広島で
── タエ子さんは旧姓は、なんておっしゃるんですか?
タエ子 間崎(まさき)です。間崎タエ子
── 珍しいお名前ですね。 じゃあタエ子さんは、広島に移られてからは、もう学校には入らないで
学徒動員ですか?
タエ子 いえいえ、活水から広島女学院に転校したんですけどね、音楽部がなかったのでしょうがないか
ら、英文科に潜り込んで、そこから学徒動員で。どっちみち動員で授業はないわけですか
ら、何科かは関係ないんですけどね。そこから、今で言えば「マツダ」ですよね、自動車の。当時は
東洋工業って名前でしたが、隣町のその工場へ、動員で行きました。
── なんていう町ですか?
タエ子 向洋(むかいなだ)って町です。ところがそこで無理がいきまして、脚気になりましてね、
そこにいれば隣町ですからちょっとはよかったんですけど、原爆の時は休んで家にいたものですか
ら、もろにかぶっちゃったんですよ。(笑)
── 広島市内? なんて地名ですか?
タエ子 ええ、そうです。平野町っていうところでしてね・・・
だって、あなた! 私のそんな詳しいことお聞きになってどうするんですか?(笑)
── え、だって、知りたいから・・・・
タエ子 そこで被爆したんですよ。
── じゃ、ちょうど家にいたんだ。
タエ子 家にいたんです。
── それで さっき 後遺症がっておしゃってましたよね。
タエ子 後遺症はね、翌年に原爆症が出ましたけどね。
── どういう?
タエ子 熱が出てね。一夏じゅう熱が出てね、起きられなくて、それで長崎に帰れなくなった。 結局ね、
原爆その時は、私一人割に元気でね、怪我もしないでね、妹や母の原爆症も看病しましてね。
── じゃ、みなさん・・・亡くなった方はいないんですか?
タエ子 は、いないんです。
── わぁ、よかったですねぇ。
長崎に帰る
タエ子 終戦になって、父が三菱の事情で 京都の方の会社に移ったんです。それで私も京都に移った
んですが、ところが京都には音楽学校がない! それで、仕方ないから、また昭和21年の1月から
長崎に帰ったのよ!
── ほおお。え? じゃあご両親はもう長崎には帰らなかったんだ。長崎の家はたたんで、広島に
来ちゃったんですか?
タエ子 長崎の家は、私の姉がね、やはり三菱の人と結婚して住んでましたので、
── おうちはあったんですね。 じゃあ帰れたんですね!
タエ子 そう、姉の家があったんで、また長崎の家に帰ったんです。21年の1月にですね。
活水もそれまで進駐軍に接収されてたんですね。で、活水は県立に間借りしてたんですけど、
ちょうど進駐軍の接収が解けて、活水の校舎に戻れた時に、私もちょうど長崎に帰れたんです。
そしてまた1月から7月の1学期まで、活水にいたんです。夏木さんも3年生で、また連中と 毎日
遅くまで一緒に遊び歩いてたわけです。ホホホホホ(うれしそうに笑う)
── そうなんだぁ。アハハハハハハ ・・・でも帰った時は、ずいぶんお友だちも原爆で亡くなってた
んじゃないですか?
タエ子 多少ね。でもそんなには亡くなってないです。お家が浦上の方は亡くなってましたけどね、
こっちの人はほとんど大丈夫。動員先で何人か亡くなってますね。
── はあああ、家は爆心地から離れた人が多かったんですね。
タエ子 そう、町中の方ですからね。ムツコさん(私の叔母でモモタロウの妻。母の同級生)の家とかは
爆心地の竹の窪にあったので、お姉様とお母様が亡くなったんです。
── いや、お母さんは由布院に疎開を頼みに行ってて助かって、留守番をしていたお姉さんが亡くなっ
たそうです。 お母さんはその後、黒い雨にあたって亡くなったとか。
タエ子 まあ!そうでしたか。お2人とも原爆で亡くなったと思ってました。それは
知らなかったわ。
後遺症
── さっき活水は中退だとおっしゃってたのは?
タエ子 そう、7月までは活水にいたんですけどね、その7月のはじめに、そこで原爆症が出たんですよ。
高〜い熱が出て、ひっくり返っちゃって、学校行けなくなちゃったんです。それで姉の家で2週間
くらい寝てたかなぁ。やっとのことで起きてフラフラしながら、京都に帰ったんです。姉が心配して、
造船所の出張で東京に行く人に頼んで、京都まで帰してくれたんですよ。
── ああ、やっぱり親御さんのところへ。
タエ子 それで京都に帰ったでしょ。そしたら帰って2日目くらいにドテーンってひっくり返っちゃって、
それから1ヶ月ですよ、寝てたの。それがどうも原爆の後遺症だったらしいですよ。
── はぁぁ、それは 入院しないで?
タエ子 だってね、あなた!(急に大きな声で)京都の人たちなんて 原爆症のゲの字も、全然わからない
んですよ!
お医者さまが来たって、もうしかたなくなっちゃって、「ウ〜ン??」って言ったっきり(笑)
ビタミンかなにか打って、なんにもできないんですよ。今みたいに病院も薬もないしねぇ。
── 症状としては? 熱?
タエ子 熱です。ですから、もう寝てるだけで・・・今日は少し気分がいいな、と思って熱をはかってみると
38度くらいあるんですね。
── それで・・・だるいとか?
タエ子 だるくてね、それから下痢もしました。血便までは出なかったけれども、毎日毎日下痢してね。
もう、起きられないですよ。うちの母は「もう死ぬ」って言って、私の枕元に来て泣くんですよ。
── ううううう〜ん
タエ子・・・そんなようだったんですけれども、1ヶ月寝たら、なんとかおさまったんですけどね。
── じゃあ、ビタミン剤だけでですか?
タエ子 そうですよ!(おこったように)ですからね、今度活水に帰ろうと思っても体力がつかなくてね。
それで家でブラブラしてたらね、新聞に京都に音楽学校が私立でできるって載ってたんですよ。
それでそこに遊びがてら見に行ったんですよ。そしたら、向こうの方から、「遊びながらでもいいから
来い、来い」って、生徒が少ないもんだから、ものすごい勧誘で(笑) だから活水に籍を置いた
まま、そちらにフラフラ行ってたんです。
9月頃から翌年の3月まで、京都音楽学院ってところにいたんです。
結婚
タエ子 そしたら、その間にうちの主人(になる人)が復員して帰って来まして。それで結婚話が持ち上
がりまして。(笑)
── ご主人は京都の方なんですか?
タエ子 いえ、四国の土佐です。復員した時、うちの両親に挨拶に京都に寄ったのです。
── どこへ出征してたんですか? 南方?
タエ子 南方です。どこだったか・・・この頃、名前が出てこなくて・・もう豪州に近い方です。
それで、日本に帰ってきたけど、四国の土佐じゃ勉強できないから、東京に行くと言って。
これはね、関係があるのよ、お母様とね。
そして東京に行ってから、なんか、私と結婚したくなったらしいんですね(笑)それから、東京へ
行って、上目黒に下宿して、そこから学校に通い始めたんですね。
── どこの学校ですか?
タエ子 慈恵の医科大学です。そしたら、その12月に南海の大地震というのがありまして、
── それは昭和20年ですか? 21年ですか?
タエ子 昭和21年です。南海の大地震というのがあって、主人の両親がその地震で亡くなったんですね。
家も全部つぶれましてね。
── はああ、そうなんだ。 四国のどこですか?
タエ子 中村市 です。 土佐中村。両親も医者してたんですけどね。
── じゃあ、帰る家もなくなっちゃったんですね。
タエ子 そうです。両親も家もなくなってしまったから、うちの母が心配しましてね。
早く 結婚して助けてあげなきゃいけないってことになりまして。(笑)
上京
タエ子 そういうことで結婚しまして、それでいっとう最初は、私たちは横須賀に家を持ったんです。
横須賀に半年。それから川崎の元住吉か小杉の近くに移ったんです。そしたら、その時に、
突然夏木さんから・・・・・手紙が来まして(笑)
東京に行きたいから 部屋を 世話してくれって。(笑)
── 夏木から手紙が来る・・(メモする)・・ それは何月だろう?
昭和22年の・・秋頃ですかね?
タエ子 そ、そうですね。 そう、秋か、その次の年だったかもしれませんね。もうその頃は契約、契約で・・
住宅事情が たいへんに(強調)悪くてねぇ〜、ほら、焼け野原だったでしょう。
・・ですからね、何月頃に 夏木さんが言ってらしたかはっきりしないんですが、
ただ私たちが9月に元住吉に来まして、その次の年の・・・・(思い出しながら)・・・
その次の年の5月・・頃までは元住吉にいた・・と思います。そしてお母様が上京してらしたのが、
3月か4月。
── 23年の? (書く)昭和23年の3月か4月に 夏木上京・・・
あのう、その時、母は長崎 大村の師範学校に勤めてたと思うんですが・・
タエ子 そう。大村の師範学校に勤めてましたね。
── それで、なんで、上京したいか、理由は知りませんか?
タエ子 理由は知りません。ともかく東京に上京したい。大村に長くいるつもりはなかったんじゃないの?
それでね、職はね、ヨネムラ先生って聞いたことあります?
── ないです。
タエ子 活水の米村先生と、お母様、大変仲がよくって。私たちが女学校に入った時の1年の時の担任の
先生でね。ずっとお母様、その先生にかわいがってもらったんですよ。その先生が早くから東京に
出てらしてね、職を世話する。だから、住まいは、私に頼むってことでしょう。ハハハハハ(笑)
じゃあ、ここで、ちょっと一息入れたいです。これから先が、いよいよ、いろんな話がありまして。(笑)
ここまでは、あくまで前座みたいなものだから。
── アハハハハハハ はいはい。
タエ子 まさか、そんな前の話まで聞かれると思わなかったから。(笑)
ここから!(強く言う)話し始めればいい、と思ってたのよ。ホホホホホホホ (大爆笑)
(上京以後は、他のインタビューの後に、公開します。)
ブレイク・タイムに タエ子さんは、笑いながら、「これが私の唯一のぜいたくなの」と、アルコールランプで温めたポットで、丁寧にお紅茶を入れてくださった。そのはしゃぐような言い方と 軽やかな身のこなしが、「これが私の唯一の楽しみ!」と昼食の後に紅茶を入れていた(その時だけ妙に軽やかな動きだった)母とダブり、一瞬ドキっとした。
原爆当日、足にできたおできのために疎開先に帰っていて、爆心地から逃れた母とは 逆に、原爆当日 脚気で家に帰っていたために 広島で被爆して後遺症に苦しんだタエ子さん。こうした運命のいたずらが どれほどあったことだろう。
タエ子さんは少女のように、ころがるような笑い声で明るく話してくださったので、引き込まれて、私も 終始笑い通しだった。でも帰りの電車の中で、昨夏映画にもなった漫画の「夕凪の街 桜の国」や 松谷みよ子『ふたりのイーダ』の りつ子を思い出して、胸が詰まった。本人も家族も、周囲もよくわからない高熱やけだるさの中で、明日のこともわからず不安で寝ていた少女たちが あの頃 何人いたことだろう。男たちは、戦地でいなかった。十代の少女たちが、家族の介抱も家の修復も 多くを背負ってやっていたのだ。
そんな不安の中でも、ピアノを弾くことだけはやめなかったタエ子さん。
80才の今も、居間のグランドピアノで、同世代の方にレッスンする日もあり、東京近辺の活水同窓会のコーラスで伴奏されることもあるという。
ピ ・ ア ・ ノ ・・・ 思えば、 なんと、心躍る 響きの 楽器であろうか。
今まで、そんなことを 思ったこともなかった。
私の世代にとっての ピアノと まるでちがうのだ。
ピアノ科ではなかったが、母も毎晩夕食の後で、ひとりでピアノ弾いていた。 みんなでテレビを見たいその時間に、ピアノに母を取られるようで 小学生の私はシューベルトの「アンプロンプチュ」が嫌いになった。
ぴ あ の・・・ 少女たちの どんな想いを載せて、ピアノは 昭和10年代 20年代の空気をはじいてきたのだろうか。今度伺う時は、タエ子さんのピアノを聴いてみたいなぁ、と強く思った。
附記
私の同級生たまごちゃんが3月末の大学の同窓会で、私のブログを宣伝してくれた(笑)
偶然にも長崎活水出身の人とパートナーのお母さんが活水出身の人がいて!「長崎8人兄妹物語」を勧めたところ、義母さんはピアノ科出身だという。ちょうど、このインタビューをまとめていたので、たまごちゃんに名前と年を問い合わせてもらい、タエ子さんに聞いたところ、「まあ、ハセコだわ!」とタエ子さんは笑って、深いつながりを話してくれた。
タエ子さんが原爆後遺症に苦しみ、京都でふらふらしていた時期に、「君と同じ長崎の学校の女の子がピアノを習いたい と来たよ。でも あまり上手だから、教えることはないと帰した。」と先生に言われ、尋ねてみると、なんと活水ピアノ科の先輩ハセコさんだったという。ハセコさんはタエ子さんの3つ上の先輩で、初めは家政科に入ったが、義理の叔母にあたる雨森先生がピアノ科の先生だったこともあり、ピアノ科に転部したという。ピアノ科は10人位しかいなかった上に、タエ子さんとハセコさんの父親同士が京都の大学で同級生だったとかで、学年は違っても仲が良かったのだという。
原爆から生き延びて、ピアノが縁で、京都で再会した時は、どんなにびっくりしたことだろう。滋賀県堅田で代用教員をされていたハセコさんの家や、小学校にタエ子さんが遊びに行ったり、京都の家に来てもらったり、戦後の一時期、奇遇な交流があったという。
今は千葉にいらっしゃるというハセコさん。お嫁さんにあたるたまごちゃんのお友だちと私はお会いしたこともないが、こうしてネットのおかげで、かつての少女たちの不思議なつながりを知ることになり、目眩がするほど驚いた。