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出逢った意味を 

そもそも構造が気にくわない。

男というものは なんの権利あって
3人の女(母親、妻、娘、あげくは孫まで)の人生の
かくも膨大な時間を奪って 平然と居るのか。

ずっとそう思ってきたので、
父が亡くなった今も 父と娘のお決まりの構図で
父がお世話になりましたと 頭を下げる役回りは ほんとうは居心地悪い。 

2005年3月に 失語認知不能の母を見た時
え? この順番? と 私は へたれ込んだ。 
この順番でなければ 私の性分からいって 当然やるであろうことができない 物理的制約は
結局 母にも父にも 真正面から向き合わずに済ます エクスキューズとして、
最後まで 有効だった。 

「じゃ あとは頼むね♪」とさえも言わず
まんまと父を置いて先だった 極楽トンボのお嬢様だった母。
でも 置いていかれた父とつきあってみれば、
母は脳がイカレて 幸せだったと思えなくもない。
私の方が 何度も イカレそうになった。

親世代の 豪放磊落の後始末は 確実に 私たち き真面目世代を 病みに追い込む。  

私のエディター的直感で スタートさせた病みつきネタは
誰にも親があり 泣き笑いのストーリーがあるので、
少しは共感を持って読んでいただけるのではと思って始めたので
巨人伝説を 煽るつもりは毛頭なかったが、
父の最期の細かい経緯は 姉のブログで と喪主の弟が 挨拶したこともあって、
連日のアクセス600突破に 少々 びびっている。
こちらは一番笑えるネタ元を失って、
ちっ 企画がコケると 萎えてるというのに。

とはいえ 父の葬儀に際しては、本当にたくさんの方々のお力を借りたし、
不慣れなことで失礼もたくさんあったと思うので、
この場を借りて お礼とお詫びを 申しあげたい。

特に通夜は、まったく読めない会葬人数をどう捌くかに
ひっちゃき一所懸命になってた 祭場進行係のおかげで、
まるでモナリザを観る行列のような 喧噪と押し出しで
故人と各人との 計り知れない豊かな時間の終止符には
失礼千万だったことを 心苦しく思っている。

告別式は、かなりのブーイングを申し入れたので、少しはカームダウン。
納棺まで びっくりするほどたくさんの方が残ってくださり 
会場いっぱいのお花と 原稿用紙と えんぴつと 
死ぬまでやめなかった煙草わかばを 1カートン入れて 見送った。

誰にも親があり 出逢った意味と 向きあわないで来たツケは ここからがスタートだ。 
告別式は 出逢った意味を考える 出立の式だと 私は思っている。

告別式にお願いした弔辞は そういう意味で どれも私の臓腑に深く浸みたし、
通夜のベルトコンベアで 押し出されてしまったたくさんの方々や
美術界のみならず 表現や 文化 発信にかかわる たくさんの運動体の方々
若い人たちに 聞いてほしかったなぁと 心から残念に思っている。

そこで公開メディアとしては 不適切と承知の上で
(私の歯ぎしり枕じゃ ずいぶん失礼だと思いつつ)
ご本人たちの許可を得て ここに掲載させていただく。

告別式では 仙台旧制高等学校同級生の 南條信郎さんがトップバッターで 父の青春時代を
美術家の 岡乾二郎さんが 二番目に
韓国から駆けつけてくれた 元韓国現代美術館館長 キム・ヨンスさんが 最後に
弔辞を読んでくださったが
入力の都合で 岡乾二郎さんの弔辞を 先に公開する。 

 

弔詞

針生一郎先生。
申し訳ありません。針生先生、たったひとりの存在に頼りすぎてきた、
わたしたちはみな、先生にあやまらなければなりません。
とうとう、この日がきてしまいました。

誰もがいうように、針生一郎先生こそが美術評論家でした。
反権力の美術評論家、社会派の美術評論家、そして最後の美術評論家。
針生先生はずっとそう呼ばれてきました。

三十年以上も前に僕が芸術の世界に興味を持ちはじめたときに
針生先生はすでにそう呼ばれていました。
そのころ針生先生は、すでに現場から退役すると宣言されていたのに、決してそうはならなかった。
針生先生に代わる人はどこにもいないし、今後も現れることがないだろう。
最後で最大の美術評論家。
けれど、こんな台詞を、われわれはずっと弁解にしてきたのです。

針生先生が存在する。針生先生に代わる人がいない、と、
すべての任を針生先生ひとりに押しつけ、
三十年以上もの間、目の前で起こりつつある出来事をやりすごしてきたのです。

批評は、いかなる作品、事象を対象に論じるときでも、それが関係する利害、権力と距離をもち、
それを切断した上でなされなければならない。

ゆえに批評には 必然的に社会への批判が含まれる。
言論が自律するとはそういうことである。
それが評論の原則であり条件である。

けれど、いつからかこういう弁は 無骨であり野暮であると いまでは敬遠されます。
煩わしい事など忘れて スマートに文化を楽しめばいいと。
距離をもつことは 決して無縁であることではない、
無縁であると振る舞うことこそ権力、利害、政治に関わるための都合のよい身振りです。

だから、いくら忘れたふりをしても事件は起こりつづけ、歴史が停止したことはない。
どんな事件も厄介であるし面倒なものです。

誰もが憧れる芸術ゆえに、かえって精神と感性に与える負担は計り知れない。
こんなときに無骨だと遠ざけられていた評論が ご都合よく召還されます。

こんな風に、ずっと何十年もの間、五十年以上も最後の評論家と、都合よく呼びながら、
針生先生の存在に わたしたちは頼ってきたのです。

心身の大変な消耗を伴うと知りながら、自分たちは敬遠し、その大変な役割をいつも、
針生先生に押しつけてきたのです。

先生は精神も体力も超人的にタフだから大丈夫だろう、いつまでもそこに存在しつづける、
と勝手に信じこんで。

一九八二年の事ですが、針生一郎、夏木さん夫妻が逗留していたパリのゲールサック街の
ポール・ヴァレリーが住んでいた伝説のアパートを紹介していただき、
針生先生の階下の部屋で過ごせたことは、ぼくら夫婦の重要な出発点として刻印されています。

深夜に室内を歩き回る、おそらく針生先生の足音と 夏木さんの打つタイプの音。
姿は見えないけれど、機械のように回転しつづける思考の音が 聞こえるようでした。

日中、カフェやレストランで、どういうわけか肝心な話になると
必ず下を向いて居眠りされていたのも当然です。

その強い印象によって、その存在感によって、
また千絵さんが 高校以来の友人であったため 多少は身近な存在として、
ぼくはずっと 針生先生を理解しているものだと 勘違いしていました。
今、その時の先生と同じ年になって、
まったく 何も自分が理解していなかったと気づき 愕然とします。

針生先生はいったい、どのように思考し、世界を捉えていたのか。

針生先生ひとりの存在によって、かろうじて束ねることができていた世界の広がり、
多数性がどれほどのものだったかは、じき、はっきりするでしょう。
すべて、ちりぢりに分解してしまうはずだから。

美術批評も現代美術も戦後美術も。
美術界とよばれるもの自体が無数の世俗的関係に分解してしまうでしょう。

それが再び結びつけられることは もうないかもしれない。
針生先生が 最後の美術評論家だった以上は。

わたしたちに残されたのは、針生先生はなぜ、
このような重みをひとりで支えることができたのか、
という問いだけです。

針生先生は、戦後の出発において、抵抗の拠点として、
主体性などはまったく意味がないと自覚した、と言われました。
むしろ抵抗とは物質、つまり主体によってはコントロールできない身体と、
そこに付随する感性によってこそ可能なのだと。

だから文学よりも美術批評に力を入れるようになったと。
抵抗は主体でも意識でもなく、主体すらも逆らえない物質、身体こそが行なう。
すなわち物質に準ずる。

それが針生先生の思想であり、日常の実践そのものだった。

千絵さんの言葉を引用します。

あらゆる 進言や忠告を拒否し、
周囲のやきもきや マネージを完全に スルーし、
ダブルブックも 失念も 遅刻も 無頓着。
禁忌を禁忌と思わず、
失禁を失とも禁とも感じず、
病気を病気と思い悩む感知力もなく、
最期まで 現役で仕事に出かけた。

無趣味の力という名言で、針生先生の批評原理の核心を述べてもいる千絵さんが、
感知力がない、あるいは鈍感力と、辛辣な言葉で述べるのは、褒め言葉です。
(と僕は受け取ります)

病気を病気と思い悩むことのない感知力、つまり病気を受け入れてしまう力。
これはたしかに通常の人間には到底まねができない。

けれども、そんな感知力がなかったら、
あんなにも大きな重圧を背負うこともできなかったはずです。
あれほどの混沌、錯雑した広がりを受け入れることはできなかったはずです。

くよくよ思い悩む、主体性など捨ててしまえば、
気に病むような病気も悪も存在しない。

針生先生の言葉でいえば、それこそがカウンターカルチャーの本質だった。

そうやってすべてを受け入れ、そして最後まで現役で仕事をしつづける。
どこにでも出かけていく。

ぼくにそれを見習うことができるかどうか。
けれど、なんとか少しでも、近づけるよう残りの人生をかけてみます。

針生先生、ほんとうにありがとうございました。
どうか安からかにお休みください。



平成二十二年六月一日                     岡乾二郎






| おばんの病みつき | 21:25 | comments(4) | trackbacks(0) |
Comment
「かんからかんのかあん」、最高です!!

ゲラゲラ笑いながら読めて、勇気が湧いて来ます。

嗚呼、もっと早くこのブログを知っていたら…(泣)!

でも針生先生の生き様が、我がスタッフの癌治療に効きそうですっ(喜)!


2010/06/07 8:19 AM, from 日本の怪獣
ハリ、覚えていますか?北中で一緒だった芹沢です。たまたま見つけたので、懐かしくてメールしました。
2010/09/03 7:10 PM, from 松田美由紀(芹沢美由紀)
わあい セリ? 覚えてますよ。
セリは新宿高校じゃなかったかな?
すっごくスマートだったけど、今も変わらないかな? 高校も一緒だったオスエや オカンバもこのブログの読者ですよ。(笑)ミッコは父の通夜に来てくれた。野球部のシンちゃんも高校が一緒なんです。
キタチュウのみんなで下北沢で
会いたいねぇ。
2010/09/03 8:47 PM, from かんからかん
やっぱりハリのブログだったんですね。懐かしい!!くろすとーく見ていたらうちの近くの画廊で追悼展とあったのでネットで見てたらここにたどり着きました。以前弟さんがくろすとーくに関わっていましたか?もっと昔、娘の友達のお母様がそこで働いていたので時々読んでいました。相変わらずのパワフルなハリの毎日、これから時々楽しませてもらいますね。みんなで同窓会したいですね。誰かわかるかなー?
2010/09/04 2:59 PM, from セり









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