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長崎8人兄妹物語 同級生ムツコと 長崎 活水女学院 を歩く

今年の3月、大阪にいる伯母ムツコと 佐世保、長崎、由布院を旅した。
昨年秋に 夫のモモタロウに先立たれ、独りになってしまったムツコ伯母に、長崎8人兄妹物語の取材を兼ねて、長崎を案内してもらったのだ。飛行機に乗るのも、長崎を訪れるのも 私は18年ぶり。
夫と京都にいる息子と、ねもとパーティのお母さんミチコちゃんも同行の 珍道中だった。

長崎8人兄妹の 長兄モモタロウの 妻ムツコは、私の母ナツキの活水女学院の同級生。 昭和2年生まれの80才。 ムツコは、兵庫尼崎市の生まれだが、父親の転勤で、長崎に来たのは15才。大分臼杵市の女学校から、活水女学校3年に転入した。戦時中、徴用を逃れるために、一時 活水女学校の美術の教師として赴任していたモモタロウと生徒のムツコが 後に結婚した。その経緯はまだ詳しく聞いてないので、今後のお楽しみだ。

雨まじりのオランダ坂を上る。
ツタのからまる左手の階段が 活水女学院(現活水女子大)の入口だ。
ムツコさんが卒業生として、見学を申し込んでくれてあったので、学内にも入ることができた。



活水学院は、1879年、アメリカ人メソジスト宣教師エリザベス・ラッセルにより「女子に最高水準の教育を」 という志のもと女学校として創立された ミッション・スクール。

洋館が取り囲む中庭は、私にもなつかしい気がした。
私が長崎を訪れるのは3度目だが、私が小学生の時も、3人の子どもを連れて来た時も、案内してくれた母が、活水に 私たちを連れてきたからだ。 写真館だった片淵の生家も、墓も、長崎にはなくなってしまった母にとって、この母校がいつ来ても変わらない、帰る場所だったのかもしれない。
   
「ああ、このクスの木!」ムツコさんは、中庭の大きなクスの木に抱きつくようにして、木肌をなで回し、なつかしい兄妹に再会した時のように、
再会を喜んだ。 「このクスの木がねぇ・・・」

少女たちは、この木に抱かれて、なんの話をしていたのだろうか。
 
中庭から、左手に校舎の外をまわる。
  ── わぁ、海が見える! 学校から海が見える
     んだ〜!
    (建物と木の間に海が見える。これまで、気づかなかった。) 
ムツコ  崖のすぐ下に一列 町があってね、その先に領事館とかが
     あって、その先は海。裏に回れば全部海が見えた。
         (白黒写真は 学内に貼ってあった、かつての長崎湾)


ムツコ  この建物がね、一番古いの。(左上の写真の棟)
     一番上の階の小さい部屋が音楽室。1部屋1部屋にピアノがあった。
     今は、音楽科は別のところへ移転してるみたい。
     それから、その上に見える出窓が 祈祷室。まじめな子たちは、みんなお祈りする。(笑)
     海側の 窓はね、みんなブラインドを閉めて、窓を開けちゃいけなかったの。
 ──  ああ、造船所で戦艦ムサシを作ってたからでしょう? 
     『15才のナガサキ・原爆』渡辺浩 岩波ジュニア文庫 に書いてあった。
ムツコ  そう。

ちょうど、この高台から、右手(白黒写真の建物の向こう)に稲佐山があり、その下が三菱造船所。しゅろで作られた大きなカーテンで隠されていた、世界に無敵の?戦艦・武蔵が、極秘で作られていく様子は、長崎湾を取り囲む小高い丘からは、どこからでも見えたはずだ。

ムツコ  小さい学校だ。英文科と家政科と音楽科が1クラスづつ。 音楽科なんて10人もいなかった。
  ── そうなんだってねぇ。タエ子さんが言ってた。
ムツコ  だって、どこの家にもピアノがある時代じゃないもの!
  ──  そうだよねぇ。
ムツコ  あと女学校が一緒だったけどね。
  ──  みんなクリスチャン?
ムツコ  いやいや、当時も2割もいないんじゃないかな。いいとこのお嬢さんが多い。
     英文科は、けっこう遠くから来る子が多かった。寮に入ってね。
     音楽科も鹿児島とかから来てる人もいたわね。
     家政科は、近所のお嬢さんたちが多かったけどね。、(ムツコさんは家政科)
 ──  花嫁修業。
ムツコ  そう。でも西洋式のお作法とか洋裁とかきちんと教えてくれたから、今の家政科より、けっこう
     いいかもしれないね。
 ──  そうかもね。その後、職業婦人になった方も多いでしょう? 

ムツコ  ここがね、おいちゃんたち若い先生が3人、
     閉じこめられていた職員室。(笑)

ムツコさんは、窓枠をなでて、秘密を話すように 小声で言った。
みんな戦地に駆り出されて、周りに若い男性はほとんどいない中で、
若い男性教師に胸ときめかせてこの部屋を見上げた女学生たちが、
何人いたことだろう。

ムツコ うん、もう、男の人はみんな戦争行っちゃって、おじいさんの先生しか残ってなかったからね。
    だから、(モモタロウは)モテただけだよ。 フフフ


校舎の中も見学する。 中に入るのは、初めてだ。 石造りで、壁と床の間がきれいにカーブしていたり、木の柱に細かく、彫りが入っていたりして、細かい建築の意匠に、感動する。


ムツコ  ここが大チャペル。 毎朝!(力をこめて言う)ここで 全員で 礼拝があるの。 
     でも、ナツキはそれに間にあったことがない。
 ──  キャハハハハ(爆笑)
ムツコ  そう、いつも、教室から、クラスごとに みんなでシズシズと 廊下を歩いて チャペルに入る
     だけど、ナツキは、そんなのに間に合ったことない。 後から 一人で教室の入り口にバアっと
     自分の上着を 投げ入れて、一番最後にダッダッダダァって階段を駆け上がってきた。(笑)
 ──  キャハハハハ なんか、映画みたいだなぁ(笑)
    (サウンドオブミュージックのマリアが、修道院の礼拝に遅れて駆け込んでくるシーンが浮かぶ)
     アハハハハ だっから、神様から見放されてるんだわぁ〜。(笑)笑っちゃうねぇ。
    (幼なじみタエ子さんの話にも、軍需工場に行くのに朝寝坊で、なかなか起きなかった話があった)
ムツコ それでね、先生が、「イデさん、どうしてですか。どうして毎朝遅れるんですか」って聞くとね、
   「妹たちが、後追いするもんで・・・」って言ったんだって。
 ──  えええええ?(爆笑) 
ムツコ それで先生が「でも、お母様がいらっしゃるでしょう? お手伝いの方もいらっしゃるでしょう?」
    って言うと、「ええ。でも 私じゃなきゃダメだって泣くんです」って。
 ──  もう〜! キャハハハハ、うそ八百だぁ〜!(笑)スミマセンねぇ。先生方。(懺悔)

こちらは、小チャペル。専門部ごとの礼拝とかに使われたらしい。イスのカーブや、柱の彫刻がすばらしい。息子がピアノを たどたど 叩く音が 響く。

ムツコ 戦争中は、よその学校(県立)に居候して、お世話になってた。学徒動員になっ    てからは、まっすぐ家や寮から、工場へ通うわけだから、学校は からだの悪い    人しかいない。
(ムツコさんたち家政科は、毎日 船で 香焼島の軍需工場へ。 母ナツキや、幼なじみタエコさん 英文科、音楽科は、大橋の三菱兵器工場へ、学徒動員されていた。詳しくは、下の記事を見てください。)
 
 ── 17才のおばちゃんたちにとって、
    一番息苦しかったことは何だった?

ムツコ うーん、なんだろう・・・・・・・(考え込む)・・・・・・・
 ── 活水の先生たちも・・・キリスト教の学校でも・・・
    すごい軍国主義になっていったんですか?
ムツコ 結局そうじゃないと成り立たないからねぇ。

ムツコ その当時は、海軍大学なんていうのが日本にあったわけよね。そういうとこから、やはり
    クリスチャンの人が校長になって来てた。そういう人を置かないと、ダメだったんだわねぇ。
    戦中は 校長の言うなりだったけど、戦後は、活水本来のもともといたクリスャンの女の先生たち
    と、戦時に外部から来た男の先生たちの間で、かなり揉めたみたいよ。
    戦時中に来た先生の中にも、いい先生もいたんだけどね。
── キリスト教の 平和主義みたいな思想が 貫かれたんですか?
ムツコ  ほとんどが、活水の卒業生が先生になってる小さい学校だからね、
    クリスチャンの先生はお祈りさえしてればいいみたいなところがあって、
    甘っちょろい面もあったって、おいちゃん(モモタロウ)は言ってたわね。
    男の先生たちが、お酒飲んで、騒いだことがあって、おばあちゃんの先生
    から「反省して、お祈りしてください!」って注意されたりしたこともあった
    らしい。(笑)
 ── そうなんだ。(笑)良妻賢母教育 みたいなのは なかったの?
ムツコ うーん、それはなかったけれど、だんだんだんだん先生たちも兵隊に
    行くし、第一お祈りが変わって来たわね。「戦地に行った皇軍の武運をお祈りしましょう」
     っていう言葉を入れなければ、礼拝が成り立たなかったんでしょうねぇ。
 ── そうなんだ。でも、お祈りするのは、自然な気持ちだものねぇ。
ムツコ でも、あまりに軍国的なやり方が急に入って来たからねぇ。私のように、よそから転校してきた者
    には、「へえぇ、今頃、まだこんな生ぬるいことでいいのか」って思うくらい、当時としては
    それほどひどくもなかったように思ったけどね。

ムツコ おいちゃん(モモタロウ)なんかは、下っ端の教員だけど、戦後、
    職員室が2つに分かれた時は・・・、
 ── 2つに分かれたんだ!
ムツコ そう。ナツキがいた英文科なんかは、戦後職員室も2つに
    分かれたのよ。活水育ちの生粋のクリスチャンの先生と戦時中に
    外部から来た先生たちとでね。生徒も分かれちゃってね、
    この先生はイヤ! あの先生はイヤって。
ナツキさんは要領が良すぎて、こっちの先生にも、あっちの先生にも着いちゃうわけよ。 
 ── アハハハハハ ナツキって要領がよかったの? そう思ったことないけどなぁ。(笑)
ムツコ 要領がいいって言うか、それほど作為はないんだろうけどね。 みんな若いからね、パーっと2つ
    に分かれちゃったのよ。でもナツキはそれをやらない人だったから。けっこう疑われたわね。
    「なによ、この人、両股かけちゃって」って。
── ふうううん。ナツキは、アメリカ式の、アメリカ人の先生方がすごく自由主義
    でよかったって書いてたよ。でも、戦争がひどくなるにつれて、だんだん、
    みんなアメリカに帰っちゃったって。
ムツコ そう。よかったのよ。それから、もう戦時色がば〜っと入ってね。まともな
    こどもたちも面食らったんだけど。  
 ── じゃあ、生徒の側の抵抗も大きかったよねぇ。他の学校より、直接
    アメリカ人に習ってたんだから、個人的な結びつきが強いよねぇ。
ムツコ 今、鹿児島にいるKさんていう人とナツキは仲良かったんだけれども、
    Kさんは絶対 旧体制派でね。
    ナツキさんとやり合ったりしてたのよ。あっちの先生は断固イヤだって、強行だったけど、
    ナツキさんは、要領がいいからね、どっちにも仲良くして、けっこうみんなからやられたのよ。
 ── アハハ。そういうところ、私、似てるかもしれないなぁ。(笑)

── でも、そういう学校ですらも、みんな軍国少女になっていくんだねぇ。
ムツコ そういう時代だったからねぇ。でも、ごくわずかな牧師さんとかは、抵抗してらしたけどね。

ムツコ  ここが、祈祷室。
一度、若い男の先生が、この上の屋根に上ってね、旗かなんか振って、大騒ぎになったことがあったよ。(笑)



ムツコ それから、おいちゃん(モモタロウ)が 出征する時、 この部屋で、みんなに挨拶したの。
    「出征より 何より 私は、今日の挨拶が 気がかりでして・・・・」
     とか うつむいて言ってた。(笑)
 ── アハハハハ モモさんらしい〜!
    モモさん、家ではけっこうしゃべるのに、それで、なんで先生になったんだろう。(笑)
ムツコ  そりゃぁ、戦争に行きたくないからよ。(笑)           (写真撮影N・N氏)

                              

☆長崎8人兄妹物語 関連記事

モモタロウとムツコ  http://kankarakan.jugem.jp/?day=20070815

幼なじみ タエ子   http://kankarakan.jugem.jp/?day=20080418
| 長崎8人兄妹物語 | 23:00 | comments(2) | trackbacks(1) |
Comment
長崎8人兄妹物語、愛読してます。掲載ありがとうございます。明日から長崎に出張します。時間ないから活水女子大見に行けないのが残念ですが、(おじさんがひとりで行くと挙動不審者と思われるか)60年ぐらい前のことを現地で想像してきます。
2008/06/16 9:28 AM, from zensei
長崎は明日も雨だった〜♪みたいですよ、ホントに(笑)海の見える小さな町です。海を見て育った人と、そうでない人は、違う人種になるなぁ〜 と痛感した 旅でした。
2008/06/16 9:23 PM, from かんからかん









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