音楽の話をしよう ♪ その4  風をあつめて 

ナツキちゃんに宛てたメールのおかげでここまで一気に書くことができたが、(ゼイゼイ)
高校時代のことは、スーさんの記事で一度書いてしまったので、少し補足しないとダメかなと 
ペースダウンしていきます。

音楽について話そう♪ 1、2を出したところで、ナツキちゃんから、また長いメールが来た。
わーー ブログ読みましたー!
自分の文章がインターネットで公開されるのって、(しかもほとんど手紙のような内容のものが…)
思ってたより、まごついてしまうものですねえ。

恥ずかしい気持ちはありますが、
私のメールをきっかけに音楽の話をしようと思ったと書いてくれたこと、
嬉しかったです。

ちえさんの音楽の履歴を読みながら、なんだか不思議な気持ちになりました。
ちえさんと私はやっぱり、ちょっと似てしまっているから(笑)
世代や、音の媒体や、流行の音楽やなんかが違っても、部屋で一人躍り狂ってしまうような衝動は、きっと同質なものだと思うんです。

というより、そうであってほしい。

ビートルズなんてミーハーだと言われて、たちまち父親に対して壁を打ち立てた話。
そういうものこそ、今の私の興味の中心です。(中略)

ビートルズの来日を、そのライブパフォーマンスを、目の当たりにした世代と、私の世代とでは、
ビートルズの音楽を同じように感じることができないという事実。
それは、たとえ音楽を愛するもの同士だとしても、どうすることもできない確執になる可能性すらある。

今、私の目の前には、ありとあらゆる国の、ありとあらゆる音楽が氾濫し、ありとあらゆる手段で
それらを手に入れることができます。
私は幸福な選択を行って、その中から好きなミュージシャンやバンドをピックアップでき、
都会に住んでいることもあって仕事帰りに気軽にライブハウスに足を運ぶこともできます。

音楽に対する欲求を、抑制された経験なんて私にはない。
国という単位でそれを禁じられていた時代に生きた、幸か不幸か音楽に貪欲だった人々に、
「お前の聴いているものなど音楽ではない。
お前の感じているものなど、私たちの感じたものに比べたらまったくの偽物だ」と言われたら、
私もやっぱり何も言えずに、一人でひとしきり泣いたあと、日記を書いてしまうと思うんですよ。(笑)

正直に言っちゃうと、世代間の相互理解は可能なことではないように思うんです。
歩み寄ることはできる、でも理解することはできない。
それって、本当は少しも不幸なことじゃないんですよね。
自分と違う世代のことを知りたいって思う気持ちは、きっと多くの人が持ってると思うんですが、
「俺たちの世代は俺たちだけのものだ」っていう誇りみたいなものを感じてる人のほうが、
多分、多いと思う。

それは、私の世代も、ちえさんの世代も、ちえさんのお父さんの世代も一緒で、多分ハコみたいな赤ちゃん世代もそうなっていくんだろなあ。

物語の主人公たちは、物心ついて音楽を聞き始めた頃にはビートルズが解散してるっていう頃の人たちで、「俺たちはビートルズに間に合わなかった。レッドツェッペリンにも間に合わなかった」って言うんですけど、私は未来の人間だから、彼らがヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニルヴァーナに間に合うことは知ってるんですよ。
だから私からしたら、ビートルズやツェッペリンがなんだ、君らは私の間に合わなかったヴェルヴェットやニルヴァーナに会えるんじゃないかって思うんだけど、そこでようやく気付く。
今自分が目の当たりにできている、「間に合った人々の音楽」、これって世代の財産なんだって。
ザマミロ、ですよ!

本当は、世代を理由に喧嘩しちゃいけないんですよね。
勝敗なんて絶対つかないから。
でもそういう喧嘩が起こったときに、暫定的に負けるほうは(つまり青くて未熟なほうは)、
けっこう大事なことに気付いたりも、できる。

で、それでもやっぱり、
世代も国境も越えて、音楽で共有できるものがあると、私は信じたいんです。
それが素敵なことに思えるのは、
「本当には理解できない」っていう大前提の事実があるからかもしれない。
私だけしか感じられないものがあるって、安心できる。

こんなに書くつもりじゃなかったんですが、だらだら思うままに書いてしまいました。
本当に、ブログの感想を数行書いて終わりにしようと思ってたのに…。

音楽の話、続きを楽しみにしていますね! 世代間の歩み寄り!(笑)  


正直びっくりした。「間に合わなかった人たちの物語」って!?
私が時代に間に合わなかった歯ぎしりを書こうと思ってた時に、ちょうどこのメールが来たから。 
だから、歯ぎしりは本当は高校に入ってから感じたことなのだが、急遽 前回の記事に載せた。

それから、ナツキちゃんの
暫定的に負けてるほうは(つまり青くて未熟なほうは)けっこう大事なことに気付いたりも、できる。
って言葉。 すごく いいね。 うん。うん。 って腑に落ちる。
私がずっと「連続と非連続」って言葉で ぼんやり考えてきたことに 似てる気がする。 こっちからは連続が見えるのに、なんで非連続ばかりが気になるのかって、ずっと苛立ってた。
たぶん、このブログを始めた動機も、暫定的に負け続けてきたことからのブローなんだろうな。(笑)

音楽というのは、それぞれの嗜好に基づく かなり個人的なものだと思っていたが、
いや〜、同級生たちや弟の昂奮したリアクションを見ると(笑)
やはり その世代が共有してるものってあるんだな、と改めて実感した。
特に私たちの中学時代(1968〜71)はインフラ的に、ナツキちゃんが書いているような 
世界中の音源を自由にチョイスできる今とは違って、ほんとに限られた映画、音楽にみんなが
インプレスされてたんだねぇ。ということが、みんなの反応で よくわかったよ。(笑)

あんまりオバサンオジサンがノスタルジィに浸っていると、若い読者から「やってろ!」って 
引かれちゃうかも(笑)・・って 危ぶんでいたので、ナツキちゃんみたいな若い人が絡んでくれると、
少しは違う展開にもリンクできる気がして ウレシイ。(これも 自己満だけどね 笑)
まあ、読んでりゃわかるが、私のは音楽を含む精神環境を年代的に辿りたい衝動で、音楽そのものについて語る力は不足だから、退屈だろうけど。も少し つきあってね〜♪

さて、中学の親友ミッコとは高校で新宿高校と駒場に分かれてしまって、(当時は学校群制度と言って、第21学校群を受けたら、その中のどちらの高校になるかは生徒は選べなかったんだよ。ヘンな制度だよね。)私の駒場ハイスクールデイズが始まった。

セーラー服だったんですよ。(私服でもよかったので、私はだんだん私服が多くなったが)
駒場高校は、前身が府立第3高女の伝統ある女子校だとかで、仰光寮という日本家屋が構内にあったり(茶道部やお琴が使っていたらしい。私は足を踏み入れたことない)コチロンという女子必修の輪舞があったり、ちょ、ちょっとご遠慮申し上げたい世界もあった。(笑)でも、普通科の他に、サッカーや陸上が強い保体科もあったし、今の都立芸術高校に独立する直前の芸術科もあったし、バラエティ豊かな面々が集まってる雰囲気は好きだったな。校舎に囲まれた中庭から校庭に出て、大橋の方へ向かう斜面の下にグランドやテニスコートがあって、その高低のある広がりを眺めるのが好きだった。
 
入学式の日に、長髪でイケメンの生徒会長が、ストレートで長い前髪を指でかき上げながら「君たちは、バラ色の高校生活を夢見て 入学したかもしれないが、君たちの高校生活は決してバラ色じゃない」とかなんとか ちょっと当時の学生運動のリーダー風に演説したのにしびれ、即日その生徒会長がいる新聞局に入部した。 「待ってろ時代!」って前のめりなフットワークで入ったのだから、この演説は「来た〜 時代!」って感じでビビっと来たわけだ。(当時は、そんな言葉では思ってないけどね)

演説の内容、ウラ覚えなので、当のヒロシくんに電話したら、たぶん僕が言いたかったのは、
「君たちはバラ色の高校生活を夢見て入学したかもしれないが、バラ色の生活は誰かが用意してくれるわけではない。自分で考え、自分で行動しなければ 灰色のままだ」というようなことだったんじゃないかな、だって。 キャア!今聞いてもしびれるわぁ〜。
もっともヒロシくんは「入学式の日に、あんなこと新入生に言うなんて」と職員室に呼ばれてカワイ先生とかに かなり叱られたらしい。(笑) 

ところが、この3年生のヒロシくんには、新聞局内に2年生の彼女がおり!私の高校での初恋は
あえなく1日で終わってしまった(失恋するために新聞局に入ったようなもんだ ガ、ガ〜ン)

不純な動機で入部した1年生は(いや、別に動機には関係なく)まず広告取りに回ることから始まる。
道路を渡った向かいのパンやサカエヤ(ここのね、アンバタがおいしかったの!大きなコッペパンにこちらの注文に従って、あんことバターとかポテトサラダとかその場ではさんでくれるの。)とか、坂を下ったとこにある喫茶店のZIZIとか(コースケたちベビー・ピーが駒場アゴラ劇場でビートルズの芝居をやった時、この店でばったりナツキちゃんに会ったよね。あそこ昔は、先輩たちがタバコ吸ってるようなアングラな感じの店だったのに、明るいパーラーになっててビックリしたよ。笑)近所の店をまわって、タブロイド判の駒場高校新聞に掲載する広告をお願いに行くのだ。

それから特集記事のプランの相談。3年生は、同じ高校生とは思えない、知識も語彙も豊富だし、飛び交う 政治的な言葉についていけなくて、脳内失語の私は、ただ雰囲気に呑まれていた気がする。

私たちは三無主義とかシラケ世代とか言われたんですよ。
たぶん、私が高校入る前1968年から70年頃が、高校でも大学の学園紛争が飛び火して、駒場でもバリケード封鎖とかあったらしいから、その後に入った私たちは「無気力、無関心、無責任」というレッテルを貼られたわけ。でもさ、それって、私たちの責任なの? 生まれてくる時代も、時代が持ってる特有の空気も、誰も自分じゃ選べないじゃん! 高校生一人に時代全体を動かす力なんてないし 「なんだよっ!時代!」 って、感じだった。

ヒロシくんの話では、彼が入学した1969年は東大安田講堂バリケード封鎖の年で、毎週渋谷でデモをした大学生たちが、機動隊に追われて、駒場場高校の校庭になだれこんで来たり、かなり騒然としてたらしい。高校の隣にある第3機動隊でも、毎日赤組白組に分かれて、デモ鎮圧のための訓練をしてるのが学校の屋上から見えたし、高校生になったとたんに先輩たちに毎週デモや新宿西口フォーク集会に連れていかれたそうだ。駒場高校での争点は、70年安保改定に伴う佐藤栄作総理の訪米阻止のため、高校生も抗議デモに参加しよう というもので、ヒロシくんが2年の時、安保改定に抗議する全学ストライキを生徒会が可決。学校はあわててその日を臨時休校にして騒ぎを防いだ という。

知らなかった、今日初めて知った。雰囲気だけじゃなく、史実として、時代は 完璧 彼方だったんだ。
だから逆に、自分の中に挫折感も無気力感もなく、私は 風景として、その時代が持っていた昂揚に憧れていた。だけなのかもしれない。

で、どういう流れだったのか、まったく思い出せないが、剣道部にも入ったんですよ、私は。
時代が 柔道一直線だったから? それはナイ。
たぶん新聞局の頭でっかちの話し合いについて行けなくなって、窒息状態になった私が、キエ〜!とかオリャア〜とか、奇声を発して(これは相手を威嚇する正統な技ですが)まっすぐな竹刀を振り回す ってとこに惹かれたのかもね。
例のバレー部で培った、瞬間頭まっ白にして汗流したい願望が、私を動かしたのかも。

ストーリー的に、もっと新聞局で行き詰まってから入ったのだと思いきや、剣道部の I くんに問い合わせたら、一年の夏合宿の写真 すぐ送ってくれた。ホントだ!暗い顔してうつむいてる私がいる!
(すごいデータバンクだ 笑)
夏合宿では、富士山麓の坂道を朝からハカマ姿で走り、吉田神社の階段を上り下りし、
「おまえら、気合いが足りない! 床なめさせてやる!」なんて先輩の怒号で、ホントに面被って
すぐ酸欠になっちゃう私は、床なめてました。(普段の練習でも、倒れて、保健室で寝てることが多かった)小手の鹿皮と汗の臭いが蒸れて、クサくって、ホント、夏の剣道はハンパないんです。(笑)
しかも夜 「ヤミ鍋」というイベントがあって、先輩が作る唐辛子入りのギョーザとか、バナナの皮とかラーメンの袋とか、お、おそろしいモノが入った鍋を、真っ暗闇の中で食べなきゃいけない。
これが武道かぁ?って、泣いてました。 今 思えば楽しい思い出ですが・・  

・・・なんか、いつも、自分にあまり向いてない方向へ、自分を追い込むクセがあるんだよねぇ、
私って。 なぜかしらん。(苦笑)

あれ?また、全然 音楽の話じゃないね。スミマセン。
まあ、そんなこんなで、高校入ったとたん あっちからこっちまで 行動範囲も拡がり、ギターはすぐにお蔵になり(イヤ、弟が使ってたかも!)音楽をゆっくり聴く時間も減ったような・・ワケなんです。

改めて年代を調べてみると、私が赤い風船を聴いてたころに、同時に吉田拓郎やらが出てきてて、
拓郎が「人間なんて」を3時間歌い続けたという伝説の中津川フォークジャンボリーがあったらしい。
名前や曲は当時から聞いていたのだろうが、私はリアルタイムで拓郎を聞いたことは、一度もない。
かぐや姫も ない。 だから、今、思い出のフォークとか 団塊の世代目当ての番組をたくさんやってて、神田川とか四畳半フォークとか流れると、「わぁ、なつかしい〜」とは思うんだけど、
実際の私の生活に食い込んできたことは、一度もなかったんだよね〜。
あんなに、フォークが好きだったのに、なぜなんだろう?

私は、赤い鳥→ はっぴいえんど でした。
赤い鳥は、「翼をください」が大ヒットした、美しいコーラス・グループで、「遠い世界に」の五つの赤い風船から、自然に流れたんだと思うけど、はっぴいえんどの「風街ろまん」は ちょっと衝撃的だった。

たぶん高1の時 クラスの男の子に勧められて聞き始めた気がするけれど、(なぜか音楽は男の子の影響が大きい 笑)なんか、ちょっとそれまでの前向きな感じを、はずされた。 というか、
せっかく赤い鳥で、日本のポップスもここまで来たか〜!って感じだったのに、そのベクトルを、ぐいっとねじられたような(うまく言えない。 当時はそんな風に思ってない。)屈折した、裏道行く感じがよかった。今聴くと、ちょっとネムイ感じもあるが(笑)当時は、感覚として、音楽的にも すっごく新しい気がしたんだよね。

アルバム「風街ろまん」は「はいからはくち」とか「風来坊」とか 意味不明のへんな歌詞に とまどった。まだサザンの桑田が英語も日本語もぐちゃぐちゃにしてかき回す前だからね、前回書いた流れから言っても、私が馴染んでいた歌はもっとメッセージ性が強かったし。メッセージはあるんだけど、なんかちがう方向から じんわり来るような、こんな惑乱は初めてだった。 けっこう 衝撃大きかった。

特に「風をあつめて」が好きだった。最近 いろんな人にカバーされて、CMでも流れてるよね。 え? なんだっけ? この歌 ってぞわっとした。

私は、いつも、街の景色 とか 風景とか の中にいる自分を、遠くからぼんやり感じていたくて、風景とか空間とかにすごく興味がある。それから、今でもだけど、風に吹かれるのが何より好きで、空気が動いてないと、(それから水がないと)ほんとに窒息しそうになる。だからなのかな。歌詞が すごく好きで、言葉が、ぐいぐい食い込んできた。

今 解説読むと 「松本隆の都市論を 細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂がそれぞれ独自のポップによって音楽化したもので」とか書いてあって、ええ!そうだったの!だから、惹かれてたのか・・・って 
今更 妙にナットクしたりして。(これについては後で書く) 

ナツキちゃんに2月に書いた時は、高校時代はすぐキャロル・キングで、すっかり抜け落ちていたのだけれど、私的にはけっこう 大きな 出会いだったのかも って、書いてて わかった。(笑) 
はっぴいえんど・・

| 音楽の話をしよう♪ | 21:30 | comments(2) | trackbacks(0) |

渡辺泰子  グループ展

おなじみ、ご近所で幼なじみの渡辺ヤッチャンからの 展覧会のお知らせで〜す!
すでに始まってます。日曜日はお休みなので、ご都合つけて、おでかけください。

現在、参加しているグループ展です。新作を1点出しています。
GALLERY SIDE2 移転後初の展覧会となります。
どうぞご高覧のほどよろしくお願いいたします。


10周年記念グループ展
GALLERY SIDE2 港区東麻布2-6-5
  http://www.galleryside2.net/gallery/current/index.php
2007/9/7(FR)〜10/4(TH) 11:00〜19:00 日月祝日休み


なお、現在かまえているスタジオにて、オープンスタジオに参加いたします。
この時期のみ普段制作現場にしているスタジオを一般開放します。
10月の3日間は武蔵野美術大学の芸術祭も開催されています。
どちらも立地は大変近く、両方立ち寄っていただければ一石二鳥かと思いますのでよろしくお願い致します!


[OS3]
日程:10月26日(金)-28(日)、11月2日(金)-日4(日) 12:00-20:00
オープニング:10月28(日)18:00-20:00


現在ブログを立ち上げ、準備を進めている次第です。場所はどうぞこちらご覧下さい。
http://openstudio.blog109.fc2.com/






| おばんのごり押し アート | 11:00 | comments(1) | trackbacks(0) |

我が家の楽園 ♪ と 台風一禍

前にも書いたが、フランク・キャプラ監督の映画 『我が家の楽園』 は、
DVDになっているので、見てない人は、ぜひ見てほしい。
私の大好きなジェームズ・ステュアート扮する大富豪の息子と、
その秘書ジーン・アーサー(スミス氏都へ行くでも共演)の、
今でいう格差婚をめぐる 両家族の珍騒動。

立ち退き買収問題がからみ、コメディながら、ガバメントとシチズンのあり方とか、
人生で何が大事かとか、色々考えさせられる。
ライオネル・バリモア扮するおじいさんの生き方と考え方のにじむセリフには、ほんとにうなってしまう。
うしろ指さされ組の方も、そうでない方も ぜひ見てください。

小学生の時見た時は、 とにかく 家の中で バレエは 踊るは、木琴ならすは、花火は爆発するは、
お母さんは 戯曲を タイプで 打ってるは、好き勝手なことやってるハチャメチャな家族に
ビックリ仰天大笑いで、こんな家 楽しいなぁ〜 とだけ思っていた。

そう、思ってただけなんだけど・・・我が家もなぜか・・・・070618_2156~02.jpgこんな人や

SN390002_0001_0001.jpgこんな人や
SN390003_0001_0001.jpg

こんな方まで!!

出没する、へんな楽園になっている・・・・

070610_1224~02.jpg
070603_2243~01.jpgプ、プリンまで・・・

これって何してるかわかる?

世界うるるん滞在記を見てたお姉さんが、突然
私もスカーフしてスキップしたい♪
と始めたら 妹も スキップ始めた(笑)

フツー、家の中でスカーフしてスキップするか?
 ったく どーいう家かと思うよね。

070906_2137~01.jpgこれは写真で見ればフツーだが
9月6日の夜 台風9号が関東上陸間近の暴風雨に向かって、
キャアキャア言いながらシャボン玉飛ばしている姉妹。

動画じゃないので、風の強さと、娘たちの大騒ぎが聞こえないのが残念。 シャボン玉 見える?

で、そこまでは アホみたいな楽園だったんだが・・・


翌朝、台風で線路に竹が倒れて電車が動かない(ローカルな理由だ 笑)
ので、ちがう駅まで家族を送って帰ってみたら・・・

風にあおられたカーテンが倒したシャボン玉液の中に、カメラが浸っている!
あわてて拭いたが、すでに一晩どっぷりだったらしく液晶まで液がにじんでいる。
5月に買い換えたばかりの デジカメだったのに・・・

ガガガガガガ〜ン
これは カメラの持ち主の深層心理を再現したものです。当人は、楽園には珍しく 感情を あらわにしないタイプなので。しっかし、次の日一日茫然自失でした。

私 「保証期間だから、ダメもとで 修理できないか聞いてみたら?」
夫 「シャボン玉につかったなんて言えないよ。明らかに自己責任でしょう」
私 「カメラ、他にもあるし、しばらくは前のでいいよ、私は」
夫 「今、手に入るデジカメでこれが最高なんです。(すごい事前調査の上購入する人なので) じゃあ、キミは、パソコン前の98に戻れと言われたら、戻りますか?」
私 「うう・・・できれば、戻りたくない・・・です。」


つい最近、お下がりのパソコンを98からXPにグレードアップしてもらったばかり。おかげで画像処理が格段に早くやりやすくなった。
(それまでは画像は見られず、全部記号を書き写して写真を探してたので、ほんとに大変だった。)
 
というわけで、台風一禍 (一過でも一家でもありません)
我が家の楽園 の収支 とんでもないです。 
映画のおじいさんは、 そんなことは どうにかなる と言ってましたが・・トホホ

今、お亡くなりになったカメラの最後のデータが、外付けハードディスクに取り込まれていることが判明した。台風に舞うシャボン玉!(笑)



| おばんのゴリ押し 映画 | 16:50 | comments(2) | trackbacks(0) |

音楽の話をしよう ♪ その3 We shall overcome 

誰でも一度は ギターを持ってシンガー・ソングライターを夢見る。
なんちゃって。 あれ? ちがった?(笑)
ともかく、私も中学の時ギターを弾きはじめて・・・♪

中学では、吹奏楽部に入った。パートはフルート。
ところが異常に肺活量が少ない私は、唇を横に平にして、フー、フーとやっていると、脳に酸素が回らなくて失神状態になってしまい!(笑)またおでこが頭のてっぺんまである顧問の先生にヒイキされるのがイヤで、1学期で吹奏楽は 辞めました。1曲も合奏しなかったような気がする(嘆)
ここで、私のビッグ・バンドへの道は、早くも絶たれました。

で、どういう流れだったのか、2学期からはバレーボール部に入った。
たぶん、私のことだから、時代がアタックNO1だったから。でしょう。(笑)
でも私は、小学校で、遂に逆上がりも跳び箱もできなかったほどの運動オンチで、ハリ(私のあだな)が運動部に入ったと私立中学に行った友だちがバレー部の練習を見に来たほどでした。(恥)
実際、最初の頃は熱ばかり出してました。なにげに昔は ひ弱だったなぁ。

当時は、まだ中学バレーは9人制でした。で、なぜか入ったとたんに先輩にヒイキされ、パス練習はいつも彼女のお相手をする。そしてその先輩の推薦で、一躍 私は 後衛ライトに抜擢されました!
コワイ世界ですよ、女子の部活は(笑)
ジャンプ、アタックはまったくダメだが、9人制はローテーションがないからね。当時アタックNO1で
流行った回転レシーブなんか、特訓してけっこうできたんですよ〜、これが。
ハイ、行くわよ〜! なんて大きい声かけて、けっこう活躍できました。(自慢)

キャプテン・ミッコは名セッターで、名アタッカーが背の高いおかんば(恐竜の本を作った彼女だよ!)でした。キタ中は強かったんだかどうだか、まったく記憶にないが、コバルトブルーにゼッケンと袖口、襟口が黄色のドハデなユニホームで、ヨウガ中とかによく試合に行きました。

さて、成長期の女子は腹が減る。おかんばの証言によると、バレー部は毎日部活の後、下北沢のミッコの家に寄ってカルピス・ファイト!をしてました。え? カルピス・ファイトって何だっけ?(笑)
おかんばに問い合わせたら、カルピス・ファイトというのは、バレー部の練習を終えての帰り道、ミッコの家に寄って、みんなでお金出し合って買ったカルピスやお菓子で、玄関先でおしゃべりした楽しい想い出。だそうです。 そうそう、ラーメン食べたこともあるよね。カルピス・ファイトというネーミングとは知らんかった(ミッコも知らんかったよ 笑)これは覚えてるんだけど、あの頃 私は、夕食前にナビスコ・リッツの大箱1人で食べてたりしたんだよねぇ。いくら、運動始めたからって デブへの道をまっしぐらでしたね。

(注:おかんばは小、中、高と一緒だったのですが、卒業以来音信不通で、ずっと同級生だったことも忘れてました。去年の32年ぶりの駒場高校同期会にも、おかんばは来られなかったのですが、ご近所のたまごちゃんが連絡取ってくれ、同じ千葉県民だということや、彼女の息子がパーティの子が3人も行ってる船橋の高校に通ってること、天然記憶喪失の私の記憶を埋める数々の証言続出で笑っちゃいました。しかも恐竜の画集を描いたパートナーの寺越さんは、友人の家が私の大原の家の向かいだったとかで、泊まったとき、小学生の私を見たことあるとか。笑。悪いことはできません)

あ、全然音楽の話じゃないね。すみません。
でも、まあ、バレー部入部は、私の人生的に、体育会系に大転換した重要なターニング・ポイントで、何も考えずに汗流す、ともかく目の前に飛んで来たものは、ころげまわってもレシーブする
という 私の基本姿勢は、この時に培われたのかもしれません。なんちゃって。(笑)

バレー部のキャプテン・ミッコとは、とても気があって、親友と呼びたい人でした。よく泊まりに行って、語り合いました。ミッコには穏やかでフレンドリーなお兄さんが2人いて、ヤクザな弟が2人の私には、憧れでした。

ミッコと私は小学校は北沢と東大原でちがっていたのですが、ピアノ教室が一緒だったのです。
当時は女の子の習い事はほとんどピアノかバレエでした。スイミングとか英語もなかったし、塾へ行ってる子はイジメられました(笑)ミッション・スクールへ通っていた母は、私に私立の中高一貫受けたら、と女子学院の見学に連れて行かれたりしたのですが、「なんか、ちがうな」と、嗅覚的直感で、受験しませんでした。

中学、高校になるとピアノを続けてる人はどんどん少なくなって、ミッコと私くらいになってきたのですが、なんせ2人とも突き指必然のバレー部に入ってしまったわけですから、先生の嘆かれたこと。
母がクラシック好きで、私も4、5才からピアノを習っていたですが、どうも私は、イマイチ クラシックが浸みてきませんでした。先生は私になぜかモーツァルトを選ぶのですが、私はショパンが弾きたく・・・
ラグタイムでも弾かせてくれたら、私の人生も、もううちょい変わってたかもしれないのですが、高2のショパンの「バラード」ブラームスの「舟歌」を最後に(でも高2までは弾いてたんですよ。)
ピアノはやめてしまいました。

後に、楽譜がまったく読めない弟が、ピアノで『展覧会の絵』をジャカジャカ弾いているのを聞いた時は、ショックでした。彼はエマーソン・レイク&パーマーのレコードから聴いたまま、弾いていたのですよ! ガ、ガ〜ン。私の長年のピアノのおけいこ生活はなんだったのか!
小学校の文集に、大きくなったら、ソ連に音楽留学して(三宅榛名みたいな)ピアニストになるなんて書いて赤っ恥でした。これで、私のピアニストへの道は、完全に 絶たれました。

でも、男の子でピアノうまい人には、今でもズキュンとなります。
私たちのピアノ教室にも、オオタニくんとタク?くんっていう、年下の男子がいて、彼らはハンパなくうまかったので、発表会の時、ソデで聴いていてドキマギしました。 今年のはじめ、まだブログも始めてなかったので、スーさん(鈴木道子)のCDを2000年からブログやっている弟に宣伝してもらおうと頼んだら、なんとそのオオタニくんが作曲家として活躍してるらしい、と彼のブログ(大谷幸の枕草子)を知らせてくれました。いや〜、まったく記憶になかったオオタニくんのこと、一気に思い出しました。
会いたいなぁ〜。(なかなかovercomeが 来ないね 笑)

そのうちミッコや仲良しの男の子たちがギターを弾き始め、私もギターをはじめました。
そして、ミッコのいとこのジュンくんの呼びかけで、月に1回 日曜日に近代文学館のある駒場公園まで歩いて行って、フォーク集会をやるようになりました。フォーク集会と言ったって、4、5人でギター持って集まって、芝生に車座になって、好きな歌を歌う、というだけの他愛ないものです。(笑)
高石友也の「友よ」とかジョーン・バエズの「We shall overcome」とか・・・
「抵抗のうた」という歌集を買って、「死んだ男の残したものは」とか「自衛隊に入ろう」とか、「イムジン河」とか、歌いました。やさしいコードで、歌いやすい、いい歌が多かった。

当時 社会を揺るがしていた大学の学園紛争や、新宿西口広場で行われていた反戦フォーク集会のムードが、政治的に敏感だったジュンくんを通して、中学生の私たちをも揺さぶっていたのかもしれません。でも、気分は反戦・闘争ムードに憧れるが、中身はノンポリの私は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」よりPPM(Peter Paul & Mary)の「パフ」とか「レモン・トゥリー」の方が好きでした。
PPMは、ほんとにコーラスがきれいで、心に沁みました。今でも聴きたいな。

物語でも 歌でも、その「歌をくぐる」、その歌の言葉を浴びて、感じた自分が声を出す時に、一人一人の中で起きる変化が、私は好きです。いい歌には力がある、人を動かす力があるって、信じてる。
夜明けは近いって歌うと近い気がしたし、overcomeって歌うと勝利できるって気がした。
でも、何に?勝利するの? なんて、考えもせずに、歌っていた。
中学生だったから? いや、 We shall overcome と真剣に願って歌ってた人たちの想いとは、
すでに時代もズレていた。のかもしれない。

 遠い世界に 旅に出ようか
 それとも赤い風船に乗って
 雲の上を 歩いてみようか
 太陽の光で 虹を作った
 お空の風を もらって帰って
 暗い霧を 吹き飛ばしたい

だから、赤い風船の「遠い世界に」が出た時は、今の自分に 背伸びしないで、ほんとにしっくりくる
日本語の歌が 生まれた気がした。
前向きなんだけど、声高じゃない。呼びかけてるんだけど、戦闘的じゃない。
(今思えば だよ。その時は、そんな風に分析はしてない。ただ、いいって感じかな)
なんども なんども 歌いました。

  僕等の住んでる この街にも
  明るい太陽 顔を見せても
  心の中は いつも悲しい
  力を合わせて 生きることさえ
  今ではみんな 忘れてしまった
  だけど僕達 若者が居る

  雲に隠れた 小さな星は
  これが日本だ 私の国だ
  若い力を 身体(カラダ)で感じて
  みんなで歩こう 長い道だが
  一つの道を 力の限り
  明日の世界を 探しに行こう

それから、ジュンくんが、何かのビラを校門の外で撒いたら、道路交通法違反とかで学校から注意を受ける、という事件がありました。その時、中学生ながらに、納得できない、すごく理不尽な感じがしたのだけれど、うまく言葉にできませんでした。
(なにぶん大昔の記憶なので、ミッコに問い合わせたら、彼女はまったく記憶になかった。でも、ミッコからジュンくんに問い合わせてもらったら、70年安保のビラを学校で撒こうとしたら、それは校則違反だから外で撒け、と先生に言われ、校門の外で撒いたら、それは道路交通法違反だから、内申書に書くぞと言われたという。おかしんじゃないかって、職員室までジュンくんと私とミッコで、先生の話を聞きに言ったそうです)

そんなこんなで、よっしゃあ、待ってろ時代!
若い力をからだに感じて、行くぜぃ ってフットワーク整えて高校へ 行ったんですが・・・

なんか、いつも時代に乗り遅れてるんですよね・・・私。
私が憧れていることは、いつも私がその年令に追いつくと、まるで 潮が引いたみたいに
静かになっている。 のです。
時代が持っている喧噪とかうねり、その渦を作っている大勢の人の心に実際に起こっていること。
ジヨーン・バエズが「We shall overcome」と歌った時、そこに集まる、一緒に歌う、
あんなに多くの人たちの、一人一人の心が希求してたこと。それが知りたいんだ、私は!
待ってて、時代! もうちょっとで行くから!
って、中学の時から、ずっと、ずっと思って来たのに・・・

附記
この記事のタイトルは、私的には「遠い世界に」だな、って書いてるうちに気づいた。(笑)
でも「We shall overcome」から「遠い世界に」までの微妙な変化、時代の空気や、そこに生きてた人たちの考え方、それを受け取る私たち、の微妙なズレが、実は私が 前から追いたいと思っていたテーマなのかも。 って これも書いてて気づいたので、(笑)タイトルはそのままにしました。 



| 音楽の話をしよう♪ | 21:50 | comments(5) | trackbacks(1) |

音楽の話をしよう♪ その2   明日に向かって撃て!

ビートルズにハマる前は、映画のサウンドトラックをよく聞いていました。『サウンド オブ ミュージック』や、『ウェストサイド・ストーリー』は何度映画館で見たことか。もちろんサウンドトラックのLPも買ってもらったし、映画音楽だけたくさん集めたLPもお気に入りでした。映画好きの母が毎月「スクリーン」という映画雑誌を取っていたので、私もそこから、ロバート・ワグナーや ジャン・ルイ・トランティニアン、ジェン・バーキンやキャサリン・ロスなどを切り取って、自分のノートに貼ったりしていました。(笑)  

たしか中1の映画鑑賞教室がシドニー・ポワチエの『いつも心に太陽を』でした。なんせ映画館のある下北沢の中学なので、中学から歩いてぞろぞろ映画見に行きました。(笑)
シドニー・ポワチエは大好きで、『夜の大捜査線』もよかったけど、この映画では、どうにもやる気ない生徒たちが集まったロンドンのイースト・エンドの高校の先生役でした。元祖『天使にラブソングを 2』みたいな感じでした。学園モノ、大好きなんです。何度見ても、泣きます。(笑)
ルルって子が歌う主題歌「いつも心に太陽を To the sir with love」シングルでレコード買いました! 毎日 それかけて踊ってました ♪
(実は映画のことも忘れてたのですが、調べてたら、そうだそうだ!って思いだしたの。歌も 歌えたのに、どんな曲か思い出せないなぁ)

赤と白のプラチックでできたポータブルレコードプレーヤーを誕生日に買ってもらい、自分の部屋でレコードをかけて踊るのが、私もナツキちゃんと同じで!大好きでした。(笑) 踊るにはレイ・チャールズの「I can't stop loving you」がお気に入りでした。(これは、私とジャズで書いたね。読んでない方は後で一番下のアドレスをクリックしてくださいな)

それからフランシ・レイが流行って、クロード・ルルーシュ監督 グルノーブル冬のオリンピックのドキュメンタリー『白い恋人たち』 あのおしゃれな映像の編集と音楽、たまりませんでした。『男と女』のスキャット。しびれます。 やっぱ、フランスにはかないません。フランスに憧れて、NHKのフランス語講座も見ていました。ニコラ・バタイユ。いや〜、教育テレビもおしゃれでしたよ。センスがいい。文化の差がカナワナイナって、言葉じゃなく感じてました。

小、中学生のころの劇場公開映画を調べてみました。
 
    1961   ウエストサイド・ストーリー
    1965   サウンド・オブ・ミュージック
    1966  男と女
    1967  冒険者たち
    1967   卒業
    1967 いつも心に太陽を      
    1968  白い恋人たち
    1968  個人教授
    1968   ロミオとジュリエット
    1969  明日に向かって撃て
    1969  レーサー
    1970   レット・イット・ビー
    1970   ある愛の詩 
    1971    小さな恋のメロディ    

 
68年から71年が私の中学生時代です。これら全部を、家から歩いて15分の下北沢オデオン座か
 新宿武蔵野館あたりで、公開時に見てるわけで。思い出せないけど、他にもまだあるだろうから、
けっこうすごい ラインナップですね。

友だちが映画好きだったせいもあるけど、当時はまだビデオもDVDもないから、中学生でも近作は
映画館で見るしかしょうがなかったんですね。当時は今より 中高生が等身大で見られる内容の、
身近で質のいいラブストーリーが多かったような気がするな。

『ロミオとジュリエット』はたぶん中2の映画鑑賞教室で、みんなジュリエットと同じ14才だったから、シェークスピアって感じじゃなくて、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングの青春ドラマとしてボロボロ泣いちゃいました。
『ある愛の詩』も、フランシス・レイの音楽ともども、大ヒットしました。もちろん、サントラ盤買いましたよ。映画音楽も、名曲揃いですね。

でも「明日に向かって撃て」のバート・バカラックを聴いた時は、まさにズキュンと撃たれました。
映画でポール・ニューマンとキャサリン・ロスが、チャリに2人乗りして走り回る あのシーンが
かぶるからなんだけど、「Raindrops keep fallin' on my head 」ってあの曲の出だしを聴くと、今でも鳥肌が立ちます。ホント、崖からでも飛び降りられるような気分になるよ(笑)
バート・バカラックは、この後すごい流行って、私も アルバム買いました。 
そこで出会ったディオンヌ・ワーウィック。 彼女のハスキーで伸びのある声に しびれました ♪
ブラックの、ハスキーな、深い、伸びのある声に、なぜか弱い私。

そうそう、中学の頃から、ボサノバも大好きでした。
セルジオ・メンデスとブラジル66のアルバム『マシュケナダ』 持ってました。愛盤です。
でもボサノバに どこでどう出会ったかは、まったく記憶がないなぁ。厚生年金会館かどこがにコンサート(当時はライブって言ってなかったような)聞きに行ったこともある。
そういえば私のレコード、みんなどこにあるんだろう? 実家にあるのかなぁ?

テレビはね、今20代のナツキちゃんたちは知らないだろうけど、
天地真理とキャンディーズの時代だったんですよ!(笑)
それと、ディオンヌ・ワーウィックの間のギャップは・・・
かなり大きいよねぇ!(笑)
今 思えばおかしな時代だ!

好きな楽曲がパソコンや携帯からダウンロードできるわけじゃないし、TSUTAYAでCD借りてきて、お気に入りの曲だけipodに入れたりできるわけじゃないし、ギャップはレコードと映画で埋めるしかなかったんでしょうね。だから、1年に数枚しか買えないわけで、同じものを繰り返し繰り返し聴いてたんでしょうね。

あと、グループサウンズ。調べたら、1966年にビートルズが来日してから、日本のグループサウンズブームが始まったらしい。そうだったんだ。中学でタイガースの追っかけやってた子が一人いるけど、まだ東京の中学でも、そんなに中学生がライブとかには行かなかったような気がする。ただ、ブルーコメッツとか、ワイルドワンズとか、中学生ながらになんか新しいタイプの音楽が日本でも出てきたな〜、という感じはした。けっこう好きでしたよ。日本のものも聞くようになったのは、グループサウンズの効果かもしれない(笑)

ああ、あと、ラジオの深夜放送が大きかったかも! 私は夜に弱いんで、
また中学はバレー部でコテンコテンに疲れてたんで、そんなに熱心なリスナーではなかったんですが、でも、糸井五郎さんのオールナイト・ニッポンとか、土居まさるや落合恵子のセイ・ヤングとか、
野沢那智と白石冬美、桝井論平のパック・イン・ミュージックとか、試験前とか、時々聞いてました。
そこで、外国のいろんな曲、かけてくれたのかもしれないね。

いや、でもテレビで、ダニー・ケイショーとか、アンディ・ウィリアムズ・ショーとかディーン・マーティン・ショーとか、アメリカの楽しい音楽番組けっこうやってたんですよ。全部見てた。

今回これを書くので、ネットで調べてたら、なんでもあるのね〜、ここは!
レトロの館とかいうページで、1960年代〜70年代のテレビでやってたアメリカのドラマや番組が全部一覧になってて(笑)ビックリ!

しかも、87分署、べン・ケーシーから始まって、ヒッチコック、トムとジェリー、バークにまかせろ、ナポレオン・ソロ、バークレー牧場、ペイトン・プレイス物語、ルーシーショー、それ行けスマート、ハニーにおまかせ、奥さまは魔女などなど、けっこう見ている自分にも ビ、ビックリ!!
何やってたんだ、私は! いや〜、あなどれないわぁ、テレビッ子(笑)

っていうか、1964年 65年、66年頃の、アメリカのテレビ番組の面白いこと!
しかも日本のテレビでたくさんやってたこと!
 に今更ながらビックリしました。
私はそれで、育ったのだな〜、と実感しましたよ。ハイ。

その後、急速におもしろいアメリカテレビが来なくなったような印象があります。なぜでしょう?
日本の自前番組が増えて来たのかな? 配給とか放映権の値段の問題かな?
これは、もう少し研究してみます。ご存じの方いたら教えてくださいな。

I can’t stop loving you
http://kankarakan.jugem.jp/?day=20070705
| 音楽の話をしよう♪ | 09:20 | comments(6) | trackbacks(0) |

音楽の話をしよう♪  その1  LET IT BE

音楽の話をしよう♪ と思ったのは、
この冬 2月にスーさん(鈴木道子)のジャズライブに行った後。

鈴木道子の次世代ファンを開拓すべく(笑)パーティや娘の友だちにゴリ押ししたら、
なんと若者15人がお茶ノ水ナルに集まった!(約3人は年増でしたが)

後日、スーさんから、若い人たちの感想聞きたいとメールが来たので、みんなに回したら、
ナツキちゃんからすぐA4 3枚に渡る 長い熱いメールが来た。

チエさん
今スーさんにメールしました。
なんだか熱っぽくなってしまうのをおさえつけながら書きました…また行きたいなー。

鈴木道子様  こんばんわ。
二日の夜に、千絵さんの紹介でナルにお邪魔しました、若めの連中の内の一人です(笑)
25歳の女です、よろしくお願いします。

千絵さんとはもうずいぶん長い付き合いになります…息子のコースケとは小学校から一緒です。

たった今、千絵さんからケータイにメールが届きました。
スーさんが感想を知りたがっている、という内容でしたが、それを読んですぐメールしています。
本当に本当に、スーさん(と呼ばせてください)に直接感想が言えたらなあって思っていたんです!
本当に嬉しい!


自分のことを、少し書きます。私は、もうずいぶん長いこと、音楽と一緒に生きてきました。

私は文章を書くのが子供の頃から好きで、今でも書いたりしています。
けれど、音楽を生み出したいと思う衝動はほとんどありません。
だから私はいつまでだって音楽に憧れを抱き続けられるし、
幸せな聞き手でいられます。
ミュージシャンには嫉妬と羨望を感じますが、それだって幸せなことなんです。

私が聴く音楽のほとんどは、海外のロックや、オルタナティブと呼ばれるものや、シューゲイザー…
まあ、細かいジャンル分けなんてどうでもいいのですが。
入り口はパンクバンドのクラッシュだと思います。中学生の頃でした。

私はその頃から、自分の中で抱えきれない怒りを感じ始めていました。
それはとても漠然としたもので、
今思えば自分に対しての怒りだったのかもしれないけれど、
どこにも向けようのないものでした。
(笑ってしまうくらいありきたりな思春期の感情!
 でも恐るべきことに、こういう思いは今だって継続してあるんですよ!)

ロックという音楽は、私を侵しつつあった怒りというものに、居場所を与えてくれたような気がします。
もしかしたらそれは危険な出会いだったのかもしれない。
暴力的な方向にだって、きっと走れただろうから。
音楽のちからは、それほどまでに強い。(中略)


今回スーさんのライブに行くにあたって、まず私の心の中に
「ジャズ」というものがちょっと引っかかっていました。
私は、もう何年も何年もジャズという音楽に対して妙なコンプレックスを感じていたのです(笑)

初めて聴いたジャズは、ソニー・ロリンズ。最近買ってみたのはアート・ペッパー。バイト先のマネージャーはジャズ好きで、いつも会場にジャズを流している。最近よく行く、安くておいしいコーヒー屋には、常に小さく小さくジャズがかかっている。

↑これだけで、私にとってはけっこう「身近」なものだったりします。
ジャズが「かっこいい」というのも、とてもよくわかる。
それだけに、ロックほど自分の血や肉になって食い込んでこないのがどうも悔しかったのです。
本当にジャズを知ることは、難しいことなのか?
HPなどで得た知識や歴史をコツコツノートにまとめてみたり、
とにかくCDを聴いてみたり…
まったく、どういう種類の情熱なのかよくわからないけれど、
私は「無理して」ジャズを「攻略」しようとしていた時期が確かにありました。

そうして、私は今回またライブで、「答え」のようなものを発見できたように思うのです。
私がジャズをダイレクトに感じられなかったのは、
目の前で楽しそうにそれをやるひとがいなかっただけ!(笑)
あんなに近い場所での音楽に、私の「構え」なんてまったく無意味。
スーさんは素敵な三人の仲間に支えられて、セクシーでチャーミングで明るくて、とても美しかった!

本当にどうもありがとうございます、
素敵な色彩の音楽を、贅沢な時間を。
言いたいことはそれだけなのに、なんて長い前置き!

だけど、テーブルについてゆったり音楽を聴く、というスタイルだけは、どうも私の性に合いません。「立って踊りたい!」と何度思ったことか。「あんなに楽しそうなスーさんと一緒に!」

だけど、ジャズって、どうしてあんなに思考を促すんだろう?
これは前から思っていたのですが、
ジャズがかかる喫茶店ではよくものを考えられ、会話が途切れない。
ジャズは絶え間なく流れる川のようで、生きたうねりのよう。さ
即興という要素が深く関わる音楽だからでしょうか。

ジャズに対するコンプレックスや、「お勉強」は、もうおしまいです。
ライブのあとは音の吸収がよくなるので、クラブに行きたいー!と思いながら家に帰り、
けれどやっぱり音が欲しくて欲しくて、結局i-Pod片手にベッドの上で朝の四時まで踊り続けていましたよ!(もちろん一人で)そんなお土産も含め、満足な夜でした。
きっとまたスーさんのライブに行ってしまうと思います。
そのたびに素晴らしい夜を更新できるのですね。

              Hard to beat!!   それではこのへんで    2007 2/4   ナツキ


中学の時から、彼女の書くものにゾワっとしていた私は、
このメールにすごく昂奮して、すぐに長い返事を書いた。

書いているうちに、自分が思っている以上に、
私は音楽と共に生きてきたんだなと気づかされたし、
私が大学時代からずっと気になっていた「時代と歌」「時代と音楽」をまた考えたくなってしまった。

まだこのブログを始める前だったけど、スーさんとの思い出や「私とジャズ」を書くきっかけは、
ナツキとのこのやりとりだった。
ナツキへ送った返信に補足して、何回かに分けて書こうと思う。

お待たせ!
 
 (って、待ってた人は数人だよね 笑)
新シリーズ 音楽の話をしよう♪ 

ナツキへ 
ナツキの熱い、長いメールを読み返していたら、音楽の話をしたくなってきました。 
スーさんは、新聞局だったとはいえ、私やナツキのような弾丸トーク系の人間ではないので
レスポンスは、あっさりしてると思うから(笑)

私と音楽との出会いは、やはり中学のビートルズでしょうか。
その頃仲良かった男の子の影響で、映画とビートルズに浸る毎日でした。
当時は下北沢近くの大原に住んでいて、家からまっすぐ歩いて15分。

小田急線の線路を渡ると オデオン座という映画館がありました。
現在、小劇場や自主映画のメッカになっているスズナリのある場所です。
そこに、毎週のように映画を見に行ってました。
(いくらだったんだろう。中学生がそんなにしょっちゅう行ける値段だったのかしら)

 たしか中3の時にビートルズの「レットイットビー」が封切りになり、
そのサウンドトラックのLPが私の愛盤でした♪

映画「レットイットビー」は、あのスタジオ録音の、内輪な雰囲気になんとも憧れました。
今でもライブや公演が始まる前の、裏の雰囲気がたまらなく好きなのは、このせいかも!
勤めてた頃(わずか半年でしたが 笑)スタジオで仕事したこともあるのですが、
テイクの間の、みんな緊張しているのに、なぜかユルイ雰囲気が妙に好きです。

そもそもドキュメンタリータッチが好きな上に、
レコードジャケットと同じ 黒く縁取られた 小さい画面が切り替わったり、
映像的にも すごく新しい感じがしました。

あの映画にはビートルズが解散する前の、
メンバーの微妙にズレた雰囲気があったらしいのですが、
私自身は、記憶にない・・というか
「ヤアヤアヤア」で追っかけて失神してるようなコアなビートルズ世代ではなく、
まさにこの映画「レットイットビー」からリアルタイムでビートルズを聞き出した初心者なので、
そんなことを知る由もありませんでした。

ある時父親に 「ビートルズなんてミーハーだ」と言われ、
大泣きして 父に対する呪いの言葉を書き連ね、
それから私の日記生活が始まりました(笑)

エレキギターを弾くだけで不良と言われた ロカビリー時代ならともかく、
父はたぶんビートルズと タイガースの区別もつかない音楽オンチなのに、
なぜそんなことを言ったのか。

論争を好まない私は(当時は失語症だったので)いまだに反論する機会を得ません。
でもナツキちゃんが、自分の中の抱えきれない怒りに ロックが居場所を与えてくれたと
書いていたように、ビートルズはある時期 私の居場所でした。

ミーハーという言葉は、以来私のトラウマになり、
ずっと後になって(もうナツキと出会ってから)
古本屋で野田秀樹の『ミーハー この立場なき人々』というエッセイ集を見つけた時は、
思わず買ってしまいました。(笑) 

野田秀樹はおない年だし、高校も駒場だし(彼は都立ではないが)、
母と同じ長崎出身だし、彼の芝居好きだし、
おかげで ミーハーでなにが悪いと!開き直るオバサンにまで成長することができました。

あれ? 補足してたら、話それてるね。(笑) では続きは次回に・・・♪


| 音楽の話をしよう♪ | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) |

DORAGONS  ジャズ・ライブのお知らせ!

毎度おなじみ 前のめりなオヤジたち(同級生)のリハビリ・ジャズ・ライブのお知らせです ♪

DORAGONZ LIVE

9/21(金) 19:30〜21:30  ミュージック・チャージなし 飲食代のみ 
SEA BIRD 03(3499)1890 http://www1.odn.ne.jp/~aab87210/s-bird.html

青山学院大学高等部正門向かい 青光ビルB1

メンバー
    ピアノ  唐澤 寧  http://www1.odn.ne.jp/~aab87210/yasushikarasawa.html
    ベース  浅田 聡 (サトシ)
    ドラム   芦澤 ミツノリ 
    ギター   鹿野竜史
アルトサックス  中野 貴子 http://nakanotakako.com/
アルトサックス  寺村善生

ドラゴンズは リーダーの名前が 竜史だから。
20数年前からバンド自体はありましたが、メンバーは私とマスター以外は若い方々に変わり、お世話をしてもらっているというところです。だから別名リハビリーズ。 SEA BAND と ほとんど同じです。

今回の目玉は CD 2枚目をリリースしたピアノの唐澤氏。
2児の母でありながら、旦那さんと家事を分担、
しっかりとプロとしての活動をしている中野さんのAlt Sax も外せません。
駒場8ホームの寺村くんにはAlt Sax での客演だけでなく、MCもお願いしました。  (鹿野)


キャア、無口でシャイな ゼンセイにMC(おしゃべり)なんて苛酷な!
リーダーのリュウジとゼンセイについては、6月ライブのインタビューを読んでください。
2人に刺激されて、あらたに楽器を習い始めた同級生もいるとかいないとか!?(笑)
恐るべし、同級生。 自らに試練を課して(笑)まだまだ進化します!

http://kankarakan.jugem.jp/?day=20070615
| おばんのゴリ押し 音楽 | 12:10 | comments(1) | trackbacks(0) |

おや、出たぞ! 『 寺越慶司 の 恐竜 』



 「おや出たぞ。」 楢ノ木大学士が叫び出した。
その灰いろの頁岩の 平らな綺麗な層面に 直径が一米ばかりある 五本指の足あとが 深く喰い込んでならんでゐる。「さあ、見附けたぞ。この足跡の尽きた所には、きっとこいつが倒れたまゝ化石している。巨きな骨だぞ。」(宮沢賢治童話 『楢ノ木大学士の野宿 第三夜』)  


イラストレーター 寺越慶司さんの 画集が出た。
黒い表紙にうごめく恐竜たちを見た時、すぐこの文章が浮かんだ。
楢ノ木大学士はこおどりして、その足跡をつけて行くのだが、だんだん中生代に紛れ込み、
前にも後にも うじゃうじゃな まっ黒な雷竜どもに囲まれてしまう。

この本も うじゃうじゃの恐竜だった。まるで3D絵本。
恐竜たちが動きだして、楢ノ木大学士のように、喰われるかと思った。

闘う 反撃する 追う 追われる 吠える 育てる 飛ぶ 渡る 集う  
第1章 寺越慶司が描く恐竜の世界 の目次 である。
そうなんだ。この地球上に、かつて こんなふうに 生き生きと 恐竜たちが生きていたんだ。 
どうして?なぜ?彼らは滅び、今は哺乳類の人類が こんなにはびこっているのか・・・

生きものには、生きているときだけに見える美しい色と質感と形がある。私は、自分の描いた絵姿を通して、生きものに具わる生命感を観る人に伝えたいと常に考えている。 この作品集を手にとって下さった読者にも、この地球上に確かに存在していた恐竜という名の動物の魅力が万分の一でも伝わるなら幸いである(あとがきより)

恐竜たちが甦るまでの、具体的な制作プロセスも載っているのが、この画集の魅力だ。
発表されている学説や情報をノートにまとめ、疑問や推理も書き込み、周囲の植物環境を含めたデータを年代ごとに推理する。発表されている骨格図や写真、立体モデルなどから形を起こし、できたスケッチをパーツに分けて、陰影や色を、肌の質感を加えて行く。少ないデータから、見えないものを見、聞こえない声を聞き、中生代に紛れ込む。まさに楢ノ木大学士だ!

『楢ノ木大学士の野宿』は宮沢賢治の童話の中では有名な話ではないが、7kgもある大きなカナヅチを担いで、東京から岩手の山奥へたんぱく石(オパール)を探しに行く楢ノ木大学士が、3晩の野宿で、マグマの叫びや鉱物の声を聞くという愉快な三部作。石っこ賢さんとあだ名がつくほど岩石採集が好きだった賢治らしい作品で、いかに私たちが地球や鉱物や絶滅生物の声を聞かずに生きているかを思い知らされる。

ものがたり文化の会でも、2005年のスプリング・キャンプのテーマだったので、私も子どもたちやお母さんと上野の国立科学博物館へ『恐竜博2005』ティラノサウルス「スー」の骨格を見に行った。あの時もスーが走る映像がリアルでビックリしたが、そこまでビジュアルに復元するまでの工程の多さと苦労に今更ながら感服する。

『寺越慶司の恐竜』は、イラストレーターの域をとうに超えた学術報告書とも言うべき画集だが、家族で楽しめる。1コイン6回貯めてフンパツする価値あり。まずは地元の図書館にリクエストしよう! 

附記
実は寺越さんのパートナー兼アシスタント兼プロデューサーのヨウコさん(おかんば)は、
私と小学校、中学校、高校の同級生。(これについては長くなるので別に書く)
寺越夫妻の2人3脚の仕事は、彼女が作ったHPで見られます。ぜひ見てください。

http://www.terakoshi.com/news/news0708.html

| おばんのゴリ押し 本 | 08:24 | comments(0) | trackbacks(0) |

ニット・キャップシアター 新人公演でっせ〜! 関西の方!

うちの第2息子 摂津出身 京都ニットキャップシアター 安田一平ちゃんからのお知らせです。

初演出です。よろしくお願いします〜! 
東山フェスタ2007参加公演&ニットキャップシアター'07新人公演 「恋愛戯曲」 
   ◆脚本:鴻上尚史
   ◆演出:安田一平
   ◆出演:井口和巳、葛原清二、澤村喜一郎、市川愛里、松村綾子(Guest)
      9月14日(金)18:30
        15日(土)14:00 18:00
        16日(日)13:00
@京都市東山青少年活動センター2F創造活動室 料金800円(前売当日共)
ニットキャップ・シアターHP http://knitcap.jp/

                        
関西在住のヒカちゃん、イソダくん、ウノちゃん
時間空いてたら、コースケと連絡取って行ってみてね〜♪
(このブログ 名指しでゴリ押しするとこ えげつなくね? 笑)

腹を痛めた覚えはないが、一平ちゃんは、いい息子です。
昨年夏のベビー・ピー『みんなボブ ルックス最高』の平原演劇祭公演 池袋公演の時は、我が家で男4人が合宿してたので(汗)「おかあさん、料理ホンマに美味しいっす。この家、第2の実家にしたいなぁ〜」オバサンはこういう言葉にめちゃ弱い(笑)
サテ、ここで問題。一平ちゃんが我が家の息子になる道が2つあります。それは、なんでしょう?(笑)

『みんなボブ』を観てくれた方は、一平ちゃんは、ウッドストックでジミヘンと時代をコネコトする あの大阪弁のおっちゃんです。今回は、初演出だそうです。 コネクトしてや〜!

一平ちゃんのブログ 摂津出身 はコチラ。http://red.ap.teacup.com/settu/
新人公演の記事のコメントをクリックしてください。ママ・ピー(私だよ)とのやりとり出てます。

京都の演劇ユニット ベビー・ピーのブログthe Hard days nightから
も安田一平ちゃんのブログ 摂津出身に行けます。
コチラからなら、他のメンバーのブログや、先日高野竜の平原演劇祭に出演した よこえとも子チャンのブログ 私、勘違いしてます も読めます。
よこえちゃん、かなりヘンです。(私がヘンというのはホメ言葉です)
お時間ある方は、是非のぞいてみてください。http://baby-blog.jugem.jp/
| おばんのゴリ押し 演劇 | 08:12 | comments(3) | trackbacks(0) |

『見よ、 飛行機の 高く飛べるを 』 鳥人間コンテスト

『見よ、飛行機の高く飛べるを』は、永井愛(二兎社)の戯曲だ。
高校で演劇部だった娘が買ってきた時、そのタイトルに惹かれて、すぐ読んだ。
前にも書いたが、私は ベクトルのあるタイトルに 妙にときめく♪

『見よ、飛行機の高く飛べるを』は、永井愛が、自分の祖母から聞いた話を戯曲化したもので、
明治末期の女子師範学校の寄宿舎が舞台。女子が新聞や小説を読むことが禁じられていた中で、後輩の影響から自然主義文学や「青鞜」に目ざめていく主人公。日露戦争後の富国強兵政策や、
大逆事件のあおりからますます強圧的、良妻賢母教育への傾きを露にしだした師範学校の中で、友人の退学処分にストライキを企てる、女子学生たちの葛藤や成長を描く。

師範学校というのは、教員養成の昔の教育大学だと思っていたが、この本を読んで、良妻賢母を育てる女子教育の場と初めて知った。そう言えば、NHKの朝ドラ『てるてる家族』で、寺島しのぶ演ずる長女が師範学校の教員だったのに、西島秀俊演ずる画家との交際を非難されて、免職になっていたっけ。ハハ〜ン、これかな? 前から気になっていたベクトルの、手がかりを掴んだような、気がした。

長崎8人兄妹の一人、ナツキ(私の母)は原爆被爆後、なんとか活水女学院英文科を卒業して、長崎市大村の師範学校に就職した。師範学校での話は聞いたことがないのでよくわからないが、私の娘が大学の卒業式前に「おばあちゃんのタンスの引き出しに、ハカマがたくさんあったよ。先生してた時のだ」と言っていた。大村での教員生活はどのくらい続いたのだろう?

その後ほどなく、ナツキは1人で東京に上京した。
太良に疎開していた家族兄弟は奈良に出たのに。
あんなに長崎が好きだったのに。
母の3回忌にジャズ好きのミヤ叔母が、話してくれた。
ナツキ姉さんが「長崎」の話をする時は、目の輝きがちがっていた。「ナガサキ」という響きは、一瞬で、あの湿気のない透明感、山も海も色や輝きがちがう、あの感じが蘇る。長崎は、私たち兄妹にとって、特別な場所だった。

そんな彼女が、なぜ、長崎を離れたんだろう。
彼女を、東京へ、ぐわんと動かしたベクトルは なんだったのだろう。

まあ、これは、まだ取材が追いつかないので、ウラが取れたら(笑)いつか書くね。
『見よ、飛行機の高く飛べるを』と、遠くへ、上へ、飛びたい、連れてけ!と願っていた、
たくさんの、たくさんの女たちの想いを 思う。

ところで、本のゴリ押し?はたまた長崎8人兄妹?  いえいえ・・ヒコーキですよ!(笑)
070907_1333~01_0001.jpg
昨日は、毎夏 楽しみにしている「鳥人間コンテスト」の放送だったのよ!
今年はやらないなぁ、見逃したのかなと思っていたら、朝日新聞に大きく出てた。もう31回目だって! 多分 世界陸上 終わってからを プロデューサー狙ったんだろうけど、どっこい台風9号のすったもんだで、ゆっくり見られなかったぁ〜。ビデオ撮っといて、よかったよ。

070907_1314~01_0001.jpg毎年、大学の航空工学部やら、サークルやらが、
1年かけて製作した手作り飛行機で 
「鳥のように飛ぶ」ことに挑む。
ただ風に乗せて飛ばすだけの滑空機部門あり。
足こぎでプロペラを回す人力プロペラ部門あり。
その機能とデザインと工学的設計の
工夫と苦労は、
どのチームも並々ならないプロジェクト X だぁ!

070907_1321~02_0001.jpg琵琶湖の上にしつらえたスタート台から、
飛ばす時が、あまりに原始的で 笑っちゃう。
まるで 紙ヒコーキみたいでしょ?

離陸まもなく、わずか数メートルの滞空で、急直下 あえなく水没するヒコーキも多い。(涙)
この1年、この設計と製作と試行錯誤に賭けてきたグループの汗と想いが一瞬で散る。
ああ、ホント、なんでもそうだけど、
その一瞬に賭けちゃう人間の愚かさ、アホらしさ が、たまんなく好き!


すべての、バランスが取れた時、ヒコーキは風をとらえ、美しく飛ぶ。
写真は、滑空機部門で自らの学生記録を更新した首都大学東京MaPPLの美しい 流線型。 風に乗って、311、38mも 飛んだんだよ!ダ・ヴィンチの時代から、空を飛ぶことを夢見た人間たちの、
想いのベクトル  Fly me to the sky ! 

070907_1315~01_0001.jpg

前にも書いたが、私は石橋を叩いても渡らずに帰る臆病者で、小さい時には家の前にある溝(側溝)も渡れず、誰かが来るまで泣いていたほどの小心者だった。でも、なぜか、飛ぶ話が好き。
なんだよねぇ。 学生時代の愛読書は、郵便飛行士だったサン・テグジュペリの『人間の土地』

僕は賭けた。僕は負けた。それは僕の職業の当然の秩序だ。

って文章が好きで、いつもノートに書いてた。 そう、そして
賭けもなく、従って 負けのない 自分の人生を いつも呪ってましたよ。(笑)


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長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語
古谷田奈月 『リリース』
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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

鈴木道子
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