2007.09.28 Friday
音楽の話をしよう ♪ その4 風をあつめて
ナツキちゃんに宛てたメールのおかげでここまで一気に書くことができたが、(ゼイゼイ)
高校時代のことは、スーさんの記事で一度書いてしまったので、少し補足しないとダメかなと
ペースダウンしていきます。
音楽について話そう♪ 1、2を出したところで、ナツキちゃんから、また長いメールが来た。
わーー ブログ読みましたー!
自分の文章がインターネットで公開されるのって、(しかもほとんど手紙のような内容のものが…)
思ってたより、まごついてしまうものですねえ。
恥ずかしい気持ちはありますが、
私のメールをきっかけに音楽の話をしようと思ったと書いてくれたこと、
嬉しかったです。
ちえさんの音楽の履歴を読みながら、なんだか不思議な気持ちになりました。
ちえさんと私はやっぱり、ちょっと似てしまっているから(笑)
世代や、音の媒体や、流行の音楽やなんかが違っても、部屋で一人躍り狂ってしまうような衝動は、きっと同質なものだと思うんです。
というより、そうであってほしい。
ビートルズなんてミーハーだと言われて、たちまち父親に対して壁を打ち立てた話。
そういうものこそ、今の私の興味の中心です。(中略)
ビートルズの来日を、そのライブパフォーマンスを、目の当たりにした世代と、私の世代とでは、
ビートルズの音楽を同じように感じることができないという事実。
それは、たとえ音楽を愛するもの同士だとしても、どうすることもできない確執になる可能性すらある。
今、私の目の前には、ありとあらゆる国の、ありとあらゆる音楽が氾濫し、ありとあらゆる手段で
それらを手に入れることができます。
私は幸福な選択を行って、その中から好きなミュージシャンやバンドをピックアップでき、
都会に住んでいることもあって仕事帰りに気軽にライブハウスに足を運ぶこともできます。
音楽に対する欲求を、抑制された経験なんて私にはない。
国という単位でそれを禁じられていた時代に生きた、幸か不幸か音楽に貪欲だった人々に、
「お前の聴いているものなど音楽ではない。
お前の感じているものなど、私たちの感じたものに比べたらまったくの偽物だ」と言われたら、
私もやっぱり何も言えずに、一人でひとしきり泣いたあと、日記を書いてしまうと思うんですよ。(笑)
正直に言っちゃうと、世代間の相互理解は可能なことではないように思うんです。
歩み寄ることはできる、でも理解することはできない。
それって、本当は少しも不幸なことじゃないんですよね。
自分と違う世代のことを知りたいって思う気持ちは、きっと多くの人が持ってると思うんですが、
「俺たちの世代は俺たちだけのものだ」っていう誇りみたいなものを感じてる人のほうが、
多分、多いと思う。
それは、私の世代も、ちえさんの世代も、ちえさんのお父さんの世代も一緒で、多分ハコみたいな赤ちゃん世代もそうなっていくんだろなあ。
物語の主人公たちは、物心ついて音楽を聞き始めた頃にはビートルズが解散してるっていう頃の人たちで、「俺たちはビートルズに間に合わなかった。レッドツェッペリンにも間に合わなかった」って言うんですけど、私は未来の人間だから、彼らがヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニルヴァーナに間に合うことは知ってるんですよ。
だから私からしたら、ビートルズやツェッペリンがなんだ、君らは私の間に合わなかったヴェルヴェットやニルヴァーナに会えるんじゃないかって思うんだけど、そこでようやく気付く。
今自分が目の当たりにできている、「間に合った人々の音楽」、これって世代の財産なんだって。
ザマミロ、ですよ!
本当は、世代を理由に喧嘩しちゃいけないんですよね。
勝敗なんて絶対つかないから。
でもそういう喧嘩が起こったときに、暫定的に負けるほうは(つまり青くて未熟なほうは)、
けっこう大事なことに気付いたりも、できる。
で、それでもやっぱり、
世代も国境も越えて、音楽で共有できるものがあると、私は信じたいんです。
それが素敵なことに思えるのは、
「本当には理解できない」っていう大前提の事実があるからかもしれない。
私だけしか感じられないものがあるって、安心できる。
こんなに書くつもりじゃなかったんですが、だらだら思うままに書いてしまいました。
本当に、ブログの感想を数行書いて終わりにしようと思ってたのに…。
音楽の話、続きを楽しみにしていますね! 世代間の歩み寄り!(笑)
正直びっくりした。「間に合わなかった人たちの物語」って!?
私が時代に間に合わなかった歯ぎしりを書こうと思ってた時に、ちょうどこのメールが来たから。
だから、歯ぎしりは本当は高校に入ってから感じたことなのだが、急遽 前回の記事に載せた。
それから、ナツキちゃんの
暫定的に負けてるほうは(つまり青くて未熟なほうは)けっこう大事なことに気付いたりも、できる。
って言葉。 すごく いいね。 うん。うん。 って腑に落ちる。
私がずっと「連続と非連続」って言葉で ぼんやり考えてきたことに 似てる気がする。 こっちからは連続が見えるのに、なんで非連続ばかりが気になるのかって、ずっと苛立ってた。
たぶん、このブログを始めた動機も、暫定的に負け続けてきたことからのブローなんだろうな。(笑)
音楽というのは、それぞれの嗜好に基づく かなり個人的なものだと思っていたが、
いや〜、同級生たちや弟の昂奮したリアクションを見ると(笑)
やはり その世代が共有してるものってあるんだな、と改めて実感した。
特に私たちの中学時代(1968〜71)はインフラ的に、ナツキちゃんが書いているような
世界中の音源を自由にチョイスできる今とは違って、ほんとに限られた映画、音楽にみんなが
インプレスされてたんだねぇ。ということが、みんなの反応で よくわかったよ。(笑)
あんまりオバサンオジサンがノスタルジィに浸っていると、若い読者から「やってろ!」って
引かれちゃうかも(笑)・・って 危ぶんでいたので、ナツキちゃんみたいな若い人が絡んでくれると、
少しは違う展開にもリンクできる気がして ウレシイ。(これも 自己満だけどね 笑)
まあ、読んでりゃわかるが、私のは音楽を含む精神環境を年代的に辿りたい衝動で、音楽そのものについて語る力は不足だから、退屈だろうけど。も少し つきあってね〜♪
さて、中学の親友ミッコとは高校で新宿高校と駒場に分かれてしまって、(当時は学校群制度と言って、第21学校群を受けたら、その中のどちらの高校になるかは生徒は選べなかったんだよ。ヘンな制度だよね。)私の駒場ハイスクールデイズが始まった。
セーラー服だったんですよ。(私服でもよかったので、私はだんだん私服が多くなったが)
駒場高校は、前身が府立第3高女の伝統ある女子校だとかで、仰光寮という日本家屋が構内にあったり(茶道部やお琴が使っていたらしい。私は足を踏み入れたことない)コチロンという女子必修の輪舞があったり、ちょ、ちょっとご遠慮申し上げたい世界もあった。(笑)でも、普通科の他に、サッカーや陸上が強い保体科もあったし、今の都立芸術高校に独立する直前の芸術科もあったし、バラエティ豊かな面々が集まってる雰囲気は好きだったな。校舎に囲まれた中庭から校庭に出て、大橋の方へ向かう斜面の下にグランドやテニスコートがあって、その高低のある広がりを眺めるのが好きだった。
入学式の日に、長髪でイケメンの生徒会長が、ストレートで長い前髪を指でかき上げながら「君たちは、バラ色の高校生活を夢見て 入学したかもしれないが、君たちの高校生活は決してバラ色じゃない」とかなんとか ちょっと当時の学生運動のリーダー風に演説したのにしびれ、即日その生徒会長がいる新聞局に入部した。 「待ってろ時代!」って前のめりなフットワークで入ったのだから、この演説は「来た〜 時代!」って感じでビビっと来たわけだ。(当時は、そんな言葉では思ってないけどね)
演説の内容、ウラ覚えなので、当のヒロシくんに電話したら、たぶん僕が言いたかったのは、
「君たちはバラ色の高校生活を夢見て入学したかもしれないが、バラ色の生活は誰かが用意してくれるわけではない。自分で考え、自分で行動しなければ 灰色のままだ」というようなことだったんじゃないかな、だって。 キャア!今聞いてもしびれるわぁ〜。
もっともヒロシくんは「入学式の日に、あんなこと新入生に言うなんて」と職員室に呼ばれてカワイ先生とかに かなり叱られたらしい。(笑)
ところが、この3年生のヒロシくんには、新聞局内に2年生の彼女がおり!私の高校での初恋は
あえなく1日で終わってしまった(失恋するために新聞局に入ったようなもんだ ガ、ガ〜ン)
不純な動機で入部した1年生は(いや、別に動機には関係なく)まず広告取りに回ることから始まる。
道路を渡った向かいのパンやサカエヤ(ここのね、アンバタがおいしかったの!大きなコッペパンにこちらの注文に従って、あんことバターとかポテトサラダとかその場ではさんでくれるの。)とか、坂を下ったとこにある喫茶店のZIZIとか(コースケたちベビー・ピーが駒場アゴラ劇場でビートルズの芝居をやった時、この店でばったりナツキちゃんに会ったよね。あそこ昔は、先輩たちがタバコ吸ってるようなアングラな感じの店だったのに、明るいパーラーになっててビックリしたよ。笑)近所の店をまわって、タブロイド判の駒場高校新聞に掲載する広告をお願いに行くのだ。
それから特集記事のプランの相談。3年生は、同じ高校生とは思えない、知識も語彙も豊富だし、飛び交う 政治的な言葉についていけなくて、脳内失語の私は、ただ雰囲気に呑まれていた気がする。
私たちは三無主義とかシラケ世代とか言われたんですよ。
たぶん、私が高校入る前1968年から70年頃が、高校でも大学の学園紛争が飛び火して、駒場でもバリケード封鎖とかあったらしいから、その後に入った私たちは「無気力、無関心、無責任」というレッテルを貼られたわけ。でもさ、それって、私たちの責任なの? 生まれてくる時代も、時代が持ってる特有の空気も、誰も自分じゃ選べないじゃん! 高校生一人に時代全体を動かす力なんてないし 「なんだよっ!時代!」 って、感じだった。
ヒロシくんの話では、彼が入学した1969年は東大安田講堂バリケード封鎖の年で、毎週渋谷でデモをした大学生たちが、機動隊に追われて、駒場場高校の校庭になだれこんで来たり、かなり騒然としてたらしい。高校の隣にある第3機動隊でも、毎日赤組白組に分かれて、デモ鎮圧のための訓練をしてるのが学校の屋上から見えたし、高校生になったとたんに先輩たちに毎週デモや新宿西口フォーク集会に連れていかれたそうだ。駒場高校での争点は、70年安保改定に伴う佐藤栄作総理の訪米阻止のため、高校生も抗議デモに参加しよう というもので、ヒロシくんが2年の時、安保改定に抗議する全学ストライキを生徒会が可決。学校はあわててその日を臨時休校にして騒ぎを防いだ という。
知らなかった、今日初めて知った。雰囲気だけじゃなく、史実として、時代は 完璧 彼方だったんだ。
だから逆に、自分の中に挫折感も無気力感もなく、私は 風景として、その時代が持っていた昂揚に憧れていた。だけなのかもしれない。
で、どういう流れだったのか、まったく思い出せないが、剣道部にも入ったんですよ、私は。
時代が 柔道一直線だったから? それはナイ。
たぶん新聞局の頭でっかちの話し合いについて行けなくなって、窒息状態になった私が、キエ〜!とかオリャア〜とか、奇声を発して(これは相手を威嚇する正統な技ですが)まっすぐな竹刀を振り回す ってとこに惹かれたのかもね。
例のバレー部で培った、瞬間頭まっ白にして汗流したい願望が、私を動かしたのかも。
ストーリー的に、もっと新聞局で行き詰まってから入ったのだと思いきや、剣道部の I くんに問い合わせたら、一年の夏合宿の写真 すぐ送ってくれた。ホントだ!暗い顔してうつむいてる私がいる!
(すごいデータバンクだ 笑)
夏合宿では、富士山麓の坂道を朝からハカマ姿で走り、吉田神社の階段を上り下りし、
「おまえら、気合いが足りない! 床なめさせてやる!」なんて先輩の怒号で、ホントに面被って
すぐ酸欠になっちゃう私は、床なめてました。(普段の練習でも、倒れて、保健室で寝てることが多かった)小手の鹿皮と汗の臭いが蒸れて、クサくって、ホント、夏の剣道はハンパないんです。(笑)
しかも夜 「ヤミ鍋」というイベントがあって、先輩が作る唐辛子入りのギョーザとか、バナナの皮とかラーメンの袋とか、お、おそろしいモノが入った鍋を、真っ暗闇の中で食べなきゃいけない。
これが武道かぁ?って、泣いてました。 今 思えば楽しい思い出ですが・・
・・・なんか、いつも、自分にあまり向いてない方向へ、自分を追い込むクセがあるんだよねぇ、
私って。 なぜかしらん。(苦笑)
あれ?また、全然 音楽の話じゃないね。スミマセン。
まあ、そんなこんなで、高校入ったとたん あっちからこっちまで 行動範囲も拡がり、ギターはすぐにお蔵になり(イヤ、弟が使ってたかも!)音楽をゆっくり聴く時間も減ったような・・ワケなんです。
改めて年代を調べてみると、私が赤い風船を聴いてたころに、同時に吉田拓郎やらが出てきてて、
拓郎が「人間なんて」を3時間歌い続けたという伝説の中津川フォークジャンボリーがあったらしい。
名前や曲は当時から聞いていたのだろうが、私はリアルタイムで拓郎を聞いたことは、一度もない。
かぐや姫も ない。 だから、今、思い出のフォークとか 団塊の世代目当ての番組をたくさんやってて、神田川とか四畳半フォークとか流れると、「わぁ、なつかしい〜」とは思うんだけど、
実際の私の生活に食い込んできたことは、一度もなかったんだよね〜。
あんなに、フォークが好きだったのに、なぜなんだろう?
私は、赤い鳥→ はっぴいえんど でした。
赤い鳥は、「翼をください」が大ヒットした、美しいコーラス・グループで、「遠い世界に」の五つの赤い風船から、自然に流れたんだと思うけど、はっぴいえんどの「風街ろまん」は ちょっと衝撃的だった。
たぶん高1の時 クラスの男の子に勧められて聞き始めた気がするけれど、(なぜか音楽は男の子の影響が大きい 笑)なんか、ちょっとそれまでの前向きな感じを、はずされた。 というか、
せっかく赤い鳥で、日本のポップスもここまで来たか〜!って感じだったのに、そのベクトルを、ぐいっとねじられたような(うまく言えない。 当時はそんな風に思ってない。)屈折した、裏道行く感じがよかった。今聴くと、ちょっとネムイ感じもあるが(笑)当時は、感覚として、音楽的にも すっごく新しい気がしたんだよね。
アルバム「風街ろまん」は「はいからはくち」とか「風来坊」とか 意味不明のへんな歌詞に とまどった。まだサザンの桑田が英語も日本語もぐちゃぐちゃにしてかき回す前だからね、前回書いた流れから言っても、私が馴染んでいた歌はもっとメッセージ性が強かったし。メッセージはあるんだけど、なんかちがう方向から じんわり来るような、こんな惑乱は初めてだった。 けっこう 衝撃大きかった。
特に「風をあつめて」が好きだった。最近 いろんな人にカバーされて、CMでも流れてるよね。 え? なんだっけ? この歌 ってぞわっとした。
私は、いつも、街の景色 とか 風景とか の中にいる自分を、遠くからぼんやり感じていたくて、風景とか空間とかにすごく興味がある。それから、今でもだけど、風に吹かれるのが何より好きで、空気が動いてないと、(それから水がないと)ほんとに窒息しそうになる。だからなのかな。歌詞が すごく好きで、言葉が、ぐいぐい食い込んできた。
今 解説読むと 「松本隆の都市論を 細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂がそれぞれ独自のポップによって音楽化したもので」とか書いてあって、ええ!そうだったの!だから、惹かれてたのか・・・って
今更 妙にナットクしたりして。(これについては後で書く)
ナツキちゃんに2月に書いた時は、高校時代はすぐキャロル・キングで、すっかり抜け落ちていたのだけれど、私的にはけっこう 大きな 出会いだったのかも って、書いてて わかった。(笑)
はっぴいえんど・・
高校時代のことは、スーさんの記事で一度書いてしまったので、少し補足しないとダメかなと
ペースダウンしていきます。
音楽について話そう♪ 1、2を出したところで、ナツキちゃんから、また長いメールが来た。
わーー ブログ読みましたー!
自分の文章がインターネットで公開されるのって、(しかもほとんど手紙のような内容のものが…)
思ってたより、まごついてしまうものですねえ。
恥ずかしい気持ちはありますが、
私のメールをきっかけに音楽の話をしようと思ったと書いてくれたこと、
嬉しかったです。
ちえさんの音楽の履歴を読みながら、なんだか不思議な気持ちになりました。
ちえさんと私はやっぱり、ちょっと似てしまっているから(笑)
世代や、音の媒体や、流行の音楽やなんかが違っても、部屋で一人躍り狂ってしまうような衝動は、きっと同質なものだと思うんです。
というより、そうであってほしい。
ビートルズなんてミーハーだと言われて、たちまち父親に対して壁を打ち立てた話。
そういうものこそ、今の私の興味の中心です。(中略)
ビートルズの来日を、そのライブパフォーマンスを、目の当たりにした世代と、私の世代とでは、
ビートルズの音楽を同じように感じることができないという事実。
それは、たとえ音楽を愛するもの同士だとしても、どうすることもできない確執になる可能性すらある。
今、私の目の前には、ありとあらゆる国の、ありとあらゆる音楽が氾濫し、ありとあらゆる手段で
それらを手に入れることができます。
私は幸福な選択を行って、その中から好きなミュージシャンやバンドをピックアップでき、
都会に住んでいることもあって仕事帰りに気軽にライブハウスに足を運ぶこともできます。
音楽に対する欲求を、抑制された経験なんて私にはない。
国という単位でそれを禁じられていた時代に生きた、幸か不幸か音楽に貪欲だった人々に、
「お前の聴いているものなど音楽ではない。
お前の感じているものなど、私たちの感じたものに比べたらまったくの偽物だ」と言われたら、
私もやっぱり何も言えずに、一人でひとしきり泣いたあと、日記を書いてしまうと思うんですよ。(笑)
正直に言っちゃうと、世代間の相互理解は可能なことではないように思うんです。
歩み寄ることはできる、でも理解することはできない。
それって、本当は少しも不幸なことじゃないんですよね。
自分と違う世代のことを知りたいって思う気持ちは、きっと多くの人が持ってると思うんですが、
「俺たちの世代は俺たちだけのものだ」っていう誇りみたいなものを感じてる人のほうが、
多分、多いと思う。
それは、私の世代も、ちえさんの世代も、ちえさんのお父さんの世代も一緒で、多分ハコみたいな赤ちゃん世代もそうなっていくんだろなあ。
物語の主人公たちは、物心ついて音楽を聞き始めた頃にはビートルズが解散してるっていう頃の人たちで、「俺たちはビートルズに間に合わなかった。レッドツェッペリンにも間に合わなかった」って言うんですけど、私は未来の人間だから、彼らがヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニルヴァーナに間に合うことは知ってるんですよ。
だから私からしたら、ビートルズやツェッペリンがなんだ、君らは私の間に合わなかったヴェルヴェットやニルヴァーナに会えるんじゃないかって思うんだけど、そこでようやく気付く。
今自分が目の当たりにできている、「間に合った人々の音楽」、これって世代の財産なんだって。
ザマミロ、ですよ!
本当は、世代を理由に喧嘩しちゃいけないんですよね。
勝敗なんて絶対つかないから。
でもそういう喧嘩が起こったときに、暫定的に負けるほうは(つまり青くて未熟なほうは)、
けっこう大事なことに気付いたりも、できる。
で、それでもやっぱり、
世代も国境も越えて、音楽で共有できるものがあると、私は信じたいんです。
それが素敵なことに思えるのは、
「本当には理解できない」っていう大前提の事実があるからかもしれない。
私だけしか感じられないものがあるって、安心できる。
こんなに書くつもりじゃなかったんですが、だらだら思うままに書いてしまいました。
本当に、ブログの感想を数行書いて終わりにしようと思ってたのに…。
音楽の話、続きを楽しみにしていますね! 世代間の歩み寄り!(笑)
正直びっくりした。「間に合わなかった人たちの物語」って!?
私が時代に間に合わなかった歯ぎしりを書こうと思ってた時に、ちょうどこのメールが来たから。
だから、歯ぎしりは本当は高校に入ってから感じたことなのだが、急遽 前回の記事に載せた。
それから、ナツキちゃんの
暫定的に負けてるほうは(つまり青くて未熟なほうは)けっこう大事なことに気付いたりも、できる。
って言葉。 すごく いいね。 うん。うん。 って腑に落ちる。
私がずっと「連続と非連続」って言葉で ぼんやり考えてきたことに 似てる気がする。 こっちからは連続が見えるのに、なんで非連続ばかりが気になるのかって、ずっと苛立ってた。
たぶん、このブログを始めた動機も、暫定的に負け続けてきたことからのブローなんだろうな。(笑)
音楽というのは、それぞれの嗜好に基づく かなり個人的なものだと思っていたが、
いや〜、同級生たちや弟の昂奮したリアクションを見ると(笑)
やはり その世代が共有してるものってあるんだな、と改めて実感した。
特に私たちの中学時代(1968〜71)はインフラ的に、ナツキちゃんが書いているような
世界中の音源を自由にチョイスできる今とは違って、ほんとに限られた映画、音楽にみんなが
インプレスされてたんだねぇ。ということが、みんなの反応で よくわかったよ。(笑)
あんまりオバサンオジサンがノスタルジィに浸っていると、若い読者から「やってろ!」って
引かれちゃうかも(笑)・・って 危ぶんでいたので、ナツキちゃんみたいな若い人が絡んでくれると、
少しは違う展開にもリンクできる気がして ウレシイ。(これも 自己満だけどね 笑)
まあ、読んでりゃわかるが、私のは音楽を含む精神環境を年代的に辿りたい衝動で、音楽そのものについて語る力は不足だから、退屈だろうけど。も少し つきあってね〜♪
さて、中学の親友ミッコとは高校で新宿高校と駒場に分かれてしまって、(当時は学校群制度と言って、第21学校群を受けたら、その中のどちらの高校になるかは生徒は選べなかったんだよ。ヘンな制度だよね。)私の駒場ハイスクールデイズが始まった。
セーラー服だったんですよ。(私服でもよかったので、私はだんだん私服が多くなったが)
駒場高校は、前身が府立第3高女の伝統ある女子校だとかで、仰光寮という日本家屋が構内にあったり(茶道部やお琴が使っていたらしい。私は足を踏み入れたことない)コチロンという女子必修の輪舞があったり、ちょ、ちょっとご遠慮申し上げたい世界もあった。(笑)でも、普通科の他に、サッカーや陸上が強い保体科もあったし、今の都立芸術高校に独立する直前の芸術科もあったし、バラエティ豊かな面々が集まってる雰囲気は好きだったな。校舎に囲まれた中庭から校庭に出て、大橋の方へ向かう斜面の下にグランドやテニスコートがあって、その高低のある広がりを眺めるのが好きだった。
入学式の日に、長髪でイケメンの生徒会長が、ストレートで長い前髪を指でかき上げながら「君たちは、バラ色の高校生活を夢見て 入学したかもしれないが、君たちの高校生活は決してバラ色じゃない」とかなんとか ちょっと当時の学生運動のリーダー風に演説したのにしびれ、即日その生徒会長がいる新聞局に入部した。 「待ってろ時代!」って前のめりなフットワークで入ったのだから、この演説は「来た〜 時代!」って感じでビビっと来たわけだ。(当時は、そんな言葉では思ってないけどね)
演説の内容、ウラ覚えなので、当のヒロシくんに電話したら、たぶん僕が言いたかったのは、
「君たちはバラ色の高校生活を夢見て入学したかもしれないが、バラ色の生活は誰かが用意してくれるわけではない。自分で考え、自分で行動しなければ 灰色のままだ」というようなことだったんじゃないかな、だって。 キャア!今聞いてもしびれるわぁ〜。
もっともヒロシくんは「入学式の日に、あんなこと新入生に言うなんて」と職員室に呼ばれてカワイ先生とかに かなり叱られたらしい。(笑)
ところが、この3年生のヒロシくんには、新聞局内に2年生の彼女がおり!私の高校での初恋は
あえなく1日で終わってしまった(失恋するために新聞局に入ったようなもんだ ガ、ガ〜ン)
不純な動機で入部した1年生は(いや、別に動機には関係なく)まず広告取りに回ることから始まる。
道路を渡った向かいのパンやサカエヤ(ここのね、アンバタがおいしかったの!大きなコッペパンにこちらの注文に従って、あんことバターとかポテトサラダとかその場ではさんでくれるの。)とか、坂を下ったとこにある喫茶店のZIZIとか(コースケたちベビー・ピーが駒場アゴラ劇場でビートルズの芝居をやった時、この店でばったりナツキちゃんに会ったよね。あそこ昔は、先輩たちがタバコ吸ってるようなアングラな感じの店だったのに、明るいパーラーになっててビックリしたよ。笑)近所の店をまわって、タブロイド判の駒場高校新聞に掲載する広告をお願いに行くのだ。
それから特集記事のプランの相談。3年生は、同じ高校生とは思えない、知識も語彙も豊富だし、飛び交う 政治的な言葉についていけなくて、脳内失語の私は、ただ雰囲気に呑まれていた気がする。
私たちは三無主義とかシラケ世代とか言われたんですよ。
たぶん、私が高校入る前1968年から70年頃が、高校でも大学の学園紛争が飛び火して、駒場でもバリケード封鎖とかあったらしいから、その後に入った私たちは「無気力、無関心、無責任」というレッテルを貼られたわけ。でもさ、それって、私たちの責任なの? 生まれてくる時代も、時代が持ってる特有の空気も、誰も自分じゃ選べないじゃん! 高校生一人に時代全体を動かす力なんてないし 「なんだよっ!時代!」 って、感じだった。
ヒロシくんの話では、彼が入学した1969年は東大安田講堂バリケード封鎖の年で、毎週渋谷でデモをした大学生たちが、機動隊に追われて、駒場場高校の校庭になだれこんで来たり、かなり騒然としてたらしい。高校の隣にある第3機動隊でも、毎日赤組白組に分かれて、デモ鎮圧のための訓練をしてるのが学校の屋上から見えたし、高校生になったとたんに先輩たちに毎週デモや新宿西口フォーク集会に連れていかれたそうだ。駒場高校での争点は、70年安保改定に伴う佐藤栄作総理の訪米阻止のため、高校生も抗議デモに参加しよう というもので、ヒロシくんが2年の時、安保改定に抗議する全学ストライキを生徒会が可決。学校はあわててその日を臨時休校にして騒ぎを防いだ という。
知らなかった、今日初めて知った。雰囲気だけじゃなく、史実として、時代は 完璧 彼方だったんだ。
だから逆に、自分の中に挫折感も無気力感もなく、私は 風景として、その時代が持っていた昂揚に憧れていた。だけなのかもしれない。
で、どういう流れだったのか、まったく思い出せないが、剣道部にも入ったんですよ、私は。
時代が 柔道一直線だったから? それはナイ。
たぶん新聞局の頭でっかちの話し合いについて行けなくなって、窒息状態になった私が、キエ〜!とかオリャア〜とか、奇声を発して(これは相手を威嚇する正統な技ですが)まっすぐな竹刀を振り回す ってとこに惹かれたのかもね。
例のバレー部で培った、瞬間頭まっ白にして汗流したい願望が、私を動かしたのかも。
ストーリー的に、もっと新聞局で行き詰まってから入ったのだと思いきや、剣道部の I くんに問い合わせたら、一年の夏合宿の写真 すぐ送ってくれた。ホントだ!暗い顔してうつむいてる私がいる!
(すごいデータバンクだ 笑)
夏合宿では、富士山麓の坂道を朝からハカマ姿で走り、吉田神社の階段を上り下りし、
「おまえら、気合いが足りない! 床なめさせてやる!」なんて先輩の怒号で、ホントに面被って
すぐ酸欠になっちゃう私は、床なめてました。(普段の練習でも、倒れて、保健室で寝てることが多かった)小手の鹿皮と汗の臭いが蒸れて、クサくって、ホント、夏の剣道はハンパないんです。(笑)
しかも夜 「ヤミ鍋」というイベントがあって、先輩が作る唐辛子入りのギョーザとか、バナナの皮とかラーメンの袋とか、お、おそろしいモノが入った鍋を、真っ暗闇の中で食べなきゃいけない。
これが武道かぁ?って、泣いてました。 今 思えば楽しい思い出ですが・・
・・・なんか、いつも、自分にあまり向いてない方向へ、自分を追い込むクセがあるんだよねぇ、
私って。 なぜかしらん。(苦笑)
あれ?また、全然 音楽の話じゃないね。スミマセン。
まあ、そんなこんなで、高校入ったとたん あっちからこっちまで 行動範囲も拡がり、ギターはすぐにお蔵になり(イヤ、弟が使ってたかも!)音楽をゆっくり聴く時間も減ったような・・ワケなんです。
改めて年代を調べてみると、私が赤い風船を聴いてたころに、同時に吉田拓郎やらが出てきてて、
拓郎が「人間なんて」を3時間歌い続けたという伝説の中津川フォークジャンボリーがあったらしい。
名前や曲は当時から聞いていたのだろうが、私はリアルタイムで拓郎を聞いたことは、一度もない。
かぐや姫も ない。 だから、今、思い出のフォークとか 団塊の世代目当ての番組をたくさんやってて、神田川とか四畳半フォークとか流れると、「わぁ、なつかしい〜」とは思うんだけど、
実際の私の生活に食い込んできたことは、一度もなかったんだよね〜。
あんなに、フォークが好きだったのに、なぜなんだろう?
私は、赤い鳥→ はっぴいえんど でした。
赤い鳥は、「翼をください」が大ヒットした、美しいコーラス・グループで、「遠い世界に」の五つの赤い風船から、自然に流れたんだと思うけど、はっぴいえんどの「風街ろまん」は ちょっと衝撃的だった。
たぶん高1の時 クラスの男の子に勧められて聞き始めた気がするけれど、(なぜか音楽は男の子の影響が大きい 笑)なんか、ちょっとそれまでの前向きな感じを、はずされた。 というか、
せっかく赤い鳥で、日本のポップスもここまで来たか〜!って感じだったのに、そのベクトルを、ぐいっとねじられたような(うまく言えない。 当時はそんな風に思ってない。)屈折した、裏道行く感じがよかった。今聴くと、ちょっとネムイ感じもあるが(笑)当時は、感覚として、音楽的にも すっごく新しい気がしたんだよね。
アルバム「風街ろまん」は「はいからはくち」とか「風来坊」とか 意味不明のへんな歌詞に とまどった。まだサザンの桑田が英語も日本語もぐちゃぐちゃにしてかき回す前だからね、前回書いた流れから言っても、私が馴染んでいた歌はもっとメッセージ性が強かったし。メッセージはあるんだけど、なんかちがう方向から じんわり来るような、こんな惑乱は初めてだった。 けっこう 衝撃大きかった。
特に「風をあつめて」が好きだった。最近 いろんな人にカバーされて、CMでも流れてるよね。 え? なんだっけ? この歌 ってぞわっとした。
私は、いつも、街の景色 とか 風景とか の中にいる自分を、遠くからぼんやり感じていたくて、風景とか空間とかにすごく興味がある。それから、今でもだけど、風に吹かれるのが何より好きで、空気が動いてないと、(それから水がないと)ほんとに窒息しそうになる。だからなのかな。歌詞が すごく好きで、言葉が、ぐいぐい食い込んできた。
今 解説読むと 「松本隆の都市論を 細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂がそれぞれ独自のポップによって音楽化したもので」とか書いてあって、ええ!そうだったの!だから、惹かれてたのか・・・って
今更 妙にナットクしたりして。(これについては後で書く)
ナツキちゃんに2月に書いた時は、高校時代はすぐキャロル・キングで、すっかり抜け落ちていたのだけれど、私的にはけっこう 大きな 出会いだったのかも って、書いてて わかった。(笑)
はっぴいえんど・・