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長崎8人兄妹物語 三男イズミ その2

          乙松じいさんのこと 


かよこ 伝次郎さんのお父さんは、写真と関係ないんですか?
イズミ 関係ないです。 祖父の 乙松は、どちらかというば商人でしょう?食糧商です。海軍の。
    悪い言い方をすれば、軍需産業ですよ。(笑)
ムツコ 佐世保で 海軍に食糧を下ろして、ボロもうけしたらしいですよ。
ちえ  それで、山とか林とか買って、散財して、借金をこさえて、
    伝次郎は絵描きになるのを諦めて、借金を返すために、写真館を始めたんです。
るみこ ええ!そうなんですか!
ムツコ だから 伝次郎さんは 乙松さんに ウラミ骨髄なの。(笑)
ちえ  親の借金を返すために、マイナスから 仕方なく始めたのが、響写真館なんです。
ちえ  乙松さんと伝次郎は似てる?
イズミ まあ、似たところはありますね。
ちえ  採算考えないで、山とか買うところは、夏木が 似たって 深雪おばが 言ってたよね。
ムツコ 乙松さんは、人の山でも、あの枝を剪定しろとか 言って切らせたらしいよね。
イズミ いや、あれがよくないよね。(みんな笑)
ちえ  イズミさんは、伝次郎の盆栽趣味に関しては、ものすごく文句があるんです。
    自然を痛めつけてなんてことだって。(笑)
みちこ ああ、そうか〜(笑)
かよこ 子どもより、盆栽の方が大事だったんでしょう?(笑)
イズミ 乙松さんもね、人間より、自分の趣味が大事だったようなふうに、僕らも受け取ってます。
    ともかく、凝り性で、自分はそれだけの散財をやってるくせに、
    人を見たら「穀潰しだ!」って言ってた。(みんな爆笑)

ちえ  北原白秋を家に寄宿させてたって言ってたよね。
    それで、海軍の料理人を呼んで、アイスクリームのテンプラを作らせたとか。
    相当なグルメだったらしいよ。
ムツコ それから、建具やさんをね、自分のところで飼い殺しして、こういう家具とかを作らせてた。
    夏木のところへ行ったタンスなんかも、全部そうなんだよ。
    全部 職人を お抱えして、好きな時に、家具を作らせてた。
ちえ  へええ、そうなんだ。 初めて聞いた。
イズミ そういう散財をやりながら、人を見たら「穀潰し(ごくつぶし)だ!何も創造的なことしとらん!」
     って言ってた。
     時々、家に遊びにいらっしゃってましたけどね、
     僕らは面白かったですよ。

ちえ  あの、海辺の家の写真に写ってたおじいちゃんでしょう?
    そんなハイカラな感じじゃない、
    普通の田舎のじいさんっ て感じなのにね。
    伝次郎は見るからにハイカラだけど。
ムツコ でも、その当時はハイカラよ〜。
      海軍に出入りしてたんだし。
イズミ そうでしょうね。それから、キリスト教でしたしね。
     カトリックから改宗したんですか?
ムツコ いえいえ、改宗してませんよ。お墓はクロスです。
ちえ  佐世保のお墓も一緒に行ったよね。
みちこ 命日がみんな一緒なのが、つらかったね。8月9日。
ちえ  佐世保にいたのにねぇ。 6月の佐世保の空襲で、
    みんな焼け出されて、
    長崎に 引越したばかりに・・・・
    ちょうど 爆心地で 原爆に遭って 亡くなった。

     ふたたび・・・ナツキはどこに?

ちえ  このインタビューは、原爆の前日まで、夏木は一人で長崎の どこにいたんだろうって
     素朴な疑問から、始めたんですけど・・・・・
イズミ 結局 あの後 夏木さんは、あまり出てきませんね。
ちえ  そうなの。他にお宝な話が続出しちゃたから、もうどうでもよくなっちゃった。(笑)
イズミ 結局 謎の女ですね。
ちえ  そう、謎の女(笑)
ムツコ でも、あれはね、野口さんのお宅以外にない!(きっぱり断定する)
イズミ  いや、ところがねぇ!(なぜか大きい声で反論)
    僕はしょっちゅう野口さんの家に行ってたんですよ。
    野口タツオさんは、チョウチュウ(長崎中学)で僕の上級で、僕はよく遊んでましたし、
    そこに夏木がお世話になってたら、絶対に僕がわかります!(きっぱり言う)
ムツコ それは何年の話?
イズミ 昭和20年より前。戦時中でも、時々行ってました。疎開する前にも。
ムツコ じゃあ、昭和19年から20年の間ですね。
 ちえ  野口さんのお宅は、お医者さん?
ムツコ いや、不動産か何か。ご商売で。
イズミ 野口さんの 長男のケンちゃんは、非常によくできた方でした。
     僕がよく知ってるのは、次男のタツオさんです。
ちえ  長男の方は、長崎医大に行ってて 原爆で亡くなったとか。
イズミ かもしれません。
     タツオさんは、戦後 進駐軍で働いて、
     進駐軍のカッコして、太良に遊びに来てくれたこともあるんです。
ムツコ へえ、そうですか。


イズミ タツオさんは、背が高くてね、進駐軍のかっこして、かっこよかったですよ。
ちえ  ああ、美夜ちゃんも言ってた。
イズミ ああ、つまりタツオさんは、夏木と同級だったかも。小学校では。
     親同士も、とても親密だったから、ムツコさんがそう想像されるのは、
     ごく自然なことですけれどもね。
ムツコ う〜ん、じゃあ他にどこにいたんだろう?
イズミ 活水の職員宿舎にいたとは考えられないですか?
ちえ  それは戦後なんですって。
イズミ でもそれは、桃太郎の証言でしょう? 戦前は?
ムツコ 戦前は、活水の職員宿舎はなかった。
イズミ なかった? ああ、なかったですか・・・だったら、ないなぁ・・・
ねもと ますます謎は深まる・・・(みんな笑)

       謎の女


ムツコ 学校の寮かなぁ・・・でも、寮生に聞いても知らないって。
イズミ 寮か、友人のところか・・・
ちえ  みんなそれはいいますね。友人のところって。
イズミ 推理小説かなんかみたいですね。
    僕は 夏木さんが、美夜か深雪に 話してたのを 聞いたことがあります。
    「私が割合 身勝手に いろんなことやってると 思うでしょうけれど、
     そしていろんな人たちの 世話にも なってるけれど、
     私も 尽くしてるのよ。 だからみんなが 私を助けてくれたのよ」ってなことを言ってました。
ちえ  アハハハハ 私が言いそうなセリフだなぁ。(爆笑)
イズミ あ、そうですか?(笑) だからこそ、みんなが助けてくれたのよ、って。
     いろんなところにお世話になってたんでしょうけど、 自分も一生懸命尽くしてたそうです。
ムツコ (首をふる)いや〜、それはない。ない!
ちえ  アハハハハ 同級生の答弁。否定されました!却下!却下!(爆笑)
    同級生からみると、ナツキは 好き勝手やり放題なのね。(笑)
イズミ 学生の寮っていうのは、ないんですか?
ムツコ ありますよ。でも、そこも簡単に入れてもらえるわけじゃないのよ。
みちこ 佐世保のみっちゃんのお友だちの さっちゃんみたいに、
     地方から来た方が優先ってことですか?
    でも、もぐり込んだんじゃないんですか?
ムツコ そこに居候か・・・(結局 ナツキは原爆前日まで どこにいたかは また わからず)

(帰ってから テツオが送ってくれた同窓会名簿で、野口タツオさんと夏木が同級生と確認。
面識ないが 電話をかけて お聞きしたら、夏木が 寄宿していたことは なかったという)


           長崎を 離れるのに 抵抗


ちえ  イズミさんは、太良に疎開する時には、イヤだって抵抗して、
     伝次郎が引き連れに来たとか テツオが言ってましたが。
イズミ 疎開の話が持ち上がった時には相当イヤで、抵抗もしたんですけれども、
     長中の宿舎に入るか、太良へ行くかどっちかしかない場合、どっちにするかと言われたら、
     もうしょうがないなと。
みちこ 寄宿舎生活は、窮屈ですよね。
イズミ ええ、ただでさえ、戦時中のしつけは窮屈で、軍国調でやってるから、
     とてもじゃないがやってけるはずないと思ったから、
     結局は伝次郎に折れて疎開しました。相当イヤがったのは事実です。
     イヤだった理由は、ただ親友と別れるのがイヤだっただけです。
ちえ  ははあ。 誰ですか? 親友って? 吉田直哉さんとか?
イズミ いや、吉田くんは、ちゃんとした秀才だから・・
ちえ  ちゃんとした秀才は親友じゃないんですか?(笑)
イズミ ああ、まあ、だいたい、デキの悪いのが・・・(みんな笑)
     ちょっと 不良じみたのが いたんですけれども、 ぼくは そういうのと仲良かったですよ。    ちえ  イズミは ワルにもてた って キヨアキが言ってましたよね。
     じゃあ、疎開するまで、そういうお友だちの家を泊まり歩いてて、
    太良にはみんなと一緒に行かなかったんですね?
イズミ いや、泊まり歩いてたことはありますし、行くまでに相当抵抗してたことも事実ですけれども、
     結局は僕は折れて、家族と一緒に太良に行くことになったんです。


       疎開先 多良の 農耕生活にはまる


ちえ  でも、そしたら、太良の田舎生活は、ハマりましたよね?良かったですよね?
イズミ ああ、大局から言えばよかったと思います。
ちえ  今度 長崎の月光スタジオに修行に行けと伝次郎に言われた時は、
     オレは百姓になるんだって抵抗したとか。
イズミ いや、百姓になるなんて あんなはっきりした言い方はしていません。 
    ただもうその頃から、都市的な生活が僕はイヤだったんです。長崎でさえ。
    太良は文化果つるところでしたからね。 ガスもない、水道もない、電気もない。
    そういうところで生活してみたら、こっちの方が面白いぞって思った。厳しいけどね。
かよこ 都市的な生活を拒否したのは、兄妹みんなに共通してませんか。
イズミ そういえばね、幸蔵さんとは、戦後彼が帰ってきてから、彼とは哲学的な話をしてみたり
     宗教的の話をしてみたり、文明とか文化について、よう話したんですよ。
     で、奈良へ行ったばかりの頃ですけれども、
     技術文明なんていうものは、これ以上発達したら、人間は幸福にはならんぞって
     彼は言ってましたね。   僕もそう思うって言いました。
    リヤカーか自転車ぐらいでやってるぐらいが、 人間は一番幸せとちがうかって言ってました。
みちこ 十代二十代の頃の会話でしょう?
ちえ  先見の明があったねぇ。 
イズミ 幸蔵さんは、出征で南方へ行ったけどね、やっぱり南方で見た世界というのは、
     ああいうところの 原住民の生活には 何かいいとこあると思ったんですね。
     おれはニューギニアかどこか行きたいと言うてたことありましたもん。
     幸蔵さんが非人間症になって、帰って来た頃ですよ。


      美的な感動の 源泉     


イズミ 僕もその頃から、自然の良さを 直接にからだで感じました。
     厳しさも感じてますよ、 ものすごい厳しいことは 厳しいんですけれどもね。
     本当に感動することも、そういうところで 体験しましたからね。
     本当の人間の美的な感動というものは、自然との接触が源泉だと思うんです。
     作品や名画と言った以上に、そりゃあ美夜さんが言ってたような
     巨匠たちの 作品にも 感動するけれども、そんなものとね、
     神様が作った 作品とは 比べものに ならないですよ。
     自然の中で得た 美的な感動というのは、強いですからね、
     そして今でもそう思うから、 美の源泉は そういう自然との接触の中でしか、
     本当にはできないと、僕は思います。 やがて枯渇する。
     それくらいの 感銘は 受けたから、都市的な生活、文明社会には帰りたくないな、
     相当イヤだったんです。
     
みちこ 私は、どうして泉さんが長崎のようなところから行って、太良にピタっとハマったのかって
     思ってたんですけど、今日は よくわかりました。
イズミ 美夜さんとは、逆ですね。夏木さんにしても都会志向です。
ムツコ 夏木は 最初から、東京が 頭にあったから。
ちえ  そうなの? へええ!
ムツコ 太良には、ちょっと寄るだけだったわね。
イズミ 伝次郎も、できれば、都会に、東京に出ろって言ってました。
ちえ  え? 子どもたちみんなに言ってたの?
イズミ ええ、僕にも言ってましたね。
みちこ 伝次郎さん自身が 美大も東京でしたものね。
イズミ 僕はもう、勉強もしたくないし、大学の受験もしたくない。
     ともかく、できればこの延長で 養鶏かなんかしながら、
     やっていけたら一番いいと思ってましたから。
     父はやはり、自分の跡を継いで、写真屋をやってほしかったみたいなんですが。


         なぜ 長崎に 戻らなかったか


ちえ なぜ 伝次郎は 戦後 長崎に戻らなかったのか、といういうのが私には不思議なんです。
    あれだけの 写真館を 構えてた 長崎に。
イズミ  う〜ん、わからないねぇ。 これっていう きっかけがなかったんでしょうね。
ちえ  ミヤおばの話では、戦後 浜野町で小さな 写真屋を 一時やったんだけどと言ってました。
イズミ よく知りませんが、資金繰りとか うまく行かなかったのかな。
     一時 不本意でしょうが 競輪の写真の仕事もしたのですが、 それもうまく行かなかった。
     あげくの果てに、
     響写真館の 建物や土地を 粗悪な石鹸と交換に
     二束三文で 取られた形になって 失ったようです。
     激しく議論してたが、伝次郎も 黙ってしまったのを 記憶しています。
     そんなことが 色々あって、
     自分で お金集めも含めて、やろうっていう元気がだんだん なくなってきたんじゃないかな。
みちこ その時、何才ぐらいだったんでしょう。
イズミ 父親の年齢は、計算すればわかるでしょうが・・50才やそこらじゃないですかね。
 (伝次郎は明治24年生まれなので、終戦の昭和20年には54才。奈良に移ったのは60才過ぎ)
みちこ 戦後の困難な時代だから 食べていくのがやっとですよね。
ちえ  でも 奈良に出るよりは、長崎に戻った方がいいんじゃないですか?
イズミ だから きっかけというものがね。
     大阪 細谷真美館出身の人が 奈良で 真美館を立ち上げるので 呼んでくれたから。
ちえ  うーん、受け皿があったわけですね。
イズミ 写真学校の校長になってくれませんか、というのが、最初の話みたいです。
     それから、印刷を事業として始めるからって。
     伝次郎の客筋と 技術は 魅力だったんでしょう。
     でも 待遇はひどいし、 伝次郎は 言うことを聞かないし、
     息子たちも ゾロゾロついていったし、幸蔵さんは 組合作るし(笑)
     うまくいかなかったんですよ。 
かよこ 伝次郎さんが奈良に行かれて、その後の生活とか写真に対する思いとか、
     ギャップがありますか? 気持ちの上で。
イズミ 写真は、最後まで好きだったんじゃないですか。
かよこ ずっと撮られてました? 個人的にも。
イズミ う〜ん、それほどじゃないですね。太良へ行ってからはそれほど写真撮ってませんし。
ちえ  太良の写真はほとんどないね。
     今みたいなデジカメじゃないしね。暗室から何から、時代で言っても ムリですよね。
イズミ  気持ちの上でも、一時的にせよ、もう写真をやる気はなかったんじゃないですか。
     そうそう。太良に一つ写真館があるはずですが・・・
ちえ   ツサキさんですね。疎開した時、そのお宅に最初 寄宿したみたいです。
     そこの息子に 写真の技術を 教えてくれれば、家を貸してあげる みたいな話で。
     でも8人兄妹がぞろぞろねぇ、どんなに迷惑だったか・・・戦時中に。(笑)
イズミ そりゃあ迷惑だったでしょうね。しかも、みんなハズレたやつばっかですからねぇ。
    (みんな笑)


        奈良へ


みちこ でも奈良の真美館から呼ばれて、長崎ではなく奈良に行ったというのは、
     やはり伝次郎さんが 奈良の 古代文化に 惹かれるということも あったんでしょうか?
イズミ それは、雲仙・長崎の写真集を出した後に、「次は奈良だ」って言ってましたね。
ちえ  えええ! そうなんだ・・・!
ねもと それは 初耳だ。
ちえ  それは 初耳・・・・
みちこ じゃあ福井県とか 他の県だったら受けなかったかもしれませんね。
     奈良だったからということがあったのですね。
イズミ どこかに伝次郎が書いてますよ。 何かで読んだことあるなぁ。
     実際に伝次郎から聞いたこともあります。
ちえ  じゃあ、桃太郎が継いだってことですね。 桃太郎は 奈良をずっと撮ってたから・・・
     桃太郎が撮った奈良の写真は全部、入江泰吉写真美術館に 根本が収めたんですよ。
ムツコ 桃太郎は多摩美の時にね、修学旅行で奈良へ行ったわけよ。
     なんとかいう有名な先生に連れられて、それでもうぞっこん奈良に引っかかってますね、
     最初から。

ちえ  伝次郎は 奈良に行きたかったんだね・・・・・・・びっくりだ・・・・
みちこ ああ、 たぶん 惹かれたんだろうね。
イズミ ええ 奈良には伝次郎は惹かれたんでしょうね。なんで惹かれたのかは、知りませんよ。
     それからずっとずっと潜在意識の中に、奈良は日本人の心の故郷って言われるでしょう?
     何かがあったんでしょうね。
ちえ  私たち 奈良で結婚したんですよ、奈良で出逢って・・・・
るみこ ええええ? 
ちえ  だから・・・・・すごく びっくりした・・・・・・・
みちこ やっぱり ルーツが・・・・(笑)
ムツコ けっこう伝次郎さんは、響のアルバムの仕事で、
     真美館の仕事で、関西に出てきてましたしね。 
     アルバムの印刷は、全部大阪の 細谷真美館に やらせてたので。
イズミ だから 春日大社など、けっこう撮ってますよ。
ムツコ 子どもと一緒に撮ってる写真でしょ? 
     アルバムの仕事で来た時に、桃太郎や幸蔵さんは連れて来てもらってることがあると思う。
イズミ 僕は知りません。 夏木は 連れて行ってもらってるんじゃないかな?

みちこ 私が夏木さんと初めて会ったのも、奈良なんだけど・・・・
ちえ  ええ? そうなの?(これも びっくり)
みちこ 奈良の阪本さんのコンサートに、パーティの子どもたちも 一緒に行ったでしょ。
     その時夏木さんが、「私は西の京が大好きで、戦争で何もかも失った時に、
     西の京を歩いた時に、初めて また 生きて行こうっていう気持ちになった」って 言ってた。
ちえ  へえええ、そうなんだ・・・・・・・・初めて聞いた。(みんな笑)
イズミ 夏木さんを 掘りだそうというのが、もともとの動機なんでしょう?
ちえ  あ、いえいえ、あの人のこと よく知らないんです。 興味なかったし。 アハハ
イズミ いや、興味なければ掘り起こさないから。
ねもと 謎は深まるばかり。
ムツコ ほんとにねぇ、そのうちぽっと真実が出てくるかも。
ちえ  夏木よりもっと お宝 発掘しちゃったから、もういいです。
みちこ そうねぇ。 全部 夏木さんが 導いてるのかもよ。(笑)


       原爆


みちこ イズミさんは、太良に行って命拾いされたってことですよね?
     長崎に残ってたら、被爆したり・・・
イズミ ええ、それはありますね。
ちえ  伝次郎のおかげで、子どもたちはみんな 原爆には遭わなかったのね。
イズミ それでも、夏木さんは、すぐ長崎に戻ったでしょう? 
     だけど僕は行かなかった。  友だちに、ともかくいっぺん来いよと言われても、
     行かなかった。 原爆後の 長崎に行きたいとは、思わなかった。
     まもなく、相当 タチの悪い爆弾だってことは、だんだんわかってきたんだけど・・・・
ちえ  どのくらい経ってから行ったんですか?
イズミ 年が明けてからぐらいじゃないかと思います。
ちえ  じゃあ21年になってからですね。お友だちは、たくさん亡くなってますか?
イズミ それほどでもありません。
みちこ 疎開してた人が多いってことですか?
ちえ  やはり、山の手と下町じゃないですけど、爆心地は下町だったから、活水とか長中とか
     の人たちは、案外助かったみたい。金比羅山が防いでるから。
ムツコ 長崎の古い町は残ったわけよ。私ら、新興住宅地に住んだところはやられた。
るみこ ムツコさんのお宅はどこだったんですか?
ムツコ 城山。
るみこ まあ、それじゃあ、ほんとに爆心地ですねぇ。
ムツコ みんな出払ってましたからね、留守番してた姉が 即死しました。
ちえ  ムツコさんのお母さんは、大分に疎開のお願いに行ってて助かったの。
     でも 後で 黒い雨にあたって亡くなったの。
みちこ 留守番されてた 一番上のお姉さんは、活水の先生だったんですよね?
ムツコ そう。だから、生徒と一緒に工場で働いてたんだけど、その日は、留守番を頼まれて、工場を
     休んで留守番してたもんだからね。工場へ行ってれば、助かったかもしれない。
るみこ まあ・・・・
ムツコ 夏木さんみたいに、その日に休んで帰ったから助かった人もいるしね、
     みんな運命のあれね・・・
イズミ 夏木さんが、帰ってきた1週間やそこらの雰囲気はよく覚えてます。
かよこ 夏木さんの 機関誌に夏木さんの言葉がありましたよね。
     それが、夏木さんの 唯一書いたものなんですか?
ちえ   はい。 あの授業を創るの機関誌に書いたのも70才になってからです。
イズミ ムツコさんのお話も、千絵さんのインタビューで初めて知って びっくりしました。


          学徒動員 と 留年


ちえ イズミさんは 長崎中学のの途中で、太良に疎開したわけですが、
    ね。で、鹿島中学の何年に入るのですか?
イズミ 鹿島中学の3年だと思います。そして、すぐ学徒動員です。
ちえ  学徒動員は、どこへ行きましたか?
イズミ オギというところへ行きました。
ムツコ ああ、オギ羊羹のとこね。 小さいお城で 小城(おぎ)。
イズミ どんなことをやってたかというと、土方をやってました。
     兵器工場か何かを作るためだったのでしょうね。
ちえ  じゃあ、シャベルで掘る。 長靴はいて?(みんな笑)
イズミ いや、わらじでした。
みちこ それで、戦争に勝てるわけないですね。
イズミ その後 祐徳院の山を切り開いて、工場を作る作業や 鋳造の仕事をしました。
ちえ  でも、授業より、良かったですね、イズミさんには。(みんな笑)
     なのに、なんで留年したんですか?
     年子のキヨアキと 同じクラスになったんでしょう?
ムツコ  長髪が原因で?
イズミ  いえいえ、そうじゃない。 留年は、戦後 学制が変わって 鹿島高校になってから、
     やはり勉強できないことがあります。
      毎年、成績不良で 親が召喚されましたし。
      ・・・ようするに、学校行ってない・・・(みんな笑)
みちこ  日数不足? 出席日数が足りなかったんですね。
ちえ   不登校ですね。(笑) 何やってたんですか? 野山を 歩いてた?
イズミ いやぁ、はっきり言ってね、その頃、僕は僕なりに、思春期ですし、悩みもあるし、
     それをなんとか解明しようと 一生懸命勉強しましたよ。
     学校行ったって、そういうことに対しての相手はしてくれないしね。
ちえ  みんな今の不登校の子たちが、そう思ってほしいよね。
     僕は僕なりに、探求してるんだって!
みちこ そうね、そうね。
ムツコ うん、そうそうそう       
イズミ だから、もう自分でやるしかないと思って。その点恵まれたのは、
     ミヤさんの話にもありましたが、家には本が割合ありましたから。偏ってはいましたけれども。
ちえ  疎開先にもかかわらずね。

イズミ ただ、僕は読み書きが得意じゃないんで、ミヤさんほどには読んでないかもしれませんが。 
     やはり原爆であれだけのものを体験してですね、
     ムツコさんがおっしゃってたような体験のごく一部ですけれども、僕も見たんです。
     テツオくんが書いているように、貨車で運ばれてる半死体をたくさん見てますからね・・・・
     山のようにというほど積まれてはないですけど・・・・足もとにゴロゴロしてるんですよ。
     ほんとに蚊の鳴くようなうめき声を出してね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(言葉につまる)・・・・
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まずいんだよ、ああいうのを思い出し   て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ともかく、ちょっとした一面を見ただけども・・・・・・・・・一番感受性の敏感な時に、・・・・・・
     ああいうことを見てますから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ・・ともかく、こういうことだけは、絶対やってはいかん!・・・・・・・と思いましたね。

ムツコ ほんとにね・・・・とにかく、それだけで私も・・・・・・・ここまで生き延びてると思う。
イズミ だから、ある意味、まだ不良少年的な要素もたくさん持ってはいましたけども、
     原爆の後、一瞬にして真面目になったという感じがあります。


        浦上天主堂


かよこ イズミさんは 戦争の影響が大きいですか。
イズミ 大きいです。 特に原爆が大きいです。
かよこ 伝次郎さんも、クリスチャンでしたよね?
     クリスチャンの人たちの中には、隠れキリシタンのたくさん集まっている浦上に
     原爆が落とされたのは、ある意味受け容れなければならない宿命だと
     そういう本を出された人もいます。
イズミ ああ、そうでしょうね。ある意味キリスト教でも マリア信仰か なにかは
     そういうふうに捉える人もいるんじゃないかな。
みちこ 浦上天主堂を原爆ドームとして、広島のように壊れたまま残そうという動きもあったんだけど、            逆に復興するようになったって 新聞に載ってましたよね。
かよこ そうなんです。この前 ジャーナリストの 高瀬毅さんの 話を聞きました。
     昭和33年頃に、長崎の 田川市長がアメリカに招かれて、数ヶ月外遊してるですよね。
     その前までは、桃太郎さんも写真に写されていた、原爆で壊れた天主堂の壁とか
     そのまま残そうと決まってたんですが、その市長が帰って来たら、
     突然「それは壊そう、そういうのを引きづっちゃいけない」みたいになって。
     そして、そういう大事なシンボリックな壁とか壊されたんですよ。
     でも、もしそれが今残ってたら、広島どころではなく、世界遺産に登録されるくらい、
     まあ別に登録されたからどうってことではないんですが、 
     そういう密約が水面下であったんじゃないかっていう話を、されました。
     (高瀬毅 『ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム』平凡社)
      アメリカとしては、浦上に原爆を落としたということを、ある意味では抹殺したかったと
     いうのがあるみたいですね。
るみこ 自分たちの宗教の元を隠したかったんじゃないでしょうかね。
ちえ  でも長崎に落としたのは 偶然なんでしょう? 雲が切れたから
みちこ 偶然なんだけども、信者たちはけっこう 自分たちがあがなわなければならない罪だと       受け止めちゃったから永井隆さんの本に書いてあった。(永井隆『長崎の鐘』
るみこ 課せられたものは受け容れなければならないって。
イズミ まあ、キリスト教には、罪を許すって一面がありますから。
     どっちがよかったんか 僕もよくわからんけどもね。
                                                                      
昭和25年頃 浦上天主堂 井手桃太郎 撮影
| 長崎8人兄妹物語 | 18:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
Comment
長崎8人兄妹物語を大変興味深く拝見させていただいています。
これだけの資料、叔父様、叔母様の証言をまとめられておられることは、大変な作業であり貴重な資料であると、ブログ管理人様の苦労と努力に敬意を表します。
多良(現太良町糸岐)は、私の故郷であり、糸岐川は、少年時代の遊び場でした。夏には、鮎を突いたり鰻を獲って遊んだ所です。井手伝次郎様と言う有名な写真家の方が終戦前後疎開されていたことを知り驚いています。すでに私の両親兄弟は故郷太良を離れ、私の記憶の中に存在する故郷になってしまいました。
ツサキ(津崎)氏の息子に写真技術を教えられたという記述を見て、私の小学校や中学校の卒業写真を撮って頂いていた津崎氏の事が分かりました。
当時私の父は、小学校教員をしておりもしかして「カワカミ モリオ」という教師を叔母様はご存知ではないかと思っております。また、私の14歳上の長兄は、叔母様と小学校の同級生ではないかと兄に問い合わせてところ、終戦当時疎開されていた処に女の子が居たことを覚えておりました。
文化果つるところ(笑)に日本的に有名な写真家が疎開されていたことを誇りに思います。また、叔父様が通われた鹿島中学(現鹿島高校)は、私の母校です。
長々としたコメントをいたしまして申し訳ございません。私は、定年を2年後に控えた三多摩・武蔵野に住む、憲法9条を愛し戦争を憎む一印刷労働者です。
2009/12/04 8:05 PM, from kawakami
かわかみさま、なんと嬉しいコメントをありがとうございます!
泉おじは、ヤンチャな弟たちの不用意な発言が地元の方の心象を悪くしないようにと、たくさんの赤字でチェックをくれましたが、「文化果つるところ多良」!と自分で言ってますね。(笑)すみません、失礼しました。当時です。
長崎人vs佐賀人対決は、はなわの
ギャグみたいで、東京もんには、すごく面白いのですが、鼻持ちならないところがあるかもしれませんね。
まあ!お父様が小学校の先生とは。
実はテツオが書いた響写真館の見取り図同様 佐賀県藤津郡多良村大字糸岐地区略図もあります。(笑)そのうち公開できるとよいのですが、なんせ膨大で。
14才上のお兄様は72才か73才でしょうか。だったら、この記事にも出てくる美夜(ミヤ)おばと一緒かもしれません。このブログ右側 長崎8人兄妹物語をクリックしてスクロールしていただくと、これまでの記事が読めるので、ミヤの記事を見てみてください。写真もあります。3つ下の妹の深雪は(生きてれば70才)新宮レイコさんと仲良しだったそうです。ネット社会でもなければ、一生辿れないご縁ですね。
お兄様にもよろしくお伝えください。おじおばたちが元気な時に、なんとか本にまとめられればと思っています。どうぞよろしく。
右側アマゾンから買える 日本国憲法前文も長崎の桑迫賢太郎くんの絵本でオススメです。
ありがとうございました。
2009/12/04 11:12 PM, from かんからかん









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