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ときの忘れもの

ときの忘れもの という 妙に惹かれる 画廊の名前を知ったのは
ぱくきょんみさんの すうぷのために展(2008馬喰町art&eat)に
オーナー夫妻が いらしていたから。

何度か 展覧会の案内の葉書をいただいて  写真展もよくやるギャラリーなんだなと思っていたが
大好きな 植田正治が出るので
2009年6月に 写真の勉強で日本に来ていた 韓国のチヨナと見に行った。

 へえ 青山に こんなところが あるんだあ・・・・
表通りから 階段を下りて その名にふさわしいような 袋小路に入っていき、
まさに タイムスリップしたような 不思議な感じがした。

思ったより小さなスペース。 でも大きなガラス張りの窓が明るく 
ギャラリーというよりは 設計事務所かなにかのような 空間だ。
画廊は 絵を展示する性格上 壁がいるので どうしても窓が少ない 密閉空間が多いから、
このガラス張りは すがすがしい。 
 
去年の秋 資生堂創業者福原有信氏、初代社長福原信三氏のことを ネットで調べていた。

私がブログで連載してきた 母の兄妹の聞き書き『長崎八人兄妹物語』の取材の中で、
私の祖父で 長崎響写真館館主の 井手伝次郎が
資生堂の 福原さんと 交流があったらしいと おじおばが言っていたので 
有信氏なのか 信三氏なのか 何か手がかりはないかと 探していたのだ。

たまたま『資生堂ギャラリー七十五年史』の編纂を終えて という
ときの忘れものオーナー 綿貫不二夫さんの文章をみつけて びっくり仰天してしまった。

資生堂ギャラリー七十五年史は、綿貫不二夫さんと、
和光大学で いつも娘がお世話になっている 三上豊先生が 編集委員だったようで、
ときの忘れものは その資料編纂室だったという。
本が出版されたあと、その資料室を ギャラリーとしたのが ときの忘れもの らしい。

なんと! ときの忘れものに惹かれたのは  名前のためではなかったのだ。

綿貫さんにお聞きしたら、資料編纂の時に 井手伝次郎の名前は出てこなかったが
福原信三は全国の写真館や アマチュア写真家と交流があったから
井手伝次郎と交流があったのは 福原信三で まちがいないでしょうと いうお話だ。

長崎で 響写真館を開いていた 私の祖父 井手伝次郎は 17才で 単身上京。 
画家をめざしていたが、佐世保から和洋女子師範学校に遊学していた 古河梅子と出会って
駆け落ちのように 結婚。
大正11年までは 東京青山南に住んでいたらしい。 
長男 桃太郎の出生届けが 東京都青山南町3ノ36番地 になっているからだ。
母子を養うため 伝次郎はおでんの屋台を引いたり
桐タンスの材木を仕入れに 東北にでかけたりして 生活していたようだ。

ときの忘れもの は 南青山三丁目である。 私は 胸がばくばくした。

ちょうど ときの忘れものから 宮脇愛子とマンレイ展の 案内が来ていて 
10月1日は 宮脇愛子さんに会えるというので、
私が大学生の頃 白井晟一さんの話を聞く会で 可愛がっていただいた 
宮脇愛子さんに会いに行った。

地下鉄 外苑前から 夕暮れの 横断歩道を渡る時、 
長崎の祖父とばかり思っていた 若かりし井手伝次郎が 
毎日のように この広小路を 渡っていたかもしれないと思うと
まさに ときの忘れものと呼びたいような 時空を越えた往来に 
私は 胸の高まりを抑えることができなかった。 




| 長崎8人兄妹物語 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
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