2007.11.27 Tuesday
音楽の話をしよう♪その7 ZABO ブルー・ノート さぼうる
本当は白いうた青いうたフェスティバルの前に、白いうた青いうたとの出逢いを書いて、このシリーズに一応のキリをつけるつもりだったのに、タイムスリップに毎回時間かけすぎて(スマン)、子育てシリーズも始めちゃったし、相当ズレこんでる。年内にキリつくだろうか。ちょっと間 開いちゃったね。
動物園からの手紙が来た。の続きです。
高3の夏休みは新聞局のチャコと一週間ほど長野県小谷(おたり)村で過ごした。当時流行っていた学生村。今もあるのかな? 農家の空き部屋に寄宿して、3食付きで、高原の涼しい静かな場所で 受験勉強しましょうってやつ。当時は予備校は浪人したら行くとこで、現役の時はみんな自分でやっていた。で、ちょっとは受験生してます! ってアリバイ作りにはるばる山へ出かけた。受験勉強してたかどうかは怪しいが、人生勉強はさせてもらったような?気がする。(笑)
で、最終日の8月31日に上高地に寄って、夜行で帰ってそのまま9月1日の始業式に出た。
晩夏の上高地、よかったなぁ〜♪ 梓川のほとりに寝ころんで、穂高の稜線を眺めながら、山の見える暮らしがしたいな〜 って切実に思った。私は 風景が人間を作る って考えている風景論者なので、緑のギザギザが空を区切っている景色と共に生きたい、って本気で思った。
東京脱出の夢が叶わなかったら、山を歩く生活をしよう とその時決めた。
去年の冬休みに先輩に連れて行ってもらった奈良が、自分の中で予想以上に大きくなっていた。
古いお寺の片隅で、しんと仏像に向き合って、何か大きなもの、揺るぎない空間に抱かれる時間が心地よかった。日吉館というおばあちゃんが一人でやっている古い宿には、お寺や仏像や古都が好きな人たちが、年越しを奈良で過ごそうと120人近く泊まっていて、独特の昂奮状態があった。8畳の部屋に10人位相部屋で詰め込まれても、みんな今日見てきた寺や仏像の話を夢中で話していて、楽しかった。1年に何度も奈良へ通っている人たちばかりで、みんなの話を聞くと、どんどん行きたいところが増えた。
皿洗いや布団敷きの手伝いをするお兄さん(オジサン?)たちが5、6人いただろうか。彼らも仏像やお寺めぐりが大好きで、日吉館のおばちゃんや仲間が大好きで、居候のように長く居着いている人もいるらしい。夜中に手伝いのお兄さんたちと、ぞろぞろ春日大社から二月堂まで初詣に行った。生駒山の上にポツンと灯りが見えた二月堂からの夜景は妙に覚えている。
忘れていたが、その時もジャズを2度聴いた。
大晦日に京都に行こうといって、丸餅やニシンの昆布まきを並べる祇園を歩き、ZABOというジャズ喫茶に入った。大きなJBLのスピーカーの音が心地良かった。あの泊まっている人みんなが家族みたいな日吉館の喧噪と、古くてひなびた奈良の町と、ちょっと上った都会の京都で、音の動きだけに身を委ねる、そのギャップがたまらなかった。 帰りに、ヤオさんの家に寄った時、彼女がピアノを弾いてくれた。彼女の弟が、友だちとフスマ大の凧を作っていて、私は横になってそれを眺めながら、
ピアノを聴いた。不思議な旅の終わりの、キース・ジャレットだった。
春休みにも、修学旅行の萩、津和野から帰った翌日、一人で奈良へ行った。スーさんがバイトしていた京都のジャズ喫茶ブルー・ノートを探しあてたのは、この時かもしれない。カウンターがピアノの鍵盤になっていて、大きくうねっているお洒落な店だった。奈良もよかったけど、時にはこんな店でジャズが聴ける一人暮らしに憧れた。 他の場所へ行きたかった私は、毎日山のギザギザが見える京都の大学を受けることに決めた。
で、9月1日。 夜行明けの 始業式の後は文化祭に向けてまっしぐら。去年に続いてクラスは演劇
「夕鶴」に燃えていたし、私は山岳部のヨウコとガリ版刷り(ガリ版って何か知ってる?)の文集を出そうと、ヨウコの家に泊まり込みで作業してた。ヨウコは私を初めて山へ連れて行ってくれたというだけでなく、高校時代一番の脳内バッテリーを組んでいた。目の前をスルーしていく現実についていけない私は、ヨウコと交換ノートをして、書くことで、自分を整理していたんだ。(これと同じだね。笑)
さぼうる って、ナツキちゃんとサナちゃんと行った神田の喫茶店覚えてる? レンガの壁に一面に 落書きしてある店。文集の名前はその店の名前だ。
そうそう、ナツキちゃんとサナちゃんが中学の時、その奈良へ連れていったくれた先輩のご両親がスケッチ展をやるので神田に一緒に見に行ったでしょ? あの時画廊で偶然に会ったのが、私が憧れていた生徒会長のヒロシくんだよ。その帰りに「さぼうる」に行って、2人で壁になにやら落書きしてたよね。(笑)
で、そのさぼうるって文集を文化祭で売ってる時、NHKに取材されて、テレビに出た。
「あなたにとって、青春って何色ですか?」とかなんとか聞かれた。
「政治の季節から個人の季節へ」ってコンセプトで取材されたドキュメンタリーで、個人主義とか三無主義とか、勝手にラベル貼って分類するな!って腹立てたけど、今考えれば、確かにそういう時代の空気の転換の時代だったのかもしれない。
で、大学受験。前にも書いたが、数学が0点、通知表も赤丸2色刷りの私は、担任の数学教師に
「チエさん、何考えてるの?国公立大は数学あるのよ。ムリよ」と指を立てて、腰をひねって言われた。(いつも腰をひねって話す先生だった)「わかってます。でも受けるのは自由でしょ」とは言ったものの、勉強はサッパリだったから、京都は全部敗退。犬のぬいぐるみをお守りに持って試験会場に入り、「そっちは鬼門だから、南の門から入れ」とかホテルに電話してくる父に従って(父は手相とか四柱推命に凝っていた)南の門から入ったのに・・・
運命(と感ずる思い込み)と 願望と 縁起かつぎ だけでは、叶わぬこともある
と、その時知った。
私の西へ向かったベクトルは、グンニャリ東に戻され、消去法で東京の大学へ通うことになった。
ケヤキ並木のすばらしいキャンパス!(風景と街と空気が人間を作るからね、その基準で選んだ。)
そして上高地で決めた 代替え案に従って、山へ通う暮らしが始まった。
また音楽の話じゃなくて、店の話で終わってしまった。(笑)
私にとって音楽は 風景=環境なんだ。許して。
動物園からの手紙が来た。の続きです。
高3の夏休みは新聞局のチャコと一週間ほど長野県小谷(おたり)村で過ごした。当時流行っていた学生村。今もあるのかな? 農家の空き部屋に寄宿して、3食付きで、高原の涼しい静かな場所で 受験勉強しましょうってやつ。当時は予備校は浪人したら行くとこで、現役の時はみんな自分でやっていた。で、ちょっとは受験生してます! ってアリバイ作りにはるばる山へ出かけた。受験勉強してたかどうかは怪しいが、人生勉強はさせてもらったような?気がする。(笑)
で、最終日の8月31日に上高地に寄って、夜行で帰ってそのまま9月1日の始業式に出た。
晩夏の上高地、よかったなぁ〜♪ 梓川のほとりに寝ころんで、穂高の稜線を眺めながら、山の見える暮らしがしたいな〜 って切実に思った。私は 風景が人間を作る って考えている風景論者なので、緑のギザギザが空を区切っている景色と共に生きたい、って本気で思った。
東京脱出の夢が叶わなかったら、山を歩く生活をしよう とその時決めた。
去年の冬休みに先輩に連れて行ってもらった奈良が、自分の中で予想以上に大きくなっていた。
古いお寺の片隅で、しんと仏像に向き合って、何か大きなもの、揺るぎない空間に抱かれる時間が心地よかった。日吉館というおばあちゃんが一人でやっている古い宿には、お寺や仏像や古都が好きな人たちが、年越しを奈良で過ごそうと120人近く泊まっていて、独特の昂奮状態があった。8畳の部屋に10人位相部屋で詰め込まれても、みんな今日見てきた寺や仏像の話を夢中で話していて、楽しかった。1年に何度も奈良へ通っている人たちばかりで、みんなの話を聞くと、どんどん行きたいところが増えた。
皿洗いや布団敷きの手伝いをするお兄さん(オジサン?)たちが5、6人いただろうか。彼らも仏像やお寺めぐりが大好きで、日吉館のおばちゃんや仲間が大好きで、居候のように長く居着いている人もいるらしい。夜中に手伝いのお兄さんたちと、ぞろぞろ春日大社から二月堂まで初詣に行った。生駒山の上にポツンと灯りが見えた二月堂からの夜景は妙に覚えている。
忘れていたが、その時もジャズを2度聴いた。
大晦日に京都に行こうといって、丸餅やニシンの昆布まきを並べる祇園を歩き、ZABOというジャズ喫茶に入った。大きなJBLのスピーカーの音が心地良かった。あの泊まっている人みんなが家族みたいな日吉館の喧噪と、古くてひなびた奈良の町と、ちょっと上った都会の京都で、音の動きだけに身を委ねる、そのギャップがたまらなかった。 帰りに、ヤオさんの家に寄った時、彼女がピアノを弾いてくれた。彼女の弟が、友だちとフスマ大の凧を作っていて、私は横になってそれを眺めながら、
ピアノを聴いた。不思議な旅の終わりの、キース・ジャレットだった。
春休みにも、修学旅行の萩、津和野から帰った翌日、一人で奈良へ行った。スーさんがバイトしていた京都のジャズ喫茶ブルー・ノートを探しあてたのは、この時かもしれない。カウンターがピアノの鍵盤になっていて、大きくうねっているお洒落な店だった。奈良もよかったけど、時にはこんな店でジャズが聴ける一人暮らしに憧れた。 他の場所へ行きたかった私は、毎日山のギザギザが見える京都の大学を受けることに決めた。
で、9月1日。 夜行明けの 始業式の後は文化祭に向けてまっしぐら。去年に続いてクラスは演劇
「夕鶴」に燃えていたし、私は山岳部のヨウコとガリ版刷り(ガリ版って何か知ってる?)の文集を出そうと、ヨウコの家に泊まり込みで作業してた。ヨウコは私を初めて山へ連れて行ってくれたというだけでなく、高校時代一番の脳内バッテリーを組んでいた。目の前をスルーしていく現実についていけない私は、ヨウコと交換ノートをして、書くことで、自分を整理していたんだ。(これと同じだね。笑)
さぼうる って、ナツキちゃんとサナちゃんと行った神田の喫茶店覚えてる? レンガの壁に一面に 落書きしてある店。文集の名前はその店の名前だ。
そうそう、ナツキちゃんとサナちゃんが中学の時、その奈良へ連れていったくれた先輩のご両親がスケッチ展をやるので神田に一緒に見に行ったでしょ? あの時画廊で偶然に会ったのが、私が憧れていた生徒会長のヒロシくんだよ。その帰りに「さぼうる」に行って、2人で壁になにやら落書きしてたよね。(笑)
で、そのさぼうるって文集を文化祭で売ってる時、NHKに取材されて、テレビに出た。
「あなたにとって、青春って何色ですか?」とかなんとか聞かれた。
「政治の季節から個人の季節へ」ってコンセプトで取材されたドキュメンタリーで、個人主義とか三無主義とか、勝手にラベル貼って分類するな!って腹立てたけど、今考えれば、確かにそういう時代の空気の転換の時代だったのかもしれない。
で、大学受験。前にも書いたが、数学が0点、通知表も赤丸2色刷りの私は、担任の数学教師に
「チエさん、何考えてるの?国公立大は数学あるのよ。ムリよ」と指を立てて、腰をひねって言われた。(いつも腰をひねって話す先生だった)「わかってます。でも受けるのは自由でしょ」とは言ったものの、勉強はサッパリだったから、京都は全部敗退。犬のぬいぐるみをお守りに持って試験会場に入り、「そっちは鬼門だから、南の門から入れ」とかホテルに電話してくる父に従って(父は手相とか四柱推命に凝っていた)南の門から入ったのに・・・
運命(と感ずる思い込み)と 願望と 縁起かつぎ だけでは、叶わぬこともある
と、その時知った。
私の西へ向かったベクトルは、グンニャリ東に戻され、消去法で東京の大学へ通うことになった。
ケヤキ並木のすばらしいキャンパス!(風景と街と空気が人間を作るからね、その基準で選んだ。)
そして上高地で決めた 代替え案に従って、山へ通う暮らしが始まった。
また音楽の話じゃなくて、店の話で終わってしまった。(笑)
私にとって音楽は 風景=環境なんだ。許して。