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不治の病

問題は 病気ではなく 性格です。

もう20年近く前になるが、
父が初めて 都立駒込病院に 不整脈のカテーテル検査で入院した時
なぜか 私が医者に呼ばれて そう言われた。
 
なんのことを言われたのか 今になっては思い出せないが
ともかく 医者の言うことを聞いていただかないと 病院にいる意味はありません。 みたいな
たばこを吸うことに関する イエローカード(注意勧告)だったような 気がする。

当時は ドクハラという言葉も たぶん知らなかったと思うが、
知っていたとしても 医者に同意する気分の方が 私には 強かった。(笑)

その後 1999年に父は 
もとベ平連事務局長 吉川勇一さんの『いい人はガンになる』出版記念会に出席した次の日
肺ガンの疑いで新宿の東京医大病院に入院し
肺ガンの小細胞癌ステージ4bで 手術も放射線治療もできませんと 宣告を受けた。
 
5月に第1回の抗ガン剤治療したが
その日に たばこが吸いたいと 病院を脱走。(爆)

新宿駅の 喫茶店まで出かけて 具合悪くなり(当たり前だ!)
父は集中治療室に ぶちこまれた。
連休に仙台から見舞いに来た 弟一家は 
ガラス越しに 戦力外通告受けた ジイチャンを見ることしか 許されなかった。
 
しかし その煙幕ショック療法が 功を奏したのか
ガン細胞が 増殖する環境があまりに悪いと 退散したのか 
肺ガンの その後の経過は良好。 11年生き延びている。 
やっぱり 「いい人」じゃなかったわけだ。

同じ 東京医大病院で 2003年12月に 心臓横の動脈瘤にステントを入れる手術をしたが、
その後の定期検査は 「もう来なくてよいと言われた」と言われたという。
2005年に 母が入院して 半年で亡くなったので、手がまわらずにいたが、
去年検査に行けとクリニックに言われて ひさびさ東京医大に行ったら
なんで こんなに放っておいたんだと叱られた。
「もう来なくてよいと言われた」のは 自己診断だったらしい。(爆)

その 去年8月の検査入院の時。
入院中は吸えないから置いてきたのかと思ったら たばこを忘れたと 苛立つ。
見舞いに行ってくれた私の友人が 愛飲のたばこ わかば を差し入れたが、
入院時の洋服を 私が洗濯に持ち帰ったために パジャマでの脱走は はばかられたのか
なんと 病室のベッドでたばこを吸ったらしい。(爆)

4人部屋は 煙にまかれ 病室の火災報知器が鳴って 大騒ぎ。
差し入れのタバコは 全部没収された。(笑)
よく レッドカードで 病院を 強制退去されなかったもんだ。

第一に 病気を 気に病む 能力が ない。
第二に 病院や 医者の進言、ルールにまったく従わない。
鈍感力!

「ちえさん、長崎八人兄妹物語の次は お父さんの 鈍感力について書いてよ〜。
病気と生きるのって ある意味そういう鈍感力が 大事なのかも。」
医療関係の著作が多い 友人の土本亜理子に言われたが、
「いや、あまりに普遍性がなくて 他の人には応用できないと思うよ。」
と 笑った。

検査の結果は 心臓横の動脈瘤が 6センチに肥大。
もうステントの追加も 開胸手術も 年齢的に危険。 治療のしようがない。

禁忌項目は
 たばこを吸わないこと。 
 重い荷物を持たないこと。 
 階段を登らないこと。
 遠くに出かけないこと。

それしか やってないようなことばかり(笑)だったが
担当の K医師は ハリウさんは若輩の僕が何を言っても 聞かないだろうから
自分の好きなように暮らして それで爆発したら もうしょうがないじゃないと 
達観していた。

3月の定期検査の時 あまりに喘鳴と ラッセルがひどいので
肺の検査も頼んだら 呼吸器外科に回され 
「たばこ吸ってるんですか? 言語道断です。
そういう方はうちの科では 診られません。」 
と キレる医者に

「僕はね〜 文筆業で 原稿を書かなきゃならんのだが
80才を過ぎたら、ちっとも 頭がまとまらなくて
そういう時には たばこを吸わなきゃ ダメなんだよ〜」と 語りだして
ポケットの たばこを 出そうとする始末。(笑)
さすがに それは はたいて、医者には なんとか頭を下げてお願いし 4月に検査。

肺気腫と 永年の喫煙による 慢性閉塞性肺疾患(COPD)と診断され、
これは 一種の老人病で つきあっていくしか たばこをやめる以外 治療はありません
と 薬も出なかった。

つまり つける薬もありません というわけだ。

思うに 人間最後は ビョーキならぬ 不治の病が 大きく左右する。

不治の病 つまり 自分の性格と気性、 そして絶対やめられない 病みつきだ。 
当人は 長年連れ添って 共存してきた 性格だから
それを治そうとか 戦おうとかいう発想は さらさらないが、
治療方法から 生活環境の整備まで 選択決定するのは この性格だから、
家族は 実はこの性格と 戦うことになる。

これは ビョーキより コワイ。 つける薬もないだけに 泣かされる。 

まあしかし 自分に置き換えても
やめろと言われると 俄然 馬力が出ちゃうし(笑)
自分を駆り立てる 内燃機関の始動が 最終的には 一番の免疫力アップだとしたら
不治の病=性格も 人間をやり続けるアクセルとしては 有効なのかもしれない。 

それが 父にはたばこであり 私にはお菓子と音楽である。 ってことか。(笑)  


と ここまで書いて 公開日時を 6月1日11時32分に設定して保存した
26日水曜日朝。

おババさまと朝茶をしていたら、11時14分。携帯に電話あり。
救急救命士からの電話だった。
玄関で 父が倒れているのを 宅配の人が見つけて 救急車を呼んでくれたらしい。

その前の週 ヘルパーさんの報告で 家に駆けつけた時、
呼吸があまりに苦しそうで 嚥下も不自由だったので
弟たちにもメールを回して 一郎ヤバイよ
シフトを組んで交替で見回るようにしよう、と
ヘルパーさんも 増やしてもらうように 手配した。

火曜日の夜中に 目が覚め ひどい下痢。
そういえば 母の時も 2日前に 自分がこんなになったと 胸騒ぎ。
夜中に 病院を調べ あれでは 酸欠になる。 酸素吸入だけでも してもらいたいと
19日水曜朝  新宿の東京医大病院に電話して 入院を頼んだが
地元の病院の方がよいと言われた。
ではしかたない、聖マリアンナ病院に連れてきてと
泊まってもらっていた娘のアヤカに頼んだが
父はアヤカの 断固説得に応じず。 

前立腺ガンの 注射に通っている 神田泌尿器科
痛風で通ってる 新百合ヶ丘クリニック
動脈瘤で通っている 新宿東京医大 
これ以上 病院を増やすのはイヤだという。

私はすでに電車に乗って向かっていたが、北千住で千代田線に乗り換える時に
気持ちはわかるが 痰がからんで 呼吸困難になった時に 救急車で運んでもらえる
近くの病院にカルテがあった方がよいよ!と 電話したが

たまに来て 色々やってくれても
だいたいにおいて 的はずれなことが多くて
はっきり言って迷惑なんだよ!
と 怒鳴られた。

ハア?  なぜ今 このタイミングでそのご発言?
と キレて 北千住から 帰ってしまう手もあったが
一方で これは介護される側にしたら真実を突いた名言だ!と 感じる自分もいて(笑)
「じゃあ 新宿の病院なら行くの?」
と折衷案を提示し、 それを呑んだ父を
娘が付き添って新宿の病院まで連れて来た。
 
その日の話は長くなるので またいつか書くが
3月の検査の結果 動脈瘤は8センチにさらに肥大
ハリウさんが 生きてること自体が奇跡ですよ。 
前に入れたステントのおかげで皮1枚でつながっている。
爆発したら 救急車を呼ぶ時間はない、病院に運ばれても死亡確認するだけです。
と 医師は 本人に明るく伝えた。
(なぜか積年のドクハラシャワーに麻痺して どぎつい説明も平気な私。笑)

救急救命士の話では すでに心肺停止。
聖マリアンナ病院に運ばれて、人工呼吸を施したが、
駆けつけた父の弟夫婦が 12時2分に 死亡確認宣告を受ける。
弟夫婦も娘2人も会えず。 まさに 先週 医師に宣告された通りの シナリオだ。
父の警察の検死に回されたので 私は病院にさえ行けず
実家で 遺体の帰りを待った。 

18時過ぎに 遺体は帰ったが
検死の結果 動脈瘤の破裂ではなく 急性心不全だという。
爆発したら かなりの痛みがあると聞いていたので、
よかった。 心臓ポンプが 止まっただけなのね。 

 在宅時はいつも着物なのだが、出かける洋服姿で靴をはいて
玄関の土間に足を投げ出し座った格好で息絶えた模様。
宅配の魚やさんが ドアが開いていたので 救急車呼んでくれたらしい。

ポケットには小松空港から羽田の航空チケットの半券。
羽田→新百合ヶ丘リムジンバスの半券。

死亡通知を電話する中でわかったことは、
24日日曜日夜に福井あはら温泉常宿越路に泊まり、
25日火曜日 館長をしている福井金津創作の森の理事会に出席。
顔色悪いので、もう一泊されたらという事務局の進言を聞かずに、
4時の飛行機で羽田に戻ったらしい。

あらゆる 進言や忠告を拒否し、
周囲のやきもきや マネージを完全に スルーし、
ダブルブックも 失念も 遅刻も 無頓着。 
禁忌を禁忌と思わず、
失禁を失とも禁とも感じず、
病気を病気と思い悩む感知力もなく、
稼いだお金の残高はチャラにし(これは別のビョーキ)
迷惑千万かけてひるまず
異臭芳香放って憶せず
最期まで 現役で仕事に 出かけた。
あっぱれ 理想的な 在宅のたれ死に というところか。
 
ベッドにあった 読みかけの本は

『 日露戦争 起源と開戦』 和田春樹
『思い出袋』 鶴見俊輔
『死体について』 野間宏

ちょうど私も読みはじめていた 鶴見さんの 思い出袋の中にこんな文章があった。

もうろくという感覚を自分でとらえてみると、
もうろくの中心に、「ある」というこの感覚がある。
  
昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。
その向こうに、「ある」という感覚が待っている。
 
今、これを断念するということを、わびしいと感じない。
人はそれぞれ、たくさんのことをしてきた。
その中のひとつ、ひとつ、だから。

玄冬の向こうに、よみがえりの春が来るのを信じることなく、
しかし、「ある」ことが、自分を終わりまで、ここで終わりと気づくことなく、
支えるだろうと期待している。

靴をはいて 今日も出かける姿で 玄関の間口に座って 息絶えていたという父の脳裏を
駆け巡ったのは こんな感覚だったのか。 どうか。 

私の父へのインタビューは、
立場上 いつも生活面の事情聴取と 詰問 指導になってしまっていたが、
現実は いつだって 間に合わない。 対話するのは これから。 というわけだ。





附記
5 /30 09:00〜09:45 NHK教育 日曜美術館 長谷川りん二郎
解説に 針生一郎 ちょっと出るようです。 興味のある方は ごらんください。


| おばんの病みつき | 23:22 | comments(4) | trackbacks(1) |
Comment
ちょうど、今頃はお通夜。
その席で千絵先生からお話を伺っているような気持ちでした。

聞かせてくださりありがとうございました。

千絵さんのお心やご家族の思いを感じながら読ませていただきました。

鶴見さんの文章。
「ある」という感覚。
この言葉をいただき、涙がとまらなくなりました。

2010/05/31 8:41 PM, from あっきい
父上の事、垣間聞いてはいましたが、徹底した生活ぶり、失礼ですが、あっぱれとしかいいようがありませんねえ。
第三者だから、“痛快”ですみますが、傍にいる家族は大変でしたでしょう!
お察しします。
ですが、かんからさんの文章はその渦中にいて、しんどい思いをしながらどこか醒めて面白がっている気配があります。

性格は似ているんでしょうね。お父さんと。
文を読んでて父上に対する広くてふか〜い愛を感じじ〜んとなりました。

最後の最後まで、譲らず、自分を持ち続けて逝くってすばらしいことですね。  <合掌>


2010/06/03 7:03 AM, from ママハハ
針生一郎さんには4/26/2010に30分程の長電話しました。文学における『分かる』とは、と言う話題で、同人雑誌に書け、と言われていました。この日に文芸軌道の坂本さんにお目に掛り、どのようにするかの具体案が決まり、その報告がてらの長電話でした。簡単に申せば、「それはよかった。」でした。印刷物をお見せする事は間に合わないだろうと双方で暗黙の内に諦めていました。でも、このでんわは出来て良かったと思っています。
2010/06/03 11:26 AM, from えのめ しんぞう
お父様の訃報おききしました。こころよりお悼みもうしあげます。

きっと、いろいろとお忙しいでしょう・・・お疲れがでませんように。

ちゃんと食べて、寝て、そして書いてください。
2010/06/05 11:45 PM, from べッキー









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針生一郎さん
針生さんが亡くなった。
2010/06/03 7:03 PM, from 今日、考えたこと

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