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テツオの仰天記憶力 その2 長崎片淵周辺

長崎8人兄妹物語は、 8人のうち インタビュー可能な 5人の取材が 一応終わったので
まとめの 作業に入っています。
これは 去年 5男 テツオおじから送られてきた 手書きの資料の 続編です。

テツオおじが(昭和8年生 75才)が 60年以上前 10年ちょっとしか住んでない 長崎片淵周辺の地図を 思い出して 書いてくれたもの。(疎開先 佐賀県太良の地図もある)
いやはや すごい 記憶力。 みなさん、自分の 子ども時代の領域 こんなに 書けますか?

兄イズミの 指摘で 明らかに まちがいのところは 削るが、
個人のお宅のことも 書いてあるので 記憶違いがあったら ごめんなさい。




長崎市片淵町(長崎ではチョウと読まず 必ず マチと読む。 習慣は 今でも変わらない)

片淵町一丁目一番地が 「響写真館」 その周囲が2番地。
表側は洋式、ウラが和式。 現在はパプテスト教会と幼稚園になっている。

諏訪神社 境内にあるうどん屋は、戦前から変らず ウス味で うまい。
さだまさしは 戦後うまれだが 長崎へ行くと 今でも ここのうどん屋に 寄るらしい。

松森神社 
カブト虫をヒモでくくり、賽銭箱のスキマから そっとおろす 「賽銭ドロボウ」は テツオの特技だった。 

て本料亭「富貴楼」 我々悪ガキの遊び場だった。

角尾(ツノオ)家宅 
愛子さんはテツオと幼稚園から一緒。 兄さんはイズミと同級で イチの親友。
あだ名はボルネオ、テツオはボル兄ちゃんと呼んでいた。
美人の愛子さんは活水でピアノをやって、絵はモモタロウに 習った。
活水時代に タラから転校してきた新宮(シングウ)麗子さんと親友となる。

浅野家宅
雅彦は幼稚園からテツオとは イチの親友。 長崎大附属小学校 関東地区万年幹事を 自称。
東京新宿で 設計事務所を やっていた。 
ひとつ上の 光子ねえさんは イズミと同じクラスで 天真爛漫。
2000年の同窓会でも「テッちゃーん、なつかしかとー」とはしゃいでいた。
お父さんの浅野金兵衛は、長崎コウショウ(今でいえば商科大学)の教授で
若くして叙勲を受けた秀才。
伝次郎とは、8ミリ動画の撮影という 同じ趣味で 大の仲良しだった。
金兵衛の撮った 長崎の風景は NHk長崎で 放映された。
通行人のカンカン帽、長中の軍事教練、原爆で焼ける前の 浦上天主堂など 貴重な記録だと思う。

西山橋 
この橋周辺でギンヤンマを取った。 小さなナマリ玉を 2つ糸でつなぎ これを投げると 
小虫と思い飛びついてくるので 羽に糸がからまる。
テツオの打率は 40パーセントを 越えていたので、やり方をおしえてくれたイズミも、
これだけは一目おいていた。

長崎高商  
コウショウには 厳しい厳しい 門番が居て 浅野君以外は誰も入れた者がいない。
そこで逃げ足に自身のあるテツオは 門司に追っかけられながら
見事にコウショウの校庭を横切り 一躍英雄になった。

響写真館のトナリの風呂屋 
♪オフロ屋さんのエントツの上から オテントウ様が 真ッ赤なお顔をちょいと出して
テッちゃんお早うごきげんよう♪「チャメ子の一日」(オペレッタのレコード)と全く同じ光景でした。

Y子ちゃんの家、テツと同じクラス。

藤岡家 お父さんは長崎の石油屋 
兄弟は上から下までずうーっと井手家と平行していた。
ひとつ上の兄さんはキヨアキと同級、東京の同窓会には毎年来ていた。
イズミと同級の兄さんが 一番おとなしかった。
コウゾウと同級の兄は拓殖大学で、コウゾウ兄さんが出征する朝、
長崎駅前広場でハカマに高ゲタ、幸兄さんのまわりを狂ったようにまわりながら
拓大おどりを歌ってくれた。
踊り終わるとコウゾウ兄さんの手をにぎって、「死んでこい!」とどなった。

お父さんの弟さんは伝次郎と仲良しで、休診の日はいつもヒビキの書斎に入り、
電気蓄音機で クラシックを 聴いていた。
藤岡家も 井手家と同じ頃、佐賀県藤津郡に疎開した。

寺本家 ひとつ上のお姉さんはキヨと同学年 その上の兄はイズミのクラス
 寺本君とは幼稚園のトイレで「オレの方がデッカイぞ」と比べっこをして以来、
常に何につけてもライバル同志。 
卒園前の学芸会で 主役を取られた時の ショックは大きく、
テツオに 生まれて初めて 挫折の何たるかを教えてくれた男。
それ以来何をやっても勝てなくなった。

寺本は医者になり、白い巨塔の頂点に立ったが、
関東地区のクラス会にははるばる長崎から飛んできてくれた。
彼が カンボジアへの 日本医師団団長として 出発した時は 各新聞の 第一面をかざった。
長崎の病院で天皇、皇后陛下を案内している写真もある。
 
田中裕子さん宅
タラに疎開した次の日、転入生として登校した 多良小学校で
社交家だからすぐみんなと仲良しになり、
昼休みにはワイワイキャアキャア廊下を走りまわっていた時、とんでもない人に出合った。
「ウアーッ??ヒロッぺ!!」「え?え?え ボロテツー!!」

何と同じ片淵で、幼稚園から附属小学校まで 一級下の幼ななじみ 田中裕子さんでした。

「疎開?」 「そう」
「いつ?」「先週」 「オイはきのう」
「家族みんなで?」 「うん・・・うんにゃナツキねえさんは長崎」「あ、学徒動員…」

裕子さんは中々の美人さんで 一年生からずっと級長ばかりやっていたけど 
どういうわけか 劣等性のテツオと ウマが合った。
一年下のくせにいつも裕子さんの方がお姉さん役だった。

中学のバレー部でも一緒、16クラスある マンモス高校でも 同じクラスの くされ縁。
「何かイヤな予感がしたとばい」「それはこっちの言うことよォ」
2年生の時テツオは奈良へ転校
「どうせくされ縁だから、又会えるね」とさわやかな別れだった。
再婚旅行で 太良へ 行った時、 友人が呼んでくれて ほんとに 会えた。

本屋さん。

ガソリンスタンドペガサス (ミヤの話に出てきた)
ここは馬町、その先に勝山小学校、その隣に中野道夫宅。
ここで暗くなるまで遊び、 心配して怒った梅子さんが ミヤとミユキを庭の木に縛りつけた。
共犯のオレは おとがめなし。


或柬神社前。
よく遊んだ 交番のおまわりの 息子が 電車にひかれて 死んだので、すごいショックを 受けた。
お互いにまだ小学生だった。

云紊龍兇 大手橋。  
長崎にはやたらと楠(クスノキ)が多い。(イズミの話では 榎らしい)
この楠にはコムラサキが乱舞していた。

国蝶のオオムラサキは青ムラサキでで大味だけど、
コムラサキは赤紫でオオムラサキよりずっと美しいと思う。

下の橋が鎮西橋。 

桃渓橋→大井手橋(井手家とは無関係)→ その下流が編笠橋→
古町橋→一覧橋→すゝきはら橋→東新橋→魚市橋と続き、その次が眼鏡橋…
子供の記憶力ってすごいでしょう?今残っているのは眼鏡橋くらいかな?

新大工町 

野口さん宅
井手家が 疎開した後 ナツキが 長崎で お世話になっていたのでは? と たびたび話題に出るお屋敷。

トッポ水
城の古祉からおりてくる湧水で、今はもう汚くて飲めない。
その前が カジ屋さんで 毎日トンテンカンと聞くのが楽しみ。
トッポ水のそばの石段のすき間に コワイランという名のホームレスが生活していた。
「子供は?」ときくと 「子は要らん」と答えるだけ。  だから コワイラン

21.城の古祉
天主閣なんかなくて山の頂上に平たい石づみが残るだけ。
こヽがイズミ、キヨ、テツ3兄弟の根じろだった。
城主のイズミは、長崎の街を見おろしながら我々2人に命令していた。
その向うが段々畑でテツオの食料源…?

22.春徳寺
ウラの広大な墓地でゴホンゴホンとむせながら、タバコを吸った。
これだけは小学生として罪の意識があったので誰にも言わなかった。ザンゲ…!

23. 長崎師範付属小学校

24. 長崎師範付属桜ヶ丘幼稚園
テツオは停年をまぢかに控えた小使いのオバサンと仲良しだった。
カマドのマキをナタで割ってベーゴマを作ってくれ、いっしょにまわして遊んだもんなァ。

25. 植木宅。お父さんは 長崎軍司令官の 植木大佐。
雄大な カイゼルひげを ピーンとはねて かっこ良かった。
伝次郎とは海星中学野球部で バッテリーを組んでいたとか?

指令付の下士官と 親衛分隊 数名を連れて
ヒビキの玄関に仁王立ちで伝次郎とケンカばかりしていた。
最後の日のことは、よくおぼえている。

「井手はん、軍に協力せにゃいかんとですばい」
「協力はできん、帰ってくれ」
「井手はん、もうどげんなってもわしゃ知らんぞ」
「くどい、帰れ!」
「わかった、もう貴様には何も言わん」

植木大佐は下士官にめくばせした。 家族はこわいので 奥にいた。
まぬけな テツオだけが そばに居て 二人のケンカをポカーンと見上げていたが、
さすがに たゞならぬ 雰囲気を感じとって、思わずあとずさりした。

下士官はギラリと軍刃を引っこ抜いて 「気をつけ!」
ザッ!「井手伝次郎先生に対し捧げ筒!」
チャチャッ!「礼砲用意」ガチャッ!「打て!」バチッ!

天井へ向けられた無装填三八式小銃の ぶきみな音が、
 響写真館の玄関とポーチにヒビきわたった。
「なおれ! まわれ右、分隊前進!」 ザザザザ・・・・ 
石段を 遠ざかる軍靴の音は、今でも テツオの耳に 残っている。

伝次郎は 黙ったまま、しばらく 腕組みをしていた。
おそらく 井手家の 撤退(疎開)を 決意した瞬間だったかもしれない。

植木親子の 死を知ったのは 戦後だった。

26. 伊良林小学校
付属小学とは まさに犬猿の仲。 貧乏人vsおぼっちゃまの 格差社会の縮図のような 宿敵だった。学校帰りに 殆ど毎日 川中島の合戦が展開された。

27. 伊良林小学校西側の塀に添って小さな露地があり、
その一番奥にのきの低い ボロ屋があった。

28. 伊良林小学校 vs 付属小学校 激戦地(空地?)

武器は主に石ころだが、剣道の竹刀の鍔を 砥石でナイフ状に研いで 白兵戦に備える者も居た。
しかし自転車のチェーンをぶりまわす奴が出てきたため、これはイカンと言うことで、
両校生徒間の条約でチェーンの使用は禁止することにした。

29. 急坂の「中立地帯」(露地)
この区間に居る者は 誰であろうと危害を加えてはならない。
子供社会は 自分勝手なおとな社会と異なり この様な 厳しい不分律によって守られていた。

30 テツオ転倒!捕虜になる地点 かくて 激戦終結せり
28の川中島での激戦中に、ある日 伊良林の高等科(高等小学校)の 生徒が 大勢現われた。
小学生のケンカに高等科生の参加はタブーとされているのにもかかわらず だ。
両校生徒は 蜘蛛の子を散らす様、一瞬にして その場から 姿を消した。

テツオも中立地帯を必死に駆け上った。ところが・・・である。
逃げ足には 誰よりも 自信のあるはずの オレが、何としたことか。
30の地点で転倒し、後を追って来た高等科生に逮捕され、捕虜となったのである。

実は戦いがエスカレートして 通行人から危険だ との苦情が出たため、
伊良林小学校の校長が 停戦命令を発動したらしい。

テツオは伊良林小学校に連行され、 校長室に入るなり 校長の 一喝を喰った。
「馬鹿者!ケンカするなら米英としろ!」
そして次の薫陶を頂いた。

「君は本日 ここに 附属小学校の 全権大使として 連れてこられた。
附属に帰ったら 今日限り ケンカは終りだと 告げなさい。 わかりましたか?」

全権大使とはどんな役かは知らんが、 
名誉の捕虜となった 敵の勇者に対する 讃辞に違いないと思ったので
思わず胸を張って「はい!」と答えた。
そしてテツオが 伊良林の生徒に 袋タタキに合わない様、
校長のはからいで 高等科生の 護衛つきで 中立地帯まで 護送され釈放された。
こうして この伝統ある 両校の戦いにも 最後の時が来たのである。

両校の生徒が仲なおりをして1年後に原爆は投下された。

31 彦山への入口
段々畑」の中に 小学校の恩師 川崎先生の家があった。
さすがにテツオもこの辺の野菜は盗めなかった。

32 螢茶屋 電車の終点で上り坂は日見トンネルに至る。

33 長崎中学校 校章は「鶴の港」をかたどったもの。
長崎港は飛ぶ鶴の形に にてるので昔からそう呼ばれていた。

34 シーボルト像 
こういうモッタイぶったのを見ると テツオは何故か 小便をぶっかけたくなる 悪いクセがあった。

35 かくれキリシタンの抜け穴 東側の入口
ほんの一部の人しか知らなかった。今はもうこの地下道はないかも・・・。

36 山田耕平君の家 ウラ山の繁みの中に地下道西口があった。

25の植木君のとなりの家の床下からも地下道があった。
老婆一人暮らしの その家には、いつも 鍵が かけてなくて、
いじめっ子から逃れたテツオが ソオーッとしのび込むと 「抜け穴かい?」 とばあさんの声。
「ケガせんごと気つけろ」 考えてみると戦時中の方が今より平和な日本だったなあ。

山田耕平の家の庭には、ロックという名の でっかいジャーマンセパードが 放し飼いになっていた。
長−い石段の下に近づくといつも吠えはじめた。足音だけでテツオと分るらしい。
毎日ロックと 城の古祉の 山中を駆け回って 暗くなるまで 遊んだ。 
耕平君と テツオは常に 劣等生一位を競い合ってきた。その後 彼は銀座二幸の取締役になったけど。  
| 長崎8人兄妹物語 | 09:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
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