有明海
あ音と か音と のぼる朝日のイメージが 見たこともない海への想いを 募らせる。
長崎八人兄妹物語 5男テツオの話の中で 嵐の日に 糸岐川が氾濫して
傳次郎が大事にしていた 数百万相当の 盆栽は 濁流とともに流され
有明海の藻屑と消えちまったぜ〜。
講談調の話を聞いていたので、なんだか 外洋に開けた大きな海の気がしていたが、有明海は その語感とはちがって
佐賀県と長崎県と熊本県、それから柳川大牟田のあたりで福岡県にも囲まれた 大きな丸い湾だった。
干満の差が大きく、日本最大の大きな干潟で 独自の生態系が豊かな海産物を育てるという。
海苔の養殖の竿が並び 太良は 蟹が名産だ。
有明海の西南の一部、 島原半島で 囲まれた部分が 諫早湾。
干拓事業で 生態系を壊す ギロチン堤防が 物議をかもした。
すぐ向かいに 雲仙普賢岳そびゆる島原半島が見える。
我が家の子供たち3人がまだ小さい頃(1992年頃か)
私の母が おばあちゃんの故郷を見せたいと 長崎へ連れて行ってくれた。
できたばかりの 佐世保のハウステンボスと 2日目は長崎市内、3日目は雲仙普賢岳に行って 白い馬に乗った。
その直後に 普賢岳が爆発して 子供たちは 白い馬は大丈夫かと ずいぶん心配したっけ。
なんだか すべてはあらかじめ 仕組まれたように 配置されているなぁ。(笑)
9月30日、82才の泉おじと諫早駅で合流した後 車は 有明海沿いに 佐賀方面太良へ向かった。
右手に ずっと 有明海。
左手には 正面に多良岳。 その裾野に みかんの段々畑。
そういえば 母は ♪みかんの花が咲いている〜 という 歌を 子守歌によく歌ってくれた。
田んぼの縁に びっしりと真っ赤な彼岸花。 佐賀はなぜこう 彼岸花が多いのだろう。
時々 カニや 牡蠣の 直売所がある。
道路と 平行してずっと 長崎本線の単線が 左を走っている。
そう、ほんとは この長崎本線に乗りたかった。
車窓からの 風景を 見たかった。
この『長崎八人兄妹物語』は 2005年に脳の悪性リンパ種で亡くなった 私の母 夏木が持っていた
被爆者手帳 被爆年齢17才 の文字を見た時から始まった。
母から原爆の話を一度も聞いたことがなかった。
脳がやられて失語した母から 母の物語を聞くこともかなわず、母の死後、私は母の兄妹たちに 素朴な疑問を聞いてまわった。
『長崎八人兄妹物語』は その聞き書きの記録である。
家族が 佐賀県多良に 疎開したのに 少女はなぜ 一人長崎に残ったのか。
疎開先で 学徒動員に参加することは できなかったのか。
そもそも17才の少女が、長崎のどこに 誰といたのか。
おじおばたちへの 最初の問いは これだった。
昭和20年8月8日 17才の少女夏木は 学徒動員で働いていた 長崎の兵器工場から
めったに取れない休暇申請が認められて 家族が疎開している 佐賀県多良へ 帰った。
三菱造船のお膝元 軍事の町と化していた長崎の ピリピリした空気から
長崎本線に乗って 多良へ向かう時、17才の少女は何を 思っていただろう。
それが 今回 私をタラへ 駆り立てた 動機である。
足におできが できて 兵器工場に 休暇を申請したのだという。
でも なぜ おでき?
おでき という響きは どこか喜劇的だ。
致命的な怪我や高熱と違って、本人の苦痛以外に 作業に支障をきたすとは思えない。
おできごときで、 あの非人間的な 国家総動員の時に、よく休暇申請が認められたものだ。
気丈な軍国少女を 八月八日 長崎から動かしたのは、本当におできだけだったのだろうか。
おできを理由に、家族の元に帰りたい 「なにか」が あったのではないだろうか。
2番目の問いは これだ。 これは今まで 誰にも聞いたことがない。
全体を通して 一番知りたい問い。 多良へ向かう この道で、あの日の17才の少女に 向けたい問いである。
学徒動員で 通っていた 長崎大橋の三菱兵器工場は 魚雷回天を作る工場だったという。
特攻隊と同じ発想で、人間が魚雷に乗って、敵の船に突っ込む 自爆型の魚雷だ。
もちろん 学徒動員の少女に 魚雷の全貌など 知るべくもない。
長崎に一人残った 気丈な軍国少女であったが
なにか 息苦しさが飽和点に達して ふと家族を 思った。 のではないか。
8月6日 広島に新型爆弾が落ちた報が 話す家族もいない 少女を ざわざわ不安にさせたのかもしれない。
父親 傳次郎なら どう言うだろう。
答えは わかっていたのに あえて それを聞きたくて 帰った。 私には そんな 気がしてならない。
家で父が「日本は負ける。まったくバカげた戦争だ」とつぶやくのを聞くたびに
(非国民)とひそかに反発する一方で、
町にひろがる「鬼畜米英」の勇ましいスローガンには、
やさしかったアメリカの先生方を思ってどうにもなじめず、
(夏木は活水の英文科でアメリカ人の先生が大好きだったから)
「海ゆかば水漬く屍・・・・」と歌うときには、その莊重な悲しい響きに、
皇国臣民の誇りと高揚感を覚えたりもする。
さまざまに分裂した幼稚な頭で、
私は(国家ってナニ?)と悩みながら うろうろしていたが、
すでに「自分」という存在と、 「国家」という見えない存在とのギャップを、
深いところで意識しはじめていたのは たしかだった。
(「共生の地球を夢見て」 針生夏木 授業を創る誌)
母が70才で初めて書いた随想の中の一文だ。
今読み直すと 私の問いへの答えは なあんだ ちゃんと本人が書いているじゃないかと あらためて驚く。(笑)
8月8日 小さな岬を へつるように どこまで行っても有明海が続く 長崎本線に揺られながら
少女の中で 渦巻いていたのは 言語化されていない こんな思いだったのでは ないだろうか。
ひさしぶりに戻った 姉さんを 迎える家族。
どう歓迎したものか みんなが 少し浮き足立つ。
「夏木姉さんは ほとんど多良に帰って来なかったよ」 4男キヨアキは言っていた。
兄さん2人は出征しているので 弟3人と妹2人 父と母が 多良の生活を やりくりしている。
いっぱしの 百姓みたいに みんなそそくさと 自分の仕事に 没頭するフリをし
夏木が大好きな おちゃらけた弟テツオが 歓迎大サービスで バカをやってみせたかもしれない。
叱る父。 笑う母。
嬉しい感情とはうらはらに どこかみんながちぐはぐな 居心地の悪さ。
それが 運命の前夜だとは 誰も知らずに それでもひさしぶりにそろった 大家族の夕方だ。
「夏木さんは よくレコードをかけてましたよ。」 泉おじは言う。
「だって電気も水道もないところなんでしょう?」
「手回しですから。」
「アハハ そうか 蓄音機って 電気じゃないんだね。」
「手回しです。 夏木さんは 多良にいる間は よくこうやって レコードを 聴いていました。」
泉おじは 蓄音機のハンドルを手で回す仕草をした。
「夏木が帰ったときのことを 覚えていますか」と 聞いたときだ。
電気も水道もないところで この家族の中に 静かにできつつある 生きていくための秩序。
長崎の軍需工場で 自分を駆り立ててきたものと 明らかに違う。
ズレているのは 家族なのか 自分なのか。
所在なく 蓄音機のハンドルを回して かけていたのは なんの曲だったろう。
8 月9日。 少女は 長崎に戻ることは できなかった。
朝早く 多良を出発しなかったのが 幸いか。
少女が 長崎に戻ったのは 8月16日。 終戦の翌日だった。