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長崎8人兄妹物語 次男 コウゾウ  

1月中旬、 イズミ叔父より、寒中見舞いが 届いた。
たくさんのガラス乾板を 写真技術の歴史的な資料として 活用できるようにしてくれたこと、
今の手法で 丁寧なプリントをしてくれたことに対して すごく喜んでくれていた。

最後に、例の インタビューの続編記事を 楽しみにしています。 と 結んであり・・・
あちゃ 待たれてる!・・・・・ と 焦った。(笑)

昨年10月の モモタロウの一周忌に、長崎8人兄妹の 次男コウゾウ 三男イズミ 四男キヨアキが
勢揃いして、貴重な インタビューをさせていただいた。
ところが、秋から 私が合唱祭と 発表会に追われていたので、テープ起しも 途中で 放ったままだった。

実は、コウゾウ伯父からも、
 昨年は色々と精神的な刺激をもらって、体調も生気を回復したようで ありがとう 
と 年賀状をいただいていた。 思い出マジック?(笑) 早く まとめなければ・・・

コウゾウさんは、兄弟の中で 唯一 戦時中 外地へ出征したためか、
兄弟の中でも 謎の多い人物らしい。
実は 私も ミユキ叔母の葬儀で初めて会って、 話をしたことはない。

「一度 コウゾウさんのお話 聞けないかなぁ。」とムツコ伯母(長男モモタロウの妻)に話していたら、
「コウゾウさんは、もうお年だし、出てくるのも大変だから ムリかもよ。」
と 言われた。 ところが、
「チコちゃん(私のこと)がみんなの話を 聞いてまとめてくれてるんですよ」と
 ムツコさんが 頼んでくれたらしく、「それなら行きましょう。」と 快諾してくださったそうだ。 

別の用事で 電話がかかってきた イズミ叔父にも、夫が
「チエが 話を聞きたがっているみたいで」と話してくれていたらしく、
私が 知らないうちに、3兄弟対決インタビューが お膳立てされていたのだった。


知られざるコウゾウ兄さん

チエ   私、母ナツキの話は、ほとんど聞いたことがなくて、母が死んでから、
     みなさんにこうしてお話を伺っているんです。
コウゾウ そうですか。
チエ   ナツキの話では、コウゾウ兄さんは、戦地に行って、よほどひどい目に遭ったのか、
     帰ってきたら、まったく口をきかなくなって、人が変わったようになったって。
     母親の梅子さんも とても 心配してたって 聞いたことがあります。
コウゾウ もう人間が変わりましたから。 そりゃあ 軍隊に入ったらね、
     変わらなくちゃ、やっていけないし。そりゃ もう 色々・・・ありました。
     そのうちまとめて 書いて、お送りしますよ。それを、好きなように脚色して書いてください。
チエ   わぁ、 ほんとですか。 うれしいなぁ。 ありがとうございます!
      え? これでインタビュー終わりか?? 笑



 ガラス乾板写真

チエ ムツコさんが、今年の春マンションの1階にあったものを整理されて、
  モモタロウが管理していた響写真館のガラスの乾板が ダンボール5箱出てきたんですよ。
   それをうちが譲り受けて、送ってもらったんです。
今ね、娘の知り合いの 
美術写真のタケミさんていう方に お願いして、
全部 何が写っているか 焼いてもらってるんです。


   なかなか 今 ガラス乾板焼ける人はいないと思うんですが、
   90才のお父さんが技術を知ってるから やってみたいと。
   1箱ができてきたんです。  ほら、これ。(写真見せる)

コウゾウ  わぁ なっつかしいなぁ。 
      ・・・・こんなん あったんやねぇ・・・・・・

チエ    モモタロウと コウゾウさんですよね。

コウゾウ  はあ〜 いやいや・・・ (なつかしそうに、写真を眺める)



 
チエ   響写真館の写真は、東京都の写真美術館に全部寄贈したんですけれども、
     今回は 初めて見る 家族の写真が多いですね。
イズミ (写真を細かく見て)わりあいよく焼いてますね。
     最近、ガラスから焼く人はなかなかいませんから、
     現代の技術にしては、なかなかよくできています。
チエ   よかった〜。イズミさん、写真に厳しいから、イズミさんにそう言っていただけたら、
     安心しました。 タケミさんも喜ぶと思います。
    

コウゾウ はあはあはあはあ・・・・
     これは・・・野口さんの家の庭で
     食事してるんだねぇ。
     
     はあはあはあ。
    (色々記憶が甦る様子)
     これは・・・(右手前?)
     長男のケンイチくんだ。
     長崎医大行った。 
     原爆で亡くなったんや・・・
     
     この人は 乳母だな。おふくろがからだが弱かったんでね。
     疎開も一緒に行ったはずです
チエ  梅子さん 弱かったんだ。

イズミ その写真の時のことは よく覚えてますよ。

(ほんとだ! 肩に手をあてて ひょうきんな顔してる子がイズミおじだね。
上の 記念写真の ぶっちょう面と大違い。笑)
(当時は、まだ どこの家にも カメラはないから、こんな何気ない家族スナップが残っているのは
 写真館という祖父の商売のおかげだ。) 

 
 学徒出陣で 歩兵に入隊




イズミ  これが コウゾウ兄さんが出征する
     時の写真です
チエ   わぁ この写真は見たことないなぁ。
     欲しい欲しい!
イズミ  これはコピーしてきました。
     差し上げます。
(几帳面なイズミさんは、この日のインタビューのために、資料を
たくさん携えてきてくださった。)

イズミ  僕は、写っていません。
チエ   あれ? ほんとだ。
     イズミさん写ってないよ。(笑)
イズミ  僕は、こういう 写真は
     逃げ回ってましたから。
     いつも 写ってないんです。   
チエ   アハハハハハ


コウゾウ これは、久留米の予備士官学校に入隊して、一日だけ帰ってきた時の写真ですね。
     (みんなの表情が 固いですね)
チエ   何才の時ですか? 何年になるのかな。
コウゾウ 僕は1922年 大正11年生まれですが、ええ〜昭和18年12月1日、
     21才で、学徒出陣で久留米の予備士官学校に入り、長崎県大村市の
     陸軍歩兵第47連隊に入隊しました。
     歩兵は実践の核部隊デス。
もう南方に出払ってましたから、留守部隊に入隊したわけです。

イズミ  ナツキさんが、たぶん活水の1年くらいの時です。
チエ   セーラ服 着てますね。
     そうすると、コウゾウさんが一番最初に、出征したってことですね。
     モモタロウは、戦争に行きたくなくて、活水の教員になって、
     徴兵免除を受けてたって言ってましたから。
コウゾウ そうです。

※法事から 1週間ほどで、コウゾウ伯父が 約束どおり 出征時の記録を書いて送ってくださった。
ノート裏表12枚びっしり! 貴重な記録だ。
インタビューは 法事の会席だったので、聞き取れないことも多く、ありがたい。
緑字で コウゾウさんの記録を はさむ。
 

 体を鍛えてオケ

私は中学1年で、方丈記の厭世にあこがれたクセに、全く矛盾した行動をしていました。
風雲急だから、明治大学予科に入学すると、柔道部に入り、体をキタえました。






  ※コウゾウは、長崎中学を卒業すると、長男モモタロウと同じ
   東京世田谷上野毛の多摩帝国美術学校(現多摩美大学)に
   遊学するが、美術は合わなかったのか、
   明治大学経済学科に 転入する。
   東京桜田門の前の親戚の家に、
   モモタロウと下宿していたという。
   (写真は 長崎中学の制服。左コウゾウ 右モモタロウ)


これに平行して、千葉の内原訓練所で一ヶ月、満蒙開拓団とともに体をキタえ、
新潟の飛行場を作るために森林を開墾し、その他の地下壕掘削に参加しました。
「その日のために、体を鍛えてオケ」です。とにかく戦争ですからネ。
大学でも先輩や教授で戦地を知った人から聞いていたから、生き残ったら勉強するとして、
とにかく生き残るため体を鍛えてオケです。

それとムダなことに精力を失わないため、アラカジメ 軍人勅諭や 歩兵操典、 戦障訓などを
完全に暗記しました。
他の人は、これの暗記に 四苦八苦していました。
私は 歩兵の本領を 要領よくマスターしたわけです。


  出征  

チエ   最初の出征はどこですか?
コウゾウ 最初に行ったのはフィリピンのマニラです。

 昭和19年10月10日 下関を深夜に出航しました。
敵の潜水艦を避けて、九州部海岸をジグザグ航行。
3日後 早朝、敵の潜水艦を避けて 佐世保港に停泊。

朝霧の彼方には佐世保市が見えるので、母方のイトコたちや祖母を偲んでいると、
長崎にいる家族への想いに我を忘れ、あのときほど 軍歌を心底から歌ったことはありません。

  ああ 堂々の輸送船 さらば祖国よ 栄えあれ
  ちぎれるほどに振った旗 遠い雲間に また浮かぶ


その歌のとおり、桟橋のはるか下方に 漁船の人たちが 小旗を振って通りすぎました。


  フィリピン・マニラへの 最後の船団

こんな感傷にひたれたのも 束の間。
それから3日間、台湾の高尾港を出て バシー海峡に かかるまでのこと。

3日目の夜8時すぎ頃、敵潜水艦魚雷攻撃が始まった。
瞬時にして ドンドンバカンバカン、ドンパン、ドンパンである。
火柱が闇を コウコウと照らす中を、12隻の船団は チリジリバラバラに 悲鳴をあげて逃げ回った。

翌朝わかったことは、7隻は海のモクズとなってしまったこと。
1万5千人が犠牲になったこと。
おそらくは、この船団が、 フィリピン・マニラへの 最後の船団だったのではないだろうか。


                 
  マニラ → スマラン → シンガポール


マニラでは、シンガポール行きの
 船便を待っていました。 
その間、 あっちこっちの高射砲陣地の雑務を
手伝わされました。
砲の操作などは出来ないが、
弾丸の移動や 整備など。
弾丸庫を分散するのです。
マニラは 毎日どこかの市街が 米軍の空襲を受けました。


フィリピンで半月。
それから ジャワ島の スマランに 移りました。
スマラン事件という 日本軍とインドネシア民衆の 衝突事件が あったところです。

そこから シンガポール。マレー半島を クアラルンプール。
インパールを目指して ずっと上がって行ったけれども、
もうその時はすでに、本隊は撤退を始めていました。

                        (図版は 半藤一利 昭和史より 太平洋戦争図)



  天皇の統帥権

日本軍の構成は 天皇の統帥権は、具体的には連隊長に直結して、

天皇 → 連隊長 → 大隊長 → 中隊長 → 小隊長 に与えられて 一貫します。

他部隊の長も、特に前線では 命令することは 出来ません。
もちろん 山中で出会えば、敬礼はせねばならないが、他部隊の長に 命令されることはないのです。
他部隊の 迷子の兵がいたとしても、余裕がなければ 捨てたものです。

小隊は ふつう4個の分隊に分かれるが、内務班として統一されています。
内務班長は、最古参の 下士官がなる。
朝晩の 点呼をして、隊員の数を 点検して、週番士官に報告するのです。 
脱走兵や 事故兵を 把握せねば、戦争はデキナイからです。

連隊長は、天皇から 連隊旗を 手渡されて、
 連隊旗を (天皇の自称)と思え
と しつけられていました。

だから 我々も地球の果てまでも 本隊を追って 追求せねば具体的な軍人とならなかったのデス。
一緒でなくては戦争のしようがないから。
軍隊は、不合理が 本質なので 今さら 悪口を言っても話にならないからヤメます。


ビルマ インパール作戦 烈 師団

コウゾウ 私の本隊は 日支事変のはじまりから、北支(北支那=中国)、中支、南支に転戦していたので、
     私は 留守部隊に入隊しました。
     本隊は、 師団 と言って、ビルマ戦線、インパール戦線に行ってました。
     それは、もう大変な戦線です。
チエ   ええ?! 根本の父も、インパールに行ってたんです。
     (夫に) コウゾウさんも、インパールなんだって!
ネモト  うちの父は、野戦重砲兵 18連隊だったと思います。
     4000メートルの山を、大砲を引っ張りながら歩いて登ったらしいです。
コウゾウ アラカン山脈ね。
ネモト  父は 副官をやっていたので、撤退の指揮を 執っていました。
コウゾウ 菊師団ですか?
ネモト  弓師団でした。インパールの手前まで行ったようなんですけれども、
     アラカン山脈を下りたあたりで、 退却になったようです。
     部隊で生きて帰れた方が、300人か400人ぐらいいて、父が副官だったので、
     戦後は 父が戦友会のような集まりの幹事をやって、お知らせを毎年出していました。

コウゾウ 僕らは、本隊の追求で クアラルンプールまで行ったんですけれども、もう行かれへん。
     もう一つ 援将(中国の蒋介石を助ける)ルートを、分断する部隊がありました。
     それが 断作戦 です。
ネモト  断作戦の方に参加されたんですか?
コウゾウ いや、そこまでも 僕らは行ってないんです。 もう、行かれへん。
ネモト  あれもすごい激戦だったみたいですよね。
コウゾウ もう、ひどいですよ。あちこち もうバラバラですよ、師団も何も。(声が昂奮する)
     士官もいなくて、もうバラバラになってしまって 収拾つかんようになって。
      だから、もうみんな孤立してましたよ。 だから援蒋ルートの 断作戦の部隊は、全滅ですよね。
     あれを小説に書いた人が古山高麗雄の『断作戦』(文春文庫)ですね。

(※ インパール作戦は、補給を断たれた中での無謀な作戦に、飢えてどんどん死んでゆく兵隊、死体にむらがるネズミ、山のように置き捨てられた死体をネズミが食い、目の玉をかじる。負傷兵の上を、イギリス・インド連合軍の戦車がばく進してゆくことも知っていながら、作戦中止されなかった。戦死3万500人。傷ついた人あるいは病気で倒れた人4万2千人。インパール作戦の1つ拉孟騰越も玉砕で戦死2万9千人 生還1人。 インパール街道は、白骨街道と呼ばれた。 半藤一利 『昭和史』)

コウゾウ ああ。まあ生きて帰れたのが奇跡ですよ。
チエ   そうですよねぇ・・・・ 
コウゾウ ほんとに運だけですよ。 一番最後はね、8月の敗戦まで、南方軍野戦補充司令部要員として、
     シンガポールを通過するすべての部隊や 原隊追求の個人や小部隊を、原簿に照合して、
     行き先別に編成し、前線から要求あり次第(つまり欠員が生じた時)
     直ちに輸送便(船舶、飛行機、列車など)を作って直行する命令書を作る事務をしてました。
     「おまえはあっちへ行け」「こっちへ行け」と舟で送るんです。
      兵站基地の任務の多いこと多いこと!
チエ  そうなんだ。それって能力に関係なく「おまえ あっち行け」みたいなことですか?
コンゾウ  一応手帳があって、砲兵だとか将兵だとか 分けるんですが、
      もうその頃は人数をそろえるだけで。 人数がそろわんと部隊としてかっこつかんからね。

  ラッフルズホテル

コウゾウ シンガポールにはラッフルズホテルというのがあってね。
チエ   ラッフルズホテル  聞いたことあるなぁ・・・・あ、村上龍の小説だ・・・
コウゾウ 最高のホテルですよ。 そこに将校連中ばっかりが入ってるんですよ。

(ラッフルズホテルは一時日本軍の将校の 宿泊所に接収し、昭南館という名前に変えていたらしい)
コウゾウ  将校が300人ぐらい入ってましたけどね、全部原隊を追求していく連中です。
      僕は 内地から来た部隊を そこで 全部処理していたんです。

  手紙

コウゾウ  一番最後になって おもしろいのは、天皇の命令(玉音放送)で、敗戦になった。
      そしたら、南方軍の言動を押さえにゃあかんわけですよ。
      だから、この時に、皇族を全部使者にしてね、みんな言うこときかへんから、
      フィリピンから ジャワから全部に派遣したんですよ。
      東久爾宮(ヒガシクニノミヤ)の息子だったかが、視察で来たわけですわ。
      その時にね、東久爾宮若宮殿下について来たパイロットが、やはり学徒出身でね、
      ラッフルズホテルに泊まったんですよ。
      あ、これはいいと思って、内地に帰ったら、
     「僕は生きてるから! って」長崎の響写真館に届けてくれって、
      住所も書いて手紙を託しました。
チエ   へえ、その手紙は、伝次郎や 梅子さんに届いたんですか?
コウゾウ そうそうそう、届いたようです。 
チエ   嬉しかったでしょうねぇ。梅子さん・・・・  

  運転手つき  

イズミ  コウゾウ兄さんの話は、僕たちも誰も知らんのですよ。
チエ   ははぁ、みんな誰も知らないの?
コウゾウ 知りませんよっ!
ネモト  父も戦争中の話は ほとんどしませんでした。やはり・・・ 話せないのでしょうね。
イズミ  だから こうやって 聞き出して、まとめてくださる作業は、大変貴重です。感謝します。
チエ   アハハ ありがとうございます。

チエ   モモタロウ伯父は、亡くなる数年前に、初めてコウゾウさんの話聞いたって言ってましたよ。
     コウゾウは、シンガポールでは、タクシーの運転手がついて、いい暮らしをしてたらしいって。
コウゾウ ええ、シンガポールでは 幸運なことに、補充司令部が 
     野戦輸送司令部と 同じ兵営にあったために、 移動は常に 自動車だったのです。
     私達は常に、重装備の 戦闘態勢で 行動せねばならなかったので、
     引率した部下に多少の犠牲者も出ました。
     私が歩兵科将校でも、歩かせていたのでは仕事になるまい、と
     それほど どこの部隊にも 下級将校(少尉)が不足していたんですね。
     学徒動員の下級将校は、 消耗品にすぎなかったのです。
 

 ラングーンへ 急行せよ

 そうこうしているうちに、ついに私にも ラングーン司令部に 急行せよと命令が下りました。
(ラングーンは ビルマ 今のミャンマーの ヤンゴン)

 その頃は ビルマの 菊部隊や 烈部隊、竜部隊 などすべてがインパール作戦で 完全に 敗れて、
 ナダレを打って 退却中でした。
退却中でも、その小隊の 少尉殿が死んだら、補充せねばならないのが 天皇の 統帥権の本質です。
それで 私は 退却中の本隊に参加するべく、ラングーンへ 向かったのです。
   

 最後の幸運

そしてついに 最後の 私の幸運に めぐり遭う。 敗戦である。

クアラルンプールからシンガポールに引き返して 命拾いしたのも 天皇の命令だった。
ナントナント!!
南海の果てに 誰か 故郷を 想わざる!
誰が 我が生を 想わざる!

私は ラッフルズホテルに 投宿した時ほど、
大木敦夫の あの詩の情感に涙したことは なかった。

    言うなかれ、君よ、別れを/ 世の常を、また生き死にを/
海ばらのはるけき果てに/ 今や、はた何をか言わん/
  熱き血を捧ぐるものの/ 大いなる胸を叩けよ/
    満月を盃(はい)にくだきて/ 暫し、ただ酔いて勢(きほ)へよ/
    わが征くはバタビヤの街/ 君はよくバンドンを突け/
   この夕べ相離(さか)るとも/かがやかし南十字を/ いつの夜か、また共に見ん/
    言うなかれ、君よ、わかれを/ 
    見よ、空と水うつところ/ 黙々と雲は行き雲はゆけるを/

敗戦の1時間前に死んだ 戦友達の無念を いかんせん!
 

  恋飯島に 島流し

チエ   終戦になって どれくらい帰れなかったんですか?
コウゾウ 1年くらいですかね。
     私たちは、敗戦後は、シンガポールの港外にある レンパン島という 無人島に島流しですョ。
第一次世界大戦の時、そこにドイツ軍の捕虜が押し込められた無人島で、
     大半が餓死したと言われていたので、私たちは 憂鬱の極みでした。
     
     レンバン島は 「恋飯島」 実にうまい表現でしょ?
     メシがコイシイ、コイシイと 敗残兵は 泣きました。
     しかし木の芽や野草、トカゲ、カタツムリ、バッタなどばかりでは、これはたまらん。
     メシがコイシイコイシイとイギリス軍に泣きついた参謀達の努力で、半年くらいすると、
     米軍の戦時食糧を 1食分を 3食分として与えられて 助かりました。

     ロシアは自分らが食べるだけの労働力を 捻出するため、日本軍をシベリアに抑留し、
     強制労働をさせました。 コハイコハイ!

 それに比べるとイギリス軍は頭いいからね、無人島を我々に開拓させたんです。
僕が 復員する頃は、道路もでき、マレー半島のように、ゴム林やヤシ林も整い、
病院も桟橋つきの波止場も完成しました。
マングローブを切り開いて、どうにか島によじ登った最初の苦労は 夢の夢であった。

     
  復員

私に関する限りは、軍隊ボケ、南方ボケ、敗戦ボケの三重症に 陥ってしまった。
カンタンに言うと、非人間症である。
「方丈記」の 無常感、虚脱感の 復活である。
命拾いしたものの、さあ日本に戻って頑張る という 元気も なかった。



  再会 

チエ  コウゾウさんは、何年に 日本に帰れたのですか?
コウゾウ 21年の 暖かくなってたから やはり9月か10だったか・・
     名古屋に 上陸したんですが、長崎は 新型爆弾にやられたというだけで
     まったく情報がわからなかったんです。 だから ともかく 長崎へ
     片淵の響写真館に 行きました。
チエ   井手家は 響写真館を閉めて 佐賀県太良に疎開したって 知らなかったんですね。
コウゾウ 知りませんでした。
     響写真館は、政府の 木炭事務所か何かになっていて、そこの人が
     あんたの妹さんが 活水女子学院にいるはずやからって 教えてくれて。
チエ   じゃあ ナツキは 活水に戻ってたんですね?
コウゾウ すぐ行きましたよ。井手先生の弟さんが 帰ってきた!って 学校中が大騒ぎになって。
(モモタロウが 活水の教員に戻り、ナツキと2人で 職員宿舎に住んでいた)
チエ   モモタロウも ナツキも どんなに 嬉しかったでしょうねぇ!
                                (つづく)





   

   
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