<< おばんの子に育てられ 放し飼いとエネルギー放出 | main | 長崎8人兄妹物語 幼なじみ タエ子 その2 >>

長崎8人兄妹物語 幼なじみ タエ子 その1

「長崎8人兄妹物語」は、私の母の兄妹たちの聞き書きで、どこにでもある家族の肖像だが、意外に続きを希望する読者が多かった。この春、母の友人、長崎の従姉妹に話を聞くことができたので、少しずつ紹介していこうと思う。

3月12日、母夏木の長崎からの友人タエ子さんを世田谷の自宅にお訪ねした。母と同級生で、昭和2年生まれの80才。グランドピアノのあるマンションに、今はお独りで暮らしている。あの時代に幼稚園から母と一緒で、東京に出てきたのもタエ子さんを頼って上京したという。母のお見舞いに来てくださった時に初めてそのことを聞き、是非インタビューしたいと思っていた。体調を崩されていたというので、短時間のつもりが、会うなり箇条書きのメモを渡され、幼稚園時代からにしますか? 上京時代? サギ事件のことは聞いてる?(聞いてない!) と嬉喜として、順序整然と 話してくださった。

幼稚園

タエ子  あなたが夏木さんから色々聞いてることもあるだろうから、そこは抜かして。
 ──  いえ、私、母に何も聞いたことがないんです。タエ子さんは幼稚園から夏木と一緒だったとか?
タエ子  そうですよ。(断固として)
 ──  アッハハ 何幼稚園?
タエ子  桜ヶ丘幼稚園って言ったかしら・・長崎県立師範学校の附属幼稚園です。
 ──  へえ、師範学校の附属幼稚園なんてあるんだ。そこに入る前から友だちだったんですか?
タエ子  いえいえ、覚えがないけど(笑)たぶん幼稚園でお友だちになったと思うんですけど。
     そこへ行って、もう2人でね(思い出して急に子どものように笑い出す)夏木さんの家は片淵という
     ところにあってね、私の家は立山といって諏訪神社の向こう方にあったんですね。
 ──  え? じゃあ、けっこう遠いですね、幼稚園生にとっては。
タエ子  わたくしのところからはけっこう遠かったのよ。ですから行きはね、わたくしの姉が附属の小学校
     に通ってましたから連れて行ってくれたのね。で、帰りは、よくお手伝いの人が迎えにも来てくれ
     ましたし、迎えがないときは、よくあなたのお母様がね、まずあなたのお母様の家に行くのよ。
     それで、まず一遊びしてね(笑)今度は私の家にお母様がついてきて、またうちで遊ぶのよ。
    (吹き出して笑いころげる)ホホホホ    
 ──  アハハハハ
タエ子  それで帰ることもあるけれども、また私が途中までついて行ったりして(笑)
     そういうことくり返してたのよ!(大笑)
 ──  じゃあ、気が合ったんですね。
タエ子 ・・・で、しょうねぇ。
 ──  アハハハハ でも幼稚園から一緒ってすごいですよねぇ(笑)

運動会

タエ子  幼稚園の頃で覚えてるのがね、私はひも結びがあんまりうまくできなかったのよ。そしたらね、
     幼稚園で運動会があったの。(楽しそうに思い出す)そしたらね、途中で折り紙に毛糸をつけて
     おいて、こう綱を張り渡しておいて、それにその折り紙を毛糸のひもで結んでから走っていく
     という競争があったんですよ。
 ── へええええ?(笑)
タエ子 そしたら、その綱までは行ったんですけれども、私が毛糸のひもをうまく結べないのよ。
    それで困ってたらね、お母様が結んで、もう向こうまで走ってたのに、ひょいと後ろを振り向いたら、
   私がまだモソモソしてたのを見て、戻って来たのよ!(大笑い)
 ── アハハハハハ 結んでくれたの?
タエ子 (笑いころげながら) こうするのよ、こうするのよって教えてくれてね、それで一緒に走ってくれ
    てね。(笑)人がいいのよ〜、そういうとこ(笑)1等になろうとか、そういう気が、まったくなかった
    んでしょうねぇ。もう、私、あの時のこと忘れられない(笑)
 ── アハハハハハ おかしい〜。幼稚園の記憶がそんなに鮮明にあるってすごいなぁ。

小学校

タエ子  幼稚園の年長さんになった時に、ちょうど姉も小学校が終わって活水(女学校)に入ったわけで
     すよ。そうすると、私を連れて行く人がいなくなってしまったわけね。もう年長ですから一人で歩い
     て行けるんですが、行きはよくお手伝いの人がついてきてくれました。
 ──  今はみな幼稚園バスが送り迎えですけどね。幼稚園に行くのも珍しかったでしょ? その頃は。
タエ子  そうです。ところが、年長の時、私が自転車と衝突して(笑)事故起こしたんです。
 ──  えええ? アハハハハハ
タエ子  そしたら、私の父が心配しましてねぇ。それともう一つ、附属小学校が大橋の方へ移るという話が
     出たんですね。大橋というと、浦上の方の爆心地になったところですが
 ──  そうそう、そこの大橋工場にいたんですよね。
タエ子 そうそうそうそう、そっちの方へまでは電車でなければとても行けません、遠くてね。そそっかしく
   て、自転車とぶつかるくらいだから(笑)近くの小学校に行けと父に言われて。それで小学校では
    夏木さんと別れたんです。
 ──  ああ、なるほど。じゃあ、その6年間は別なんですね?
タエ子 別です。お母様の方は、そのまま附属小学校に進まれて、私は近くの勝山小学校に行きました。
    長崎で一番大きい小学校だったです。
 ── 別の小学校になっても遊んでましたか?
タエ子  それがねぇ、もう地域のお友だちがそのへんいっぱいいるもんですからね。実を言えば・・(笑)
    忘れ果ててた。(笑)
 ── アハハハハ
タエ子 そ、そしたらね(笑いながら)あれは何年生の時だったかなぁ、突然ヒョロっと、夏木さんがね
    (笑い出す)うちの玄関に現れたのよ! 覚えててくだすってね。それは、もう私も見れば思い出し
    ますよね。その時は、たぶん遊んだと思うけどね。まあ、その時1回きりだったと思いますね。
 ── ああ、そうなんだぁ。

活水女学校

タエ子 そしたら、今度ね、活水に入る時、推薦制度っていうのがありましてね、
 ── そのころから推薦なんてあったんですか
タエ子 活水は何人か推薦で取るんですよ。 そしてその 活水の推薦試験に行ったらね(嬉しそうに)
    バッタリ! 夏木さんとあなた方のおばあちゃまと会ったわけですよ。
 ── 梅子さんと?
タエ子 そう 梅さんと。そしてうちの母も知ってるわけでしょ。 「まあ〜!」ってことで。 それからは、
    ずっと一緒なんですよ。(笑)
 ── 活水は、今で言うと高校ですか? 中学?
タエ子 いや、そのころは高等女学校ですね。5年制です。中学というのは、その頃は男子校です。
 ── じゃあ小学校6年卒業した後に、もう活水なんですね。
タエ子 そうです。女学校か中学校かに男女分かれていくわけですね。男女とも4年と5年とありましてね。
    県立は4年、活水は5年、男子校は5年でしたね。

活水専門部 英文科 と 音楽科

 ── 活水は、入る時点で音楽科とかに分かれるんですか?
タエ子 いえいえ高等女学校は普通の女学校ですよ。それで5年制だったんですけど、ホラ、ちょうど
    3年生の頃から太平洋戦争が始まりましてね、文部省が学制を色々いじくったわけですね。
    それで、今度は学徒動員と言ってね、男子の生徒を早く兵隊さんに取りたいわけですよ。
    だから、1年ずつ繰り上げたのね。あの頃は女子教育としてはもう5年で十分だったんですが、活水
    には専門部というのがありまして、それに行けるのが5年からだったんですけど、私たちの時代から
    4年から入っていいことになったんです。1年ずつ繰り上がったんですね。
    それで夏木さんは英文科。わたくしは音楽科、というふうに4年から専門部に進んだんですね。
 ── それが年でいうと 16才か17才ですね。原爆にあった年が17才ですからね。
タエ子 後で専門学校という名前に変わって、お母様は4年ちゃんと英文科に行かれて、卒業されました。
 ── ちゃんと行かれたというのは、その間に終戦が入ってるんですよね。終戦後に卒業ですよね?
タエ子 2年生で終戦です。1年の、ええと12月まではちゃんと勉強ができたの。
 ── そうですか。
タエ子 専門学科以外は英文科も音楽科も みんな一緒の授業だったんです。だから、私たちが英文科
    にもぐりこんでね、一緒に授業受けてたので、ずっと一緒だったんですよ。それで1年生の
    12月までは 勉強できまして・・・
 ── それが 昭和19年ですよね。
タエ子 19年ですね。それから昭和20年の1月からね、学徒動員です。

学徒動員


 ── じゃあ、タエ子さん、
まだこの頃は長崎にいらしたんですね。

タエ子 ええ、いたんです。
     夏木さんもいました。
    で、学徒動員も一緒に
    行ってたんです。
兵器工場に。

 ── 一緒に行ってたんですか?!大橋工場に?

タエ子 それでね、あなたね、
(嬉しそうに)その頃ね、
大橋まで電車に乗らないと、歩いては行けないですよね。
  途中じゃ乗れないくらい混むんです。

 ── そうなんだ。
(地図は岩波ジュニア新書
『15歳のナガサキ原爆』より)
 
タエ子 それでね、毎朝ね、わたくしが 夏木さんのところへ寄るの。朝5時に起きてね。
    もう8時までに工場へ入らないとダメなのね。 それなのに、夏木さんは、まだ寝てるのよ!
 ── アハハハ 相変わらずだなぁ(笑)
タエ子 (吹き出しながら)お梅さんが 「早くしなさい!早くしなさい!」って 必死で起こしてね。(大笑い)
    蛍茶屋っていう終点まで歩いて、そこから電車に乗るの。 蛍茶屋から大橋って、終点から終点までなのよ。
 ── (地図を出して見る)え? じゃあずいぶん遠回りじゃないですか。
タエ子 そうなのよ。私なんか(逆ですよね)そう、逆なんだけど、そこまで行かないと、とても電車に乗れ
    ないの。それも1台目に乗れるかわからないのよね。 遅れると大変な厳罰が待ってるから、遅れ
     られない。 だから夏木さんを起こす時がもう大変なのよ(笑) 早く早く早くって(笑)
   あなたのお母様は、中学の時からネボスケでねぇ、もう 遅刻の大将だったのよ!
  (大きな声で言って 吹き出す)

 三菱兵器 大橋工場 

 ── アハハハハハハ  もう〜。
    ここが響写真館(母の家)があった片淵で、ここが お諏訪さん(諏訪神社)ですね。 (地図を確認)
タエ子  そう。ここから大橋まではけっこうあったのよ。歩いたらね。
 ── 大橋工場は何の工場でした? なんの作業でしたか。 魚雷とか聞いたんだけど
タエ子 そう、魚雷です。
 ── ああ、やっぱり。
タエ子 それでね、夏木さんも私も幸いなことにね、あんまりからだが丈夫な方じゃなかったから、
工場に回されないで、工作機械科っていう事務の方に回してもらったんです。
 ──  ああ、そうなんだ。
タエ子 だから、ずっと一緒なのよ。(嬉しそうに)
    行きも帰りも一緒なの。 職場も一緒。
    そしてお母様はそこに原爆までいらしたわけよね。
    ところが私は3月まででやめて、3月の終わりに広島に行きましたの。
 ── まあ。それはお父様の転勤ですか? お仕事の関係か何かですか?
タエ子  はい。うちの父が三菱の造船所でしてね、今度広島の造船所の所長になったもんですから、
    それで広島に行って、広島で原爆受けたってことになるんですよ、わたくしは。
 ──  えええ? そうなんだ〜! ううう〜ん。

夏木はどこにいたか

タエ子 あ、それで、今思い出したから言っておきますけどね、このまえお母様が原爆前日までどこに
   住んでたかって 聞いてましたよね。あのね、たぶんですね、活水の上に職員の宿舎があって、
    桃太郎さんと一緒に、そこにいらしたと思う。
 ── そこに住んでたっていうのはムツコさん(夏木の同級生で桃太郎の奥さん=私の叔母)にも聞いた
   んですけど、桃太郎も出征してますよね。都城(みやこのじょう)の軍隊に行ってるから、
       その宿舎に一緒に住んだのは戦後みたいなんですよ。帰って来てから。
タエ子 はああ、そうか。
 ── それまでは、西山の野口さんっていう洋裁をやってるお宅にいたんじゃないかって。
    まだ確認取れてないんです。
タエ子 そうか、それはわたくしは知らないんですよ。3月までしか長崎にいないから。その後で響
    写真館を片したって聞いて、まあよく思い切ったことを、と母と話してたんです。
 ── じゃあ3月までは、井手家全体が片淵にいたってことですね。
タエ子 そうです。それまでは、夏木さんと一緒に工場へ行ってたんだから。
 ── なんか、それもね、井手家の人たちはみんなあやふやなんですよ。(笑)
    タエ子さんたちが広島行かれてから、井手家は太良に疎開したんですね。
タエ子 いつ行かれたかは知らないんですけどね。長崎に帰った時に伺ったことがあるので、活水の職員
    宿舎に桃太郎さんといらしたことは確かね。
 ── なんか2階建てで2階に桃さんたちがいて、1階に夏木がいたとか。
タエ子 そうかもしれない。なにせ学校の中にあった宿舎ですから、何度か遊びに行きました。なんか
    この頃は時代が大変でしたからね、誰に聞いても 記憶がごちゃごちゃですよ。

家族の 記念写真

タエ子 私の家は、正月にはほとんど何年かおきに、お宅の響写真館で写真を撮ってもらってたんです。
    うちの父も写真機は持ってましたけど、上手じゃないし、昔のはむずかしいでしょ? 
    だもんだから、家族の記念写真を撮ってたんですよ。それから、誰かが写真撮るっていえば、
    響写真館だったでしょ。だからよくお宅に家族で出入りしてたんですよ。
 ── じゃあ、伝次郎も梅子さんもよく知ってるわけですね。
タエ子 伝次郎さんが写してくれるのよ。後になったら、桃太郎さんが助手してくれたこともありますよ。
    いまだに残ってる写真がある。
 ── ある? へえ、ほんとですか〜。 響写真館の写真は全部、恵比寿の東京都写真美術館に寄贈し
    たんですけどね。その時に、どうしても劣化するから、うちの夫と娘で全部パソコンにデータを
    取り入れました。
タエ子 私が広島に行く時に、梅子さんと夏木さんでそろっていらしてね、ほんとはこちらが挨拶に行か
    なきゃいけないのにね。その時にね「長崎」っていう立派な写真集をいただいたんですよ。
 ── わぁ、そうなんだ? 生田の家にもありますよ。
タエ子 ご存じですか? ところがね、わたくし、広島で原爆に遭ったでしょう。ところがわたくし 何を思っ
    たか、焼いてしまうのはもったいないと思ったのか、アルバムから何枚か好きな写真をはがしてね、
    それを 防空壕に入れてあったんですよ。
 ── へええ
タエ子 いまだにあります。
 ── あるの? そうなんだ〜! あの写真集、この間インターネットで調べたら、古本屋で5万円くらい
    で出てました。(笑)
タエ子 そうでしょう。私の叔父が慶応大学の名誉教授してたんですけど、広島に遊びに来た時に、
    長崎からこういう写真集持って来たんですよと見せたんですよ。そしたら、歴史の方でちょっと名の
    ある叔父だったんですが「これは大事にしなさい。とてもいい写真だから」と言われたんですよ。
    それで私がはがしたんでしょうね。そのままじゃ、とても大きすぎて防空壕に入りきらないから、と思
    ってね。だから、見る人にとっては、とてもいい写真ですよ。
 ── ねえ。昨年、桃太郎おじに聞いたところでは、写真館は戦地に出征する兵隊さんを撮るのに
    すごく忙しかったらしいですけど、伝次郎は絶対兵隊の写真は撮らないって言って、それで配給も
    止められちゃって、写真館を続けることができなくなっちゃったらしいです。
タエ子 ああ、・・・・そうだったんですか・・・私たちもどうしてあんな大きな写真館をたたんだのか
    って言ってたんですよ。
 ── 軍人さんの写真は撮るけど、もう普通の家族写真を撮ってるのんきな時代じゃなくなってきたんで
    しょう。だから一般のお客さんはいないし、兵隊さんの仕事を断っちゃったら、仕事がなくなっちゃ
    ったんですね。
タエ子 そうよねぇ。結局そういう時代じゃなくなったから、お客さんが減って、それで廃業なすったんだろう
    とは思ってましたけれども、そうだったんですか・・・・
 ──なんかトラック5台分もレコードがあって、疎開先に運んだって言ってましたよ。
タエ子 モモさん(長男桃太郎)がレコード好きでねぇ。だからモモさんの家に遊びに行くのは、レコードを
    聴かせてもらいに行ったんだと思うわよ。たくさん持ってらしてねぇ。
    それから、井手家には世界名作全集が揃ってたのね。私の家には、日本名作全集が全巻揃ってた
    んですけどね、世界名作全集はなかったのね(笑)だからお宅から借りて来ては読むわ、ホホホホ
 ── そうですか、楽しかったですねぇ。

私が小さい時は、毎年クリスマスに、目黒のタエ子さんのお宅に、長崎の活水女学校時代のお友だちが数人、それぞれ子どもを連れて集まってクリスマスのお祝いをした。タエ子さんには、私と同い年のユカちゃん、妹のリカちゃんがいて、仲良しだった。もう40年以上も会ってないが、お元気だろうか。ユカちゃん、リカちゃんのお母さんという以外に、何も知らなかった。こんなにお話を聞いたことは、今回が初めてだ。

開業医院をされてる大きなお宅だった。大きなもみの木のクリスマス・ツリーが飾ってあって、ピアノの周りで、みんなで「きよしこの夜」を歌った。子どもの私にとって、賛美歌と本物のツリーがあるこのクリスマスは、今でも甦る思い出深いものだ。それぞれ母親になったかつての少女たちにとっても、毎朝チャペルで礼拝があったという、メソジスト教会系の長崎の活水女学校時代を偲ぶ 楽しいひとときだったのかもしれない。そういえば クリスマスに対する執着が、私たちが大きくなってからも 母は強くて、なんだか子供みたいだなぁ と思ったことがある。
 


     
| 長崎8人兄妹物語 | 09:20 | comments(3) | trackbacks(0) |
Comment
なんだか読んでるだけで胸がいっぱいになって、目頭が熱くなってしまいます。幼稚園の頃の仲良しのお二人の姿のなんて素敵なこと!わざわざ戻って友達の世話をする夏木さん、その事をずっと忘れないタエ子さん。
よくぞお話を聴きに行ってくれました!
ありがとう・・
2008/04/19 10:09 AM, from junjum
地雷廃絶日本キャンペーンの内海と申します。当会代表の北川泰弘が長崎の小中学校出身で、お姉さま(北川愛子さん)が活水女学院で雨森雪子先生にピアノを習われていたときいていてそのことをネットで調べていて、偶然このブログを拝読いたしました。それで北川に知らせたところ、以下の返事でした。「お話に出てくる、付属小学校は、私が3年生で転校した学校です。大橋で魚雷を作っていた三菱の工場は、私の父が庶務課長をやっていた工場です。あの工場で作った航空魚雷が昭和16年12月の真珠湾攻撃で活躍したのです。

タエ子さんのお父様が広島の造船所の所長だったと書いてありました。私の父の宣彦は長崎で、海軍さんのご接待で飲みすぎて肝臓を壊し、広島の造船所の副所長に左遷されていました。副所長という名前だけで、仕事をしないで病気療養をしていたのです。私は江田島の海軍兵学校に入学する前夜、川に浮かぶ「かき船」という料理屋で所長さんのご招待で、豪華な牡蠣料理をご馳走になりました。物資の欠乏で、白米のご飯を食べることが難しい時代にです。所長さんのお名前は忘れました。タエ子さんはそのお嬢さんで、その頃、広島におられたのですね。」
そして、この話を長崎の同窓生にしたところ、その方が文中になる「ヒビキ写真館」の近所に住んでいらしたということで、当時の地図を送ってきた、というのことで、北川がその地図を「かんからかあん」をお書きになった方に送りたいと申しております。地図はPDFになっているので、メールでお送りすることができます。お受け取りいただけますでしょうか?あるいは郵送でも構いません。お気持ちをお知らせいただければ幸いです。

2013/08/15 11:20 AM, from 内海
内海さま、ご丁寧なコメントをありがとうございます。長崎は小さな町なので、びっくりするような繋がりがありますね。お父様の広島でのお話もびっくりです。メールにて返信させていただきます。ありがとうございました。
2013/08/15 3:23 PM, from かんからかん









Trackback
url: http://kankarakan.jugem.jp/trackback/480

07
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--
Profile
New entries
Archives
Categories
Recent comment
Recent trackback
2007年3月からのアクセス
無料WEBツール広告
長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語
岡村幸宣『原爆の図全国巡回』占領下100万人が見た

鈴木道子
Sweet & Bitter
Mobile
qrcode
Links
Others
無料ブログ作成サービス JUGEM