朗報↑ または 老4↓

時節がら 受かった〜! 出られる〜! 朗報が届く。 

今年は パーティの受験生は ゆうゆともえちゃんだけだが 
今のところ 入った報告は 連戦全勝!(すごい!)
後は去年震災の時 金沢に受験中で 我が家に10日間待避していた 仙台の甥っ子だけだ。
朗報待ってるよ〜 がんばれ〜〜!
 
さて我が家はついに 朗報ならぬ トホホな ロウフォー老4に。(老人3+老犬1)
大学出られることが決まった末娘が ついでに 家も出るらしい。

今でも ほとんど 家出状態なのにな〜〜
まあしかし タイミングはずすと どんどん加速する 我が家の老々老々・・・ 見たくないのかも。

おなじみ 今年93才になる 自称 明日をもしれぬ おババさまは 
まったく外に出なくなった分 エネルギーのすべてを お取り寄せと 孫の就活&婚活 に向けて(笑)
「レールに乗せてあげるのが親のつとめでしょっ!」って持論を さらにパワーアップして 炸裂中。
私一人で集中砲火浴びるの もったいないなぁ・・・・・てか 私に言われてもなぁ・・・・ へとへと・・・・・

 
いっぽう 人間で言えば90才越えてる 17才のたそがれプリンちゃんは
もう 畑まではとても走れないし 後ろ足ががくがくして 同じところをぐるぐる回ってるし
庭の木に 自分で絡まっちゃったり 縁側に 飛び上がれなくなったり へたってマス。

ボケも出て ごはんあげると 無駄吠えして 何度もおかわり要求するのが ちとうるさいが
プリンは 自分のエアロビ代わりに 私に攻撃はしないから まだ かわいい〜。

先週は プリンちゃんも白内障か? 娘たちが 3度も病院へ。
角膜が傷ついて流れ出すとかで 麻酔かけずに まぶたを4針縫って一時閉じてしまいましょうと
お医者さんが言ったとか。。
「ええ? プリン医者に慣れてないから ショックで よけい悪くなるかも。そのままでよいよ〜」 
処置を好まない私は びびったが プリンが激しく暴れて抵抗したので 処置できませんでした。(笑)
片目の馬車別当にならなくて よかった〜〜(このフードも 結局つけなかった)

かくいう私も・・・ 
毎日コーヒーを浴びるように飲んでる コーヒー好きが高じて 
先週はコーヒーメーカーごとたっぷり 熱いコーヒーを 足に浴びた。
あちちちちちい〜〜

ババのために作ったビワの葉の焼酎漬けをすぐに塗って 焼酎漬けのビワの葉を貼って 応急処置。

 
水ぶくれが 大きくて ジンジンしてたけど 紫雲膏塗って ま いっか〜って 放っておいたら

パーティのお母さん ゆかりちゃんが 
「こんなんで医者に行かないなんて 信じられない!今から迎えに行きます!」
柏から わざわざ来てもらうのは 申し訳ないので
「わかった わかった 自分で医者に行くから 大丈夫」と 近くの病院へチャリで行きました。

なぜ チャリで行ったかって?
もちろん 「やけどは祖先の戒告だ!」ていつも吠えてるオババさまに ナイショで 行くからなのですが
ちょうどこの日 我が家の前の駐車場が 液状化で よその車がハマり(爆!)  
レッカー車で 引き出すという ありえない事態が!

泥沼化!?
 
により うちの車も出せなかったのです。 
去年の震災の液状化で 水 砂が吹き出してた 地盤が悪い土地なので
雪が凍った後 さらに 泥沼化 した模様。  トホホ 

チャリをこいで病院行ったら ついた時は 水ぶくれが 破裂。 (爆)
ステロイドの軟膏もらったので おかげさまで 化膿せずに すみました。

やれやれ・・・・ 
生活リズムの 狂った オババさまと 毎日3時のお昼を終えて 
プリンのぐるぐる散歩につきあっていると
なぜか アメリカン童謡 が スローテンポで脳内を流れる・・・

Row row row your boat〜
老々老々〜〜♪ と 聞こえるのは 私だけ?(笑)


gently down the stream〜〜〜♪♪  
もともと 私は流れのままに 事態に手を打たない人なので
やさしく 流れを下っていく・・・・ なんか もの悲しい歌に聞こえるなぁ〜〜

Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream

あんまり楽しくもないが 夢でもない。 トホホ








| おばんの病みつき | 09:08 | comments(0) | trackbacks(0) |

ベビー・ピー第11回公演 『サカナノクチ』

京都の演劇ユニット ベビー・ピー 根本コースケより 公演の お知らせです。
ベビー・ピー第11回公演 『サカナノクチ』
 
【原作】 宮沢賢治「土神ときつね」
【構成・演出】 根本コースケ

【出演】 松田早穂 柳原良平(ぬるり組合)
【日時】 2012年 2月 24日(金)19:30
               25日(土)15:00 / 19:00
               26日(日)13:00 / 17:00 (開場は開演の30分前)

【会場】 アトリエ劇研  http://gekken.net/atelier/

【料金】 (一般)前売り1800円・当日2000円 (学生)前売り1300円・当日1500円

 【問合せ】 Tel:090-8481-4993(根本)  Mail:babypee.mail@gmail.com        

こりっち(corich)から予約 → http://baby-pee.sakura.ne.jp/info.html
 
【スタッフ】 舞台:吉村聡浩 美術:梶原歩 照明:山本恭平 音響:井上まどか 
        衣装:松田早穂 小道具:柳原良平 制作:ベビー・ピー

ベビーピー   http://baby-pee.sakura.ne.jp/top.html


ものがたり文化の会30年目のつどいで 
ショートコント 『道が塞がれている』をやってくれた 根本コースケ 率いるベビー・ピー
初の 劇場公演(これまでは京大西部講堂やテント)、 
初の宮沢賢治作品、 初の2人芝居です。  寒いけど、気になりますね。   

ねもQ   ツイッター    http://twitter.com/#!/nemoQu

| おばんのゴリ押し 演劇 | 07:32 | comments(4) | trackbacks(0) |

ふくろうの子守唄

「全然覚えてませんね〜。 何か思い出したら 書いて送りますよ。」と 言っていた幸蔵おじから、
便箋5枚の 手紙が来た。  相変わらず きっちりした達筆だ。 
私が電話したのが 9月12日だが 手紙は9月15日付。  88才(当時) 迅速だ!(笑)

以下 幸蔵さんの手紙 


 私が大正11年10月9日に佐世保市常盤町の母方の実家で生まれたとは初耳だ。
母から聞いた記憶はない。 聞かなかったのが事実と思うのは、
私の両親は過去の話は一切しなかったからだ。

母の実家は 佐世保でトップの米の卸問屋だった。 20m四方位の中庭を囲んで、
その一部分に理髪店、食料品店、雑貨店などの店子が店を構えた大きな屋敷構えであった。
これは傳次郎の実父の実力に均衡がとれていた。
傳次郎の実父(井手乙松)は、海軍の御用達商人として辣腕を振るっていたが、
共々にこの世は極楽だったのだろう。

しかし禍福はあざなえる縄の如しで、
父方の一族は長崎の原爆で、母方の一族は佐世保軍港を中心とした猛空爆で全滅した。

さて ご質問の 片淵への移住についても おぼろな記憶を辿ると・・・・
有名な思案橋から南方へ、丸山の花街を左にして下り、 
カステラの福砂屋を通る 籠町通りが
大徳寺公園で切られたところ、左の山の手に登ると 狭い石畳の道となる。
その突き当たりに 楠神社という小さな土塀に囲まれた構があり、 
巨大な樟の木が そびえていた。

その向かいに長屋があって、 その一軒に 母と桃太郎、幸蔵とお手伝いさん2人が暮らした。
父は書生さんたちと 写真館に住み込んで、 ほとんど長屋には帰らなかったようだ。

毎夜、樟の木の主、梟の「ホウホウ」という 物悲しい鳴き声が 私の子守唄だった。

ある一夜、台風の雨もりがひどくて、 母やお手伝いさんの テンヤワンヤの姿を アリアリと想い出す。
さてさて、台風被害に参った傳次郎は必死に働き、 片淵町への移住を計画したのでしょう。

その片淵町に移ってからすぐ 夏木は生まれました。
長女の 翠が早逝したこともあり、とにかく大事をとって 夏木の出産を考えたのでしょう。
その日は、 長崎の産婦人科の名医が3人の看護師さんを連れて、
10畳の新築部屋で 大切に 手当されたとのこと。 
一番古いお手伝いさんが 産湯の手伝いをして 私に教えてくれた。

私は妹が生まれたのが嬉しくて嬉しくて、2、3日後 母の許しで 初対面ができた。
母乳の香り高い 夏木のホホをつつきながら 生命力に感激したことを 想い出す。
自分の生命力の自覚もなかった幼児も、 間違いなく母からもらった夏木を眼前に、
それが生命力以外の 何者でもないと直観したのであろう。


アハハ どこが 「全然覚えてない」の〜〜? (笑)
こんなにリアルに覚えてるじゃないか〜、私まで 映像が眼に浮かぶよ 幸蔵おじちゃん! 
ありがとうございます! まんま 使わせて いただきますよ!


手紙は最後に 
これで千絵さんに最高のエピソードを贈ることが出来ました。
めでたしめでたし。
よく想い出したものだ。 80年ぶりの私の脳の健全が自証された。」 

と お茶目に結んである。(ちょうど夏木の誕生日だ。笑) 

そして
それにしても 千絵さんも 心機一転、心の旅路を再開されたようで、
私も活を入れられた気がしました


だって。 幸蔵さんは もちろん インターネットは 見ないが、
私が 去年の震災と 原発人災で 精神的にへばって 中断してたのも バレてたのかな。
恐るべし88歳。 指揮官はどっちだ?(笑)


ともあれ だいぶ ストーリーが見えてきた。 よし 船大工町へ 行ってみよう!
| 長崎8人兄妹物語 | 23:55 | comments(3) | trackbacks(0) |

追求

「井手家は 片淵に移る前に 船大工町で 暮らしていたみたいで、
桃太郎が 大徳寺のクスの木で 幸蔵さんと遊んだ頃が 一番楽しかったって 
言ってたそうなんですよ。 睦子さんに 初めて聞いたんですが、 
幸蔵さん そのクスの木 覚えてらっしゃいますか?」

大阪に住んでいる 8人兄弟次男の幸蔵さんに 電話した。 
長男桃太郎が亡くなったので 井手家の最長老だ。 大正11年生まれ。 今年の秋に90才になる。

  「はあ そうですかぁ。全然覚えてませんなぁ・・・・」

幸蔵さんは いつも はじめは必ず まるで興味ないように 「全然覚えてませんなぁ」 とおっしゃる。

「しかし千絵さんは どこまでも 追求するのですな。 
よっしゃ 何か思い出したら 手紙に書いて送りまっせ。」
 
幸蔵さんは なぜかいつも 追求という 言葉を使う。
 
追跡ならわかるが 追求は なんとなく なじまない。 軍隊用語なんだろうか。

2008年秋に 桃太郎の1周忌で初めてお会いして話を聞いた後、
便箋12枚に 軍隊時代のことを書いて送ってくださった。
その手紙にも 追求の文字がある

日本軍の構成は 天皇の統帥権は、具体的には連隊長に直結して、

天皇 → 連隊長 → 大隊長 → 中隊長 → 小隊長 に与えられて 一貫します。

他部隊の長も、特に前線では 命令することは 出来ません。
もちろん 山中で出会えば、敬礼はせねばならないが、他部隊の長に 命令されることはないのです。
他部隊の 迷子の兵がいたとしても、余裕がなければ 捨てたものです。

小隊は ふつう4個の分隊に分かれるが、内務班として統一されています。
内務班長は、最古参の 下士官がなる。
朝晩の 点呼をして、隊員の数を 点検して、週番士官に報告するのです。 
脱走兵や 事故兵を 把握せねば、戦争はデキナイからです。

連隊長は、天皇から 連隊旗を 手渡されて、
 連隊旗を (天皇の自称)と思え  と しつけられていました。

だから 我々も地球の果てまでも 本隊を追って 追求せねば具体的な軍人とならなかったのデス。
一緒でなくては戦争のしようがないから。

軍隊は、不合理が 本質なので 今さら 悪口を言っても話にならないからヤメます。

                                 (コウゾウその1 http://kankarakan.jugem.jp/?eid=672



追及はやはり軍隊用語で、部隊が本隊に追いつき合流することを言うらしい。 

幸蔵さんは昭和18年12月1日、21才で、学徒出陣で久留米の予備士官学校に入り、
長崎県大村市の陸軍歩兵第47連隊に入隊した。
これは 留守部隊で 本隊は インパール作戦 烈師団。
本隊を追求して 
シンガポールまで追求し そこで 幸いにも終戦になったという。
 
戦後 疎開先の多良で 台風で糸岐川が氾濫した時も
泉 清明 徹生の3兄弟が 父親の大事にしていた 盆栽が流れるのを
「流れろ〜流れろ〜」と喜んで歌っていたのに、
戦地から復員したばかりの 幸蔵さんは 村に救援を求める伝令として 一人糸岐川に飛び込んだ。

「そりゃもう 指揮官の命令には絶対服従ですから」

今では 井手家の 笑い話ひとつ話になっているが、
悪ガキ3傑の アホみたいな がなり声と、 
父親の命令で 川に飛び込んで 濁流に流された 幸蔵さんの対比が ちょっと悲しい。

幸蔵さんは 奥さんの道子さんと 2人暮らし。
足腰が痛い 奥さんの代わりに 買い物など 日常的な仕事も こなしている。

 「そりゃ 指揮官の命令には絶対服従ですから」

と 奥さんの道子さんのことも 指揮官と 冗談めかして言う。

学徒動員時代に洗脳されたことは 80才を越えた今になっても 肌に染みついているのだろうか。
それをジョークのように言うことによって 当時のバカらしさを 冷笑しているのだろうか。  
この兄妹に特有の いや これまで会って話を伺った長崎の人たちに 共通の
一番肝心な悲惨なことを なぜか 茶化して言う 体質のためだろうか。

2008年 睦子さんが 大阪で開催される アルバムエキスポの 新聞の切り抜きを私に送ってきた。
そこに 徹生が送ってくれたアルバムで 滑り込みエントリーしたら、入賞した。 
(けっこう  睦子さんに 仕掛けられてる私。 笑)
 
その時 私が 大阪に日帰りで 見に行くと言ったら
睦子さんが 声をかけて 大阪の幸蔵さん、 奈良の泉さんも 梅田HEPホールに見に来た。

みんなで 会食した後、 東京に戻る新幹線の時間まで 鶴橋にちょっと行ってみたいと 私が言ったら 
生野に住んでる 幸蔵さんが 一緒に環状線に乗って 鶴橋で降りて ついてきてくれた。

「一人で 大丈夫ですよ〜〜」 
86才(当時)のおじさんに 私の 気まぐれな思いつきにつきあってもらうのは 申し訳ない。

「いやいや 指揮官の命令には どこまでも お供しますよ。」 

幸蔵さんはお茶目に笑って、コリアンタウンの迷路を 一緒に歩いた。
幸蔵さんと話すのは、その日が2度目だった。

「幸蔵さんは 非人間症のようになって 僕たち兄妹とも 口をきかなくなったのです。
徹生の アルバムを見にくるなんて こんなことに 出かけてくる人じゃなかったのです。
びっくりしました。 すごいですよ。 
千絵さんのおかげで 僕も初めて 幸蔵さんの 戦地の話を 聞きました。」
梅田の改札口で 待ち合わせた時 弟の泉さんが こっそり 私にささやいた。

徴兵は 家督を継ぐ長男は最初は猶予され、 赤紙はまず次男三男に来た。
だから 井手家も 長男 桃太郎より 次男 幸蔵が先に出征したし
カーネーションでも だんじりの屋根に登る屈強な長男ではなく、へたれの 次男がまず出征した。

学徒出陣が始まるのが 昭和18年。
当時は 今のように多くが大学に行く時代ではないから
日本の未来を担う頭脳集団として それまで保護していたエリートたちまでも 
戦況の泥沼化と 人員確保で いよいよ駆り出さざるを得なくなった。

理工系は 兵器開発などの 頭脳集団として 最後まで猶予し、
まずは 文化系学生が 駆り出されたのだ。

 しかし 入隊した新兵が 軍の規律やすべてを習う 直接の上官は、 
貧しい農村から 口減らしの意味もあって 先に出された次男三男が多く 
裕福で 高等教育を受けていた エリート学徒兵には 本来ひがみもねたみもある。

軍隊の序列しきたりと 「テンノウヘイカ」の名の下に 理不尽な暴力が どれだけあっただろう。
また にわか仕立ての 学徒兵が 古参の兵を 出し抜いて 上官になるケースも多かったという。
ここでも 兵士たちが戦っていたのは 直接見えない鬼畜米英ではなく、
同じ同胞の 共食いだったと言える。

「もう人間が変わりましたから。 
そりゃあ 軍隊に入ったらね、 変わらなくちゃ、やっていけないし。
そりゃ もう 色々・・・ありました。 
そのうちまとめて 書いて、お送りしますよ。それを、好きなように脚色して書いてください。」

桃太郎の一周忌に初めて話を伺った時、 幸蔵さんはこう言った。

19才の学徒兵を 非人間症に陥らせたのは 何か。
幸蔵おじさんに 一番聞きたいことには まだ踏み込めないでいる。


 



 

 

 

| 長崎8人兄妹物語 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |

長崎 船大工町

私の母夏木は 井手家の 初めての女の子ではない。
長女 翠(みどり)は 大正14年4月3日に生まれたが、残念なことに 生後17日で 亡くなったらしい。
出生届けは出てないが、桃太郎のノートには 船大工町17(松永産婦人科?)と書いてある。

ということは 井手傳次郎とその家族は、
昭和3年に 片淵町に移るまで 船大工町に住んでいたのか。 

長男桃太郎の妻 睦子さんは 前回の登記の発見で電話した時 言っていた。

「おいちゃん(桃太郎のことを睦子さんはこう呼ぶ)はね、
響写真館のお弟子さんで 桜馬場で月光スタジオをやってた 大久保月光さんのお葬式の時に 
長崎に帰ったのが ただ一回だけなの。 」

へえ、そうなんだ。  
活水女学院と 附属小学校の同窓会で 夏木は何度か長崎に帰っていたようだが、
井手家の男たちは 帰る家がないから きっかけと踏ん切りがないと 
なかなか長崎には 行きにくいのかもしれない。

「私も一緒に行ったんだけどね。
その時に 井手家が 片淵に移る前に住んでた 船大工町に行ってみたの。」

やはり 船大工町に住んでいたんだ! よしよし 確認取れたぞ。 とはいえ
長崎の土地勘が 私にまったくないので 地名を言われても 風景が浮かばないのが悲しい。

「ほら、2年前に チコちゃんと(私のこと)と根本さんと関谷ミチコさんとコウスケくんと長崎に行った時、
丸山の花月で私の活水同級生の小野さんと お昼食べたでしょう?」

長崎の丸山は、江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊郭といわれた花街で、
花月は 造船業 海軍さん 国際人の社交場にもなり 文人墨客も多く訪れた高級料亭だ。
幕末には 坂本龍馬や勝海舟もよく利用したようで
坂本龍馬の 刀傷のある柱や 龍馬直筆の直訴文も飾ってある 史跡料亭になっている。

花月の 名物芸妓愛八が 長崎に伝わる古い歌を求めて 市井の歴史家 古賀十二郎と 旅をする
なかにし礼の小説 『長崎ぶらぶら節』の舞台でもある。

石段を 登って 曲がると 花月という 大きな提灯が 下がった玄関で
長崎の名物料理 卓袱(しっぽく)料理も食べられる。
卓袱料理を 松花堂弁当風にしたランチを 睦子さんにごちそうになった。

「花月の前のゆるい坂をおりたところが 丸山公園で、カステラの福砂屋の本店があるでしょ。 
その手前の細い路地を 左に入ると 中華街や 活水の方に抜ける 細い道があるのよ。
その途中に 石段があって その上が大徳寺って お寺はもうないんだけど 公園になってるの。」

ふむふむ。 カステラの福砂屋でミチコちゃんが お土産のカステラを送ってたなぁ。 
なんとなく 地理が浮かんできた。 

「その大徳寺跡に 大きなクスの木があってね
おいちゃんは弟の幸蔵さんと 毎日毎日 その木に登って 遊んでたんだって。 

そのクスの木が まだあったのよ〜。 おいちゃんの喜んだこと喜んだこと。
子どもみたいに 木に登って、 写真も何枚も撮ったよ。

そこで 幸蔵さんと遊んだ頃が 一番楽しかったんだって。
片淵の 響写真館に 移ってからは おすまししたお行儀いい坊っちゃんに させられてたからねぇ。」
睦子さんは おかしそうに笑った。
 
へえ そうなんだ。 この話は初めて聞く。

睦子さんは、なぜか重要な情報を 小出しに出してくる。 (笑)
自分でも 忘れているのかもしれないが、
まるで こちらの対応能力の熟成を待って、タイミングを計っているかのようにも 思える。

船大工町。 

いい名前だ。 船を作っていた 海のそばの人々の暮らしが 地名に残っている。
桃太郎が登った クスの木。 行ってみたいな。

兄 桃太郎と木のぼりしたことを 弟の幸蔵さんは 覚えているだろうか。
| 長崎8人兄妹物語 | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |

長崎 片淵町1丁目1番地 

去年の9月6日 思い立って 長崎地方法務局に 電話してみた。

「あのう 長崎市片淵町1丁目1番地に 昔住んでいた者の孫なんですが、
昭和のはじめに 「響写真館」で 登記はないでしょうか。」

「響写真館?ですか。 商号は? 株式会社ですか? 会社名は? 
いつからいつまで建ってたんですか?」

矢継ぎ早に質問される。 そもそも登記なるものが どんなものかも よくわかってないのに、
思いつきで 電話したのは まずかったか・・・・(爆)

「たぶん昭和元年か2年か3年から 昭和20年頃まで・・・・かな? 
それを知りたくて この電話をしてるわけなんですが・・・・・」

「その時代は 登記されてないことが 多いんですよねぇ。 
登記されてないと 記載がないかもしれません。 お待ちください。」

電話口の若い男性は こちらのあやふやな 受け答えに 親切に、 
でも事務的に答えて 調べに行った。

井手家に関する文字資料は 長崎から取り寄せた戸籍謄本と、 
桃太郎が 長男として 墓のことや 親兄弟の所在などをメモしたノートしかない。

響写真館が 片淵町で いつから始まったのか 
たぶん昭和の1年か2年頃だろうと 絞りこまれたが 私の予想のウラを 取りたかった。


「片淵町1丁目1番地・・・・・・ 響写真館の登記はありませんね。」
「え?  そ、そうですか・・・・・」

が があああああん  なんだよ〜 登記しないで商売してたのか? 
いいのか、傳次郎・・・



「井手傳次郎って方の 登記になってます。」

「え? あ それです、それです! 私の祖父です! よかった〜 登記があるんですね!
登記簿の写しを 送ってもらうことは 可能ですか?」

「じゃあ 返信用の封筒と 書式はなんでもいいので依頼書を書いて 
乙号窓口まで 送ってください。」

やった〜! 3つめの 紙資料だ!(笑)

送られてきた 紙を見ると 井手傳次郎が 片淵町1丁目1番地を手に入れたのは 
昭和2年2月1日になっていた。

傳次郎の友人で歌人の 山崎喜九一さんが つけたという 『響』の屋号は まだ なかったのね。  
そこから 傳次郎が自分で写真館の設計図を引いて、建設には1年近くかかったとすると・・・・・

戸籍謄本によると 母 夏木は昭和3年2月11日 片淵町で出生届が出ている。 
ということは昭和2年の年内か 遅くとも昭和3年の1月のうちには 
井手家は 片淵町に引っ越した筈だ。

私の予想が的中。 まさに
夏木の誕生と 響写真館の誕生は 一緒だったのだ!

テンション上がって 大阪の睦子おばちゃんに電話すると 
「そうそう 昭和3年から 響を始めたって 梅子さんが言ってた。 それは確かよ。」だって。

睦子さんは、長男桃太郎が 父傳次郎に先立たれた母梅子を引き取って同居したので
嫁として 一番 義母梅子の問わず語りを聞いている。

なんだぁ わかってたの〜〜  なら早く言ってよ〜(笑)  

片淵町は おくんちで有名な お諏訪さん(諏訪大社)の階段を下りて、
馬町の広い交差点を渡って 西山川沿いに大橋を渡ったところにある。 
今はパブテスト教会になっている。
長崎の概念図を イメージするために、
渡辺浩著 岩波ジュニア新書 『15歳の長崎』 地図を ちょっとお借りしよう。
 


中嶋川の上流には、坂本龍馬や 高杉晋作の写真も撮った 上野彦馬の
日本初の営業写真館 上野撮影局があった。 
(上の図 片淵響写真館の書き込みの線が 川と交差しているあたりに 撮影局跡がある)

若き井手傳次郎は 上野彦馬と同じ 中嶋川の支流西山川の畔に 土地を求めた。 
写真家として立つ 意気込みが 感じられる。

 昭和3年 娘の誕生と期を一にして、
井手傳次郎は 片淵町1丁目1番地に 響写真館を始めた。




お時間ある方は、以前紹介した 5男徹生の片淵周辺地図もご覧ください。
昭和8年生まれの徹生が 10年ほどしか住んでない町を 
60数年ぶりに再現する記憶力には仰天する。 

テツオの仰天記憶力 長崎片淵町周辺  http://kankarakan.jugem.jp/?eid=851


| 長崎8人兄妹物語 | 07:58 | comments(1) | trackbacks(0) |

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長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語
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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

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