2015.01.30 Friday
窓辺に・・・・・ 行ってきます!
長かった 1月が 終わる・・・・
毎朝 娘たちが 「おばあちゃん、行ってくるね〜!」
と 挨拶をしていた 母の部屋は
ひとあし早く 春が来たように 花が咲き乱れている。
12月のなかばまでは 一人で風呂に入っていたのに 正月5日から 寝たきりになった 95才のおババさま。
自宅での家族による看取り 平穏死を選んだものの
老衰とは もっと静かに 平穏に 枯れるかのように 逝くのかと 思いきや
最期まで 意識がしっかりしていたために 苦痛が全部わかって 気の毒だった。
呼吸の苦しさ 口の渇きと荒れ 寝たきりによる 身体の痛みや痒さ
吐き気 だるさ 布団の重さ
「あ〜 やだやだ こんな人生」
「なんで こんなイジメにあうんだ」
「もうごちゃごちゃだ。からだを一本まっすぐにしてくれ」
「竹藪でごくごく水を飲みたい」
「スイカ食べたい」
「3人で どこか 広いところへ 行こう」
その日の状態で はっきり言葉になる時もあるし
指で 空に描く 手話や 聞き取れないたどたどした単語を
こちらが かろうじて意味を繋げてみることもある。
前の記事(人生を語らず)にも書いたが 12月からずっと 臨終体制で
娘たちも ずっと 横のコタツで寝て 夜中も看病していた。
正月から さよさんが 柏のスーパーでみつけて届けてくれた スイカを 一さじなめただけで
何も食べてないのに 毎日10回くらい 黒いタール便が出て そのオムツ替えも3人かかりで 四苦八苦。
「水を飲めなくなったら 1週間かなぁ〜」と 往診のお医者さんに言われて
今夜が山か 今日か明日かと ピリピリ緊張した毎日を送ってきた。
そして まさかの 発表会の朝 大量嘔吐。
だんだん 家族も 疲弊してきた。 いつまで がんばるんだろう。 平穏死って 全然 平穏じゃない! やはり 入院させた方が よかったのではないか・・・・
1月なかば 谷川雁の新刊『不知火海への手紙』が 事務所から届く。
「う〜 苦しい 苦しい」唸っている母の横で パラパラと 本を開く。
その生をつらぬく もっとも悲痛な急所は どこにあったかと 改めて問い直すのが、
人を悼むということである。
谷川雁 中上健次追悼 「海に背いて海へ 」
ああ 雁さんの 言葉が 沁みる。
暮れから この 一ヶ月 私がノートに書いている言葉は
ウンチの回数や 呼吸の間隔 嘔吐や 褥瘡の状態 母のうなり声の意味 ばかりだったから。
急所は わかっている。
明治 大正 昭和と 女たちがずっと戦ってきた 「女というものは」という自画像だ。
母は 戦う相手を 間違えていた。
私も 方法を間違えているのを わかっていながら 変えなかった。
それが 私の 方法なのだ。
生みの母よりずっと 私はこの 義母に似ている。
25才から33年間ずっと 一緒に暮らした。
3人の子育ても お勝手も 畑も 庭仕事も 全部助けてもらいながら 一緒にやってきた。
季節季節の漬け物や料理 畑仕事を 昔の田舎の思い出の 問わず語りと共に教わるのが 何より好きだった。
季節の暦と 気温の体感と仕事が 東京育ちの私のからだに刻まれたのは 義母のおかげだ。
晩年は 超働き者の母が 思うように動きまわれなくて 自分の部屋から出ず
食事も全部 この窓辺で 取るようになったので 頭だけが冴えて 私や孫を相手に 文句が増えた。
理不尽な 宗教的な妄想や ダダっこのような要求に
私が 戦うのがめんどくさくて ハイハイと 服従するものだから
反抗期の中学生と母親のような ヒステリックな 共依存に なっていた。
あまりの ストレスに 私の方が先に 逝くのではと マジで 思っていたから
自分が 生き残れて ほんとに よかった・・・
この窓辺で 母は 子どもたちのセーターを編み 着物を縫い
花を生け 甘酒を仕込み 手紙や日記を書き お取り寄せをし
孫や私に しゃべってしゃべって しゃべり続けた。
脳がやられて 失語した 私の生みの母や 玄関でのたれ死にした独居老人の父に比べても
最期まで 家族みんなに囲まれて こんなに饒舌に語り続けられる老人は 今は 希少だろう。
チーム ババ 誰も 逃げず ずっと笑って 自主的に 看病してくれた。 感謝! ごくろうさま!
たくさんの花に囲まれて 行ってらっしゃい。
そして 今日も 窓辺にむかって 私たちも それぞれ 行ってきます!
(しっかし なぜ 今日に限って こんな雪? 爆 )
毎朝 娘たちが 「おばあちゃん、行ってくるね〜!」
と 挨拶をしていた 母の部屋は
ひとあし早く 春が来たように 花が咲き乱れている。
12月のなかばまでは 一人で風呂に入っていたのに 正月5日から 寝たきりになった 95才のおババさま。
自宅での家族による看取り 平穏死を選んだものの
老衰とは もっと静かに 平穏に 枯れるかのように 逝くのかと 思いきや
最期まで 意識がしっかりしていたために 苦痛が全部わかって 気の毒だった。
呼吸の苦しさ 口の渇きと荒れ 寝たきりによる 身体の痛みや痒さ
吐き気 だるさ 布団の重さ
「あ〜 やだやだ こんな人生」
「なんで こんなイジメにあうんだ」
「もうごちゃごちゃだ。からだを一本まっすぐにしてくれ」
「竹藪でごくごく水を飲みたい」
「スイカ食べたい」
「3人で どこか 広いところへ 行こう」
その日の状態で はっきり言葉になる時もあるし
指で 空に描く 手話や 聞き取れないたどたどした単語を
こちらが かろうじて意味を繋げてみることもある。
前の記事(人生を語らず)にも書いたが 12月からずっと 臨終体制で
娘たちも ずっと 横のコタツで寝て 夜中も看病していた。
正月から さよさんが 柏のスーパーでみつけて届けてくれた スイカを 一さじなめただけで
何も食べてないのに 毎日10回くらい 黒いタール便が出て そのオムツ替えも3人かかりで 四苦八苦。
「水を飲めなくなったら 1週間かなぁ〜」と 往診のお医者さんに言われて
今夜が山か 今日か明日かと ピリピリ緊張した毎日を送ってきた。
そして まさかの 発表会の朝 大量嘔吐。
だんだん 家族も 疲弊してきた。 いつまで がんばるんだろう。 平穏死って 全然 平穏じゃない! やはり 入院させた方が よかったのではないか・・・・
1月なかば 谷川雁の新刊『不知火海への手紙』が 事務所から届く。
「う〜 苦しい 苦しい」唸っている母の横で パラパラと 本を開く。
その生をつらぬく もっとも悲痛な急所は どこにあったかと 改めて問い直すのが、
人を悼むということである。
谷川雁 中上健次追悼 「海に背いて海へ 」
ああ 雁さんの 言葉が 沁みる。
暮れから この 一ヶ月 私がノートに書いている言葉は
ウンチの回数や 呼吸の間隔 嘔吐や 褥瘡の状態 母のうなり声の意味 ばかりだったから。
急所は わかっている。
明治 大正 昭和と 女たちがずっと戦ってきた 「女というものは」という自画像だ。
母は 戦う相手を 間違えていた。
私も 方法を間違えているのを わかっていながら 変えなかった。
それが 私の 方法なのだ。
生みの母よりずっと 私はこの 義母に似ている。
25才から33年間ずっと 一緒に暮らした。
3人の子育ても お勝手も 畑も 庭仕事も 全部助けてもらいながら 一緒にやってきた。
季節季節の漬け物や料理 畑仕事を 昔の田舎の思い出の 問わず語りと共に教わるのが 何より好きだった。
季節の暦と 気温の体感と仕事が 東京育ちの私のからだに刻まれたのは 義母のおかげだ。
晩年は 超働き者の母が 思うように動きまわれなくて 自分の部屋から出ず
食事も全部 この窓辺で 取るようになったので 頭だけが冴えて 私や孫を相手に 文句が増えた。
理不尽な 宗教的な妄想や ダダっこのような要求に
私が 戦うのがめんどくさくて ハイハイと 服従するものだから
反抗期の中学生と母親のような ヒステリックな 共依存に なっていた。
あまりの ストレスに 私の方が先に 逝くのではと マジで 思っていたから
自分が 生き残れて ほんとに よかった・・・
この窓辺で 母は 子どもたちのセーターを編み 着物を縫い
花を生け 甘酒を仕込み 手紙や日記を書き お取り寄せをし
孫や私に しゃべってしゃべって しゃべり続けた。
脳がやられて 失語した 私の生みの母や 玄関でのたれ死にした独居老人の父に比べても
最期まで 家族みんなに囲まれて こんなに饒舌に語り続けられる老人は 今は 希少だろう。
チーム ババ 誰も 逃げず ずっと笑って 自主的に 看病してくれた。 感謝! ごくろうさま!
たくさんの花に囲まれて 行ってらっしゃい。
そして 今日も 窓辺にむかって 私たちも それぞれ 行ってきます!
(しっかし なぜ 今日に限って こんな雪? 爆 )