しなかった 響写真館。

私は 話したこともない祖父 
写真家 井手伝次郎に 何かを託されたような気がして
『長崎八人兄妹物語』 の 出版に 駆られてしまう。




  
| 長崎8人兄妹物語 | 13:52 | comments(1) | trackbacks(0) |

長崎響写真館 井手伝次郎 写真画集 『長崎』

私の母方の祖父 井手伝次郎は、長崎で 響写真館を営んでいたが、 生前 写真画集『長崎』を出版している。

 

これは 母が大事に持っていたものであるが 長崎響寫真館謹製 大阪の細谷眞美館印刷
昭和16年11月13日 長崎要塞司令部検閲済の判が見える。
                                      
 

写真画集は 眼鏡橋 オランダ坂 浩台寺 大浦天主堂 築町河岸 崇福寺 福済寺
諏訪神社 おくんち ・・・・古きよき 長崎の景色と 詩が載っていて 静かな情緒が 伝わる。
古本屋のネットで 井手伝次郎の写真画集『長崎』は 昭和3年のものが35000円で出ていた。

広辞苑を編纂した 新村出が 長崎に旅した時の 紀行文『南国巡禮』に

 響写真館の井手君がその卓越した藝術心から生んだ寫真帳に
 長崎と題する新刊書がある。
  私たちは旅舎の高楼に海から吹いてくる涼風にふかれつゝ 
 その書をひもといて
  長崎の古今を一様に、夢幻の裡に 望見した。
 詩だ、繪だ。
 とろけさうになって私はもうこの上は 
どの寺、どの街と一々見てあるくのは 却って愚だと思った。
 
              新村出 南国巡禮 朝日新聞社 
                                                      昭和2年発行

  と書いてくれている。



この写真集も含めて 響写真館の スタジオ写真や 長崎の風景を写した何枚かの写真は 
母の発案で 2002年に 東京都写真美術館に寄贈した。

ところが 2009年の泉おじの取材の時に 
写真美術館の現館長である 福原義春さんの 祖父かおじにあたる 資生堂先代の福原さんと 
井手伝次郎は 交流があったと 泉おじと睦子おばが話していて びっくりした。 

そして あれこれ調べる中で  『写真家・福原信三の初心』 山田勝巳編著 求龍堂
『巴里とセイヌ』や 『光と其諧調』を見て さらに私は驚いた。
福原信三さんの写真と 井手伝次郎の写真が よく似ているのだ。

「資生堂ギャラリー七十五年史をまとめた方が 伝次郎と交流あったのは、
たぶん福原信三さんでしょうって。 写真もすごく似てるよ! 影響受けてたんじゃないかなぁ。」
奈良に住んでいる 泉おじに電話した。
「ああ ああ そういえば 家には 井手伝次郎様と 宛書きのある 
福原さんの 写真集がありましたよ」
なんだぁ おじちゃん 早く言ってよ!(笑) 
写真集は 探してもらったが 未だ見つかっていない。
長崎から佐賀へ 佐賀から奈良へ 奈良の家ももはやない 流転の中で 紛失したのかもしれない。 

長男桃太郎の妻 睦子おばの話では、 
伝次郎は井手家の長男だったのに 4才で浦上教会に預けられたという。
そのことで父親に対して 並々ならぬ反発心があり、
画家をめざして 長崎海星中在学の時 同じマリア会系の神父さんの紹介で 
東京の暁星中に編入するため 単身上京したらしい。 

文献資料が 長崎から取り寄せた戸籍謄本と 長男桃太郎が書いたノートしかないので、
ウラを取るのが大変だが 海星中に電話して 在籍名簿を調べてもらった。
井手伝次郎は 明治39年に 長崎海星中に入学 40年3月に除籍退学になっていた。

その時 伝次郎は 17才。 

東京の暁星中にも 問い合わせたが 
戦災で資料が焼けたため 在籍名簿の確認は できなかった。

そして 前の「ときの忘れもの」の記事で書いた 古河梅子と 東京で結婚。
大正9年 長男桃太郎の出生届けは 東京都赤坂区青山南町3ノ36番地。

港区役所に問い合わせると 現在は 南青山2丁目19番あたり。
ちょうど青山霊園の入り口付近らしい。 

その頃東京では 大正10年に資生堂の初代社長福原信三が「写真芸術社」を興し、
『写真芸術』を創刊。
大正8年に資生堂化粧品部二階に開設した陳列場(資生堂ギャラリーの前身)で
写真展も開催している。(『写真家・福原信三の初心』福原信三年譜より)

東京にいた井手伝次郎が その写真展を見て 啓発されたことは 十分ありえる。

私の母が 70才の時に書いた随想には
「問わず語りで母から聞いた話では、父は海軍の御用商人だった自分の父の生き方に反抗して上京し、
画家を志して美術学校に入学したが、途中で写真の面白さにひかれて転向し、
当時の東京の青年たちに流行していた、いわゆる大正リベラリズムやアナーキズムにも感染し、
あの震災で向学を断念すると、それを契機に 故郷に帰って 写真館を始めた。」
 (針生夏木 『共生の地球を夢みて』 授業をつくる誌)
と書いてあるので 
東京にいた時に 写真に惹かれたことは確かのようだ。




ガラス乾板の中にある この2枚は 長男 桃太郎が ごく小さい時1才前のものだと思うが
祖母 梅子がまげを結っているところをみても 青山時代の写真と思われる。
そうであるなら 東京にいた頃に 伝次郎は すでにカメラを持っていたわけだ。

ところが 次男 幸蔵の出生届けは 大正11年 佐世保市天満町。

次男の出産で 梅子の実家がある佐世保に 母子は帰っていたのだろうか。
伝次郎は 桐材の仕入れで 東北を回っていることが多く 留守がちだったというから。
その間に ちょうど関東大震災があって 青山の家が 倒壊したのかもしれない。

一家は その後 東京には戻らなかった。

なんという 運命のいたずらか・・・・
ちょうど ずっと反発してきた 父親乙松が 商売を拡げすぎて 多額の負債を背負った。
伝次郎は それを返すべく 家族を養うべく 
長崎で 新しい仕事を 始めるしかなくなったのである。
(乙松じいさんは 長生きしたが 原爆で下ン川で 亡くなった)

東京で 資生堂の福原信三さんが立ち上げた 芸術写真社とその写真が、 
若き井手伝次郎の 心に 熾き火のように あったのかもしれない。

画家をめざしていたのに 長男、次男の病気、急逝で 家業の資生堂を継がざるをえなかった
福原信三さんが、芸術への思いを捨てきれずに 経営の傍ら 写真芸術社を立ち上げたことは、
同じ状況の伝次郎に 大いなる励みになったのではないだろうか。

鬼籍の人への インタビューは叶わないので すべては 想像の域を出ないが、
こうして青春時代を過ごした東京に別れを告げて 長崎に戻った 井手伝次郎は
上野彦馬の弟子にあたる 渡瀬(貞三)写真館で 技術を教わり、
長崎片淵町に  響写真館を 立ち上げたのである。
| 長崎8人兄妹物語 | 12:37 | comments(3) | trackbacks(0) |

ときの忘れもの

ときの忘れもの という 妙に惹かれる 画廊の名前を知ったのは
ぱくきょんみさんの すうぷのために展(2008馬喰町art&eat)に
オーナー夫妻が いらしていたから。

何度か 展覧会の案内の葉書をいただいて  写真展もよくやるギャラリーなんだなと思っていたが
大好きな 植田正治が出るので
2009年6月に 写真の勉強で日本に来ていた 韓国のチヨナと見に行った。

 へえ 青山に こんなところが あるんだあ・・・・
表通りから 階段を下りて その名にふさわしいような 袋小路に入っていき、
まさに タイムスリップしたような 不思議な感じがした。

思ったより小さなスペース。 でも大きなガラス張りの窓が明るく 
ギャラリーというよりは 設計事務所かなにかのような 空間だ。
画廊は 絵を展示する性格上 壁がいるので どうしても窓が少ない 密閉空間が多いから、
このガラス張りは すがすがしい。 
 
去年の秋 資生堂創業者福原有信氏、初代社長福原信三氏のことを ネットで調べていた。

私がブログで連載してきた 母の兄妹の聞き書き『長崎八人兄妹物語』の取材の中で、
私の祖父で 長崎響写真館館主の 井手伝次郎が
資生堂の 福原さんと 交流があったらしいと おじおばが言っていたので 
有信氏なのか 信三氏なのか 何か手がかりはないかと 探していたのだ。

たまたま『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて という
ときの忘れものオーナー 綿貫不二夫さんの文章をみつけて びっくり仰天してしまった。

資生堂ギャラリー七十五年史は、綿貫不二夫さんと、
和光大学で いつも娘がお世話になっている 三上豊先生が 編集委員だったようで、
ときの忘れものは その資料編纂室だったという。
本が出版されたあと、その資料室を ギャラリーとしたのが ときの忘れもの らしい。

なんと! ときの忘れものに惹かれたのは  名前のためではなかったのだ。

綿貫さんにお聞きしたら、資料編纂の時に 井手伝次郎の名前は出てこなかったが
福原信三は全国の写真館や アマチュア写真家と交流があったから
井手伝次郎と交流があったのは 福原信三で まちがいないでしょうと いうお話だ。

長崎で 響写真館を開いていた 私の祖父 井手伝次郎は 17才で 単身上京。 
画家をめざしていたが、佐世保から和洋女子師範学校に遊学していた 古河梅子と出会って
駆け落ちのように 結婚。
大正11年までは 東京青山南に住んでいたらしい。 
長男 桃太郎の出生届けが 東京都青山南町3ノ36番地 になっているからだ。
母子を養うため 伝次郎はおでんの屋台を引いたり
桐タンスの材木を仕入れに 東北にでかけたりして 生活していたようだ。

ときの忘れもの は 南青山三丁目である。 私は 胸がばくばくした。

ちょうど ときの忘れものから 宮脇愛子とマンレイ展の 案内が来ていて 
10月1日は 宮脇愛子さんに会えるというので、
私が大学生の頃 白井晟一さんの話を聞く会で 可愛がっていただいた 
宮脇愛子さんに会いに行った。

地下鉄 外苑前から 夕暮れの 横断歩道を渡る時、 
長崎の祖父とばかり思っていた 若かりし井手伝次郎が 
毎日のように この広小路を 渡っていたかもしれないと思うと
まさに ときの忘れものと呼びたいような 時空を越えた往来に 
私は 胸の高まりを抑えることができなかった。 




| 長崎8人兄妹物語 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |

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長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語
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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

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