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長崎 8人兄弟 物語  その2 (モモタロウとムツコ)

8月はじめ、お見舞いを兼ねて大阪の叔父叔母を訪ね、インタビューしてきました。

長崎8人兄弟の長男モモタロウ(大正9年生まれ87才 大阪在住 桃太郎は本名。次男が生まれた時、金太郎と名付けようとした父親に、昔話じゃないんだからやめてくださいと母親が頼んで阻止したとか(笑)

ムツコおば(昭和2年生まれ 79才 活水女学院で夏木と同級生。
美術の教師として活水に赴任した親友の兄モモタロウ と後に結婚する)


─  このまえ電話で、原爆落ちる前日まで、 夏木(私の母 8人兄弟の3番目)は 長崎のどこに誰と住んでい
   たんだろうってお聞きしたんですが・・・キヨおじちゃんにも聞いたのですが、まったく知らなくて(笑)
   その時モモさんは、夏木が通っていた活水女学院の美術の先生だったので、夏木と一時、活水の職員宿
   舎に一緒に住んでたって言ってましたよね。
モモ  ??ああ 海星中学に近い方の活水の敷地の中に職員宿舎がありましてね。一時夏木さんと一緒に住ん
    でました。 でもあれは戦後じゃなかったかな。

暗号兵

─   モモさんは兵隊に出征してたってキヨさんが言ってましたよ。
   モモさんは、原爆の落ちた日は、どこにいましたか。
モモ 軍隊にいました。
─  どこの?
モモ 鹿児島。城に司令部がありましたから、そこにいました。
   私は、司令部直属の、暗号兵だったんです。暗号兵というのは、大学教授から私のようなチンピラまで
   色々いました。当時は私も若かったですからね。大学教授なんてのは、いろんなこと知ってますからね、
   そういう人がいないと、暗号はわからないわけです。私もまだその頃は若くてチンピラでしたが、ただ計算能
   力が今よりは高い。(笑)当時はね、暗算でもなんでも早かったですよ。
─  アハハハハ
モモ やっぱり若い子が何人もいて、これはね、3交替。朝8時から夜8時までぶっ通しでやる。といったって、
   暗号がぶっ通しに来るわけではないんですがね。横穴の地下壕を掘って、気温が変わらないで一定で、
   快適でした。
─  軍隊に入ったのは何年ですか?
モモ あれはねぇ・・・昭和19年6月末かな。
─  その時何才? 徴兵だから20才ですよね。
モモ いや、20才よりもっといってたな。24才くらいかな。

徴用

─  それまで 徴兵されなかったの?
ムツコ だから、徴兵逃れで、学校の先生になったわけ。はっきり言えば(笑)
モモ  徴兵は逃れられない。徴用逃れです。徴用と言って、毎日長崎の地下1000m海底炭鉱を掘るんですよ。
   無煙炭を掘るためにね。韓国朝鮮からたくさん連れて来られてね。今日は38人死んだ。
   今日は何人死んだって、毎日のように死んでいくわけです。
─  ガス?
モモ  落盤事故でね。そんなの知ったこっちゃないんだね、日本人は。
─   ああ、それは、うちのアヤカが今調べてる。強制連行だね。
モモ  ああ、そうですか。強制連行ですね、あれは。
ムツコ そう、朝鮮の人たち、よく使われてたねぇ。

響 写真館 

モモ  うちは響(ヒビキ)という写真館をやっていたんですが、
    写真館はとうにやめてしまっていた。
   ほんとはね、写真屋は、当時は忙しかった。
   毎日のように出征していく兵隊さんたちを撮らなくちゃいけないんでね。
─  ああ、そうか!
モモ  だから写真屋さんは忙しかった。材料も軍部がなんとか保障してくれた。
    兵隊に出て行く人たちの写真は、家族にとって大事ですからね。
─   そうですねぇ。


モモ ところが、うちの親父なんか、もうそんな兵隊の写真なんか撮るのはいやだ!って。
─  (笑  デンジロウらしい・・) 
モモ そのかわり、ひっどい目に遭った。憲兵と特高警察に、あの親父痛めつけてやれ、と
   ずいぶんひどい目に遭わされた。
─  どこかに連れていかれたんですか。
モモ  いやいや、長崎で。
─   家で?
ムツコ いやいや呼びつけられて。
モモ  特高警察や憲兵に呼びつけられて、もう踏んだり蹴ったりという目に
    遭わされたらしいですよ。
    そんなこと、親父は何一つ言わなかった。黙して語らず。後で、だんだん少しずつわかってきた。

ムツコ 別件で弟のセイイチおじさんが行方不明の時も、やられたのよね。
    弟が所在不明で、兄貴が代表で怒られた。
モモ  当時、セイイチおじさんは大陸をウロチョロしてた。
─   大陸?
モモ  満州、朝鮮あたりをウロチョロしてた。そういう大陸浪人がたくさんいたんですよ。
    弟が大陸に行ったからって、戸主が動向を把握してなくちゃダメじゃないかって、それでまた
    親父が連れて行かれた。当時の憲兵隊や特高警察は、そんな程度のものですよ。

─  じゃ、仕事ナイ!じゃないですか。
モモ  いやいや、仕事はあるんだけれども、
─  やらないんでしょ? デンジロウさんは、それを拒否してるわけだから。
モモ  そういう、ヒドイ目に遭わされて、本当にやる気がなくなっていったんだな。(写真=井手傳次郎撮影 東京都写真美術館所蔵)

  

出征

ムツコ  傳次郎さんが、疎開したのは何年? おいちゃん(モモタロウのこと)が出征する時は、
     まだ長崎の響の家からでしょ? 疎開先の太良から?
モモ  いやいやいや、まだ響の家からだな。
ムツコ 昭和19年くらいに疎開したんじゃないかな。
─  じゃあ、長崎の響写真館から万歳万歳で送られて城に行ったんですね。その時は、
   まだみんなが疎開しないでいたってことですよね。
ムツコ そうだわねぇ。
─   じゃあ活水女学院の職員宿舎で妹の夏木と一緒に暮らしてたって状況ではないですね。その時は。
モモ  そうそう。それは戦後の話。

ナツキはどこに? 

ムツコ だから、ナツキさんはどこにいたんだろう。ほんとにねえ。この前チコちゃん(私のことだよ)から電話
    もらった後ね、ホントに夏木はどこに住んでたのかしらんて私も思い出せなくて、夏木の一番仲良しだった
    マッチゲ(横浜在住)に電話して聞いてみたのよ。そしたらマッチゲもはっきりは覚えてないのだけど、
    洋裁をする野口さんっていう人の話をしてね、多分そこに暫定的に夏木は居候してたんじゃないかなぁ。
    西山の大きなお屋敷でね。私も行ったことあるけど。
モモ  野口家は大変なお金持ちで、屋敷もぜいたくな作りだったな。
ムツコ 夏木はそこに、正式なことではなく、ちょっと失礼します、言うて居候していたのとちがうかなぁ。もぐりこ
    むのが夏木は得意やったからね。(笑)うちにも、よく居候してたもん。・・・ あるいは、お友だちの家やっ
    たかもしらん。原爆が落ちて焼けちゃってからは、しばらくマッチゲの家に居候したんだけどね。
    もう、ほんとにねぇ、わかってるようでも、あれこれあれこれ、なんにもわからないわ。
    何人にも聞きかじって、やっと答えが出たような・・(笑)
(結局、原爆直前の夏木の所在は確定できず)
    
─   てことは、太良に疎開してから、まもなくってことですかね。
ムツコ 太良に行ってから1年もないんじゃないかなぁ。何年に疎開したかがわかればね。ミユキちゃんに聞けば
    わかるんだけど・・(末っ子のミユキおばは、母の2ヶ月後に膠原病で急逝した)
─   なんか、キヨおじも、貨物列車で盆栽や骨董品を運んで、その後レコードを取りに、何度も長崎に行った
    ことは覚えてるんだけどね(笑)
ムツコ あの人たちは数字に疎いからねぇ(笑)
モモ  あいつらは、な(笑)記憶はいい加減なもんで。(急に、兄貴らしく、強い口調で)
─   アッハハハハハ(爆笑)
ムツコ この人も、昔のことなら、大丈夫よ。たいがいわかる。さっき何食べたかは忘れちゃうけど(笑)
    コウゾウさん(次男)の方が先に兵隊に行っちゃったしね。ミユキちゃんの出番なんだけどなぁ。
(後日、他の兄妹2人の証言で疎開したのは昭和20年4月だとわかる)

トンネル工場


長崎の地図
(NHK取材班『長崎 よみがえる原爆写真』64pの地図)を見てもらう。

─   夏木は三菱の大橋工場で働いてた、って
    この地図でどこ?何を作る工場?
ムツコ さぁ、何作ってたか、魚雷だかなんだか
    の部品かなにか・・
─   あ、魚雷って言ってたかもしれない。
ムツコ あ、これですね。(地図の中央★印)
    大橋のトンネル工場。
─   これが、これ自体がトンネル工場なの? 
ムツコ そうそう。上から(爆撃機から)見えない
    ように、トンネル工場作ったのね。
─   夏木もトンネル工場に行ってたの?
ムツコ そう。所属はどこか知らないけどね。
─   工場は全滅?
ムツコ 全滅っていっても、地下だからね。
    放射線でやられるとこはやられたけど、
    残ってたとこもあったんじゃないかしら。
    ケガ人も死んだ人もいるけど、
    無傷の人もいた。
─   はあぁ。そうなんだ。
ムツコ ちょっと離れてるからね、爆心から。(1、2km位)


学徒動員

─   活水女学院の中で、(夏木)のいた英文科はここに学徒動員だったの?
ムツコ うーん、英文科がここだったんかなぁ。それとも何年生はこことか。私ら家政科は、島の工場だったけど
    ね。あちこちに別れて動員されてた。今考えたら、この間もみんなで集まった時ブーブー文句言ってたんだ
    けどね、お嬢様たちとか、いいとこの娘はね、軍の司令部とか行ってお手伝いさせられて、そんな危ない
    とこには、行かせてないのね。
─   はああ・・・ふうん。
ムツコ 我々フツウのとこの娘は、あちゃこちゃ連れ回されて(笑)
─   でもさ、家族はみんな太良に疎開しているわけでしょ。
    学校だって授業はないわけで、工場で働くわけでしょ? 家族と一緒に、疎開しちゃダメだったの?
ムツコ いや、そんなことないよ。もう、どこか行っちゃった人もいるしね。
─  じゃあ、一人でも、長崎に、自分で残りたくて残ったんだね、きっと。
ムツコ うーん、残りたくて、というよりは、やっぱりこんな非常時に、そんな逃げ帰るようなことではならんって・・・
─  ちゃんと、軍国少女だったんだ。
ムツコ うん、そうそう。みんな、軍国少女たちですからね(笑)一応。働かなくちゃいけないし。

─   おばちゃんが働いてた島はどこにあったの?
ムツコ もっと、長崎湾の外ですね。だいぶ遠いとこ。
─   なんて島?
ムツコ コウヤギシマ。香焼島って書く。
─   今もある?
ムツコ ありますよ。今は三菱の造船所になってると思う。
─   舟でどのくらい?
ムツコ さあ、それこそ15分くらい乗って、この大波止(オオハト)という港に着いて、そこから(長崎駅から)
    電車に乗って、この浦上まで帰ってたのね。

8月9日

ムツコ でもその日はね、11時頃にピカっと光ったのが見えたの。みんなで、なんだろう、いつもと違うって言って
    たの。3時頃早くみんな帰りなさいって船で帰されたんだけどね。
    その日は大波止まで入れなくて、対岸の稲佐の麓で船が着いて、ずーっと歩いて帰ったの。それで、
    どんどんどんどんひどくなってね。始めはケガ人が何人か歩いてるだけだったのに、だんだんだんだん
    町の方へ行くうちに、黒こげ死体になって、それからなぁんにもなくて、灰・・・灰だけ・・・・
    だから夏木さんが、その日いなくて、何日くらいで、長崎に戻れたかね。
─   一週間くらいしてからだって。
ムツコ 一週間くらいか。すぐには入ってないと思うから。助かったのねぇ。みんな、もう、私も、てっきり夏木は
    死んだと思ってたよね。あのへん、すぐウロチヨロした人は、後で亡くなってたしねぇ。
─   おばちゃんの方がずっと被爆してるじゃない!! 当日3時から、ずっと歩いてるんだもん。具合悪いとこ
    ないの?被爆手帳もらってる?
ムツコ うん、手帳は持ってるよ。でも、じきに長崎を離れて、大分に疎開したからね。助かったんだわ。
─   おばちゃんの家は、どこ?
ムツコ この、城山町から、ギリギリ半径500mの線上。この川の縁。
─   に、家があったの? じゃあ、すっごい爆心地じゃない。おばちゃんの家族は?
ムツコ 母はね、ちょうど大分の湯布院の親戚に、疎開させてもらえるよう、その日頼みに行ってて、助かった。
─   ええ、よかったねぇ!
ムツコ でも、代わりに留守番させてた姉が、亡くなった。
─   そうなんだ・・・
ムツコ この「下の川」って書いてある。長崎の人は「シタンカワ」って呼んでたけどね。ここいらで、傳次郎さん
    のお父さん=乙松さんは亡くなったの。90才位でね、長生きしてたの。
モモ 私の親父が傳次郎。その親父が乙松。
─  モモタロウ叔父の おじいちゃんだね(笑)
モモ 乙松さんは、佐世保で海軍御用達の、食料全般を納める食品店をやっていたんです。

ムツコ 響写真館は、この地図の右下、中島川のほとりの片淵町にあったのね。
─  うん、うちの子たちが小さいとき、夏木や一郎と行ったことある。今は教会になってた。 原爆で、建物は平
   気だったんですか?
ムツコ まあ、ガタピシはなったでしょう。爆風でね。向側に丘があるわけ。お諏訪さん(おくんちで有名な
    諏訪神社)のある・・
─  そう、この金毘羅さんのおかげで、この憲兵本部も無事だったんだって。ちょっとした山の陰で助かってる
   んだね。
ムツコ そう。だから、狭い谷間がやられたのね。
─   そうだねぇ。ほんとは、こっちの中島川 方面を狙ってたらしいね。
ムツコ こっち狙うどころか、長崎狙ってなかったんだからね。小倉狙ってたんでしょ。
    長崎なんて、小さな町なのにねぇ。

地獄

モモ  聞いたところでは、原爆投下当日、素っ裸で歩いていたそうです。
ムツコ いやいや、私は、着てましたよ。島にいたからね。でも、うちの大家さんの息子さんが、長崎の薬専
    (医科大学 薬学科)の生徒さんでね。私がうちのあったあたりに帰った時、誰もいなかったから、
     どうしようかなぁってウロウロしてたら、その人は洋服も焼かれて真っ裸だったの。たまたま、大学の壁で
     助かったみたい。壁がなかった人は、みんな死んでしまったって。板キレで前を隠してね。私が作業用の
     ズボン持ってたから、貸してあげたの。
─  おばちゃんの家は、爆心地から半径500mじゃ(城山町)すごい状態でしょ?
ムツコ もう、すっごい、すっごい。昨日も広島の死体だらけのテレビでやってたけどね。もう、すっごい、すっご
     い。川は水もないのに、いっぱい人が入ってて、防火用水のところへ、みんな逆立ちになって人が入っ
     たまま死んでる。水がないのにね。みんな、そうよ。水を求めて・・・

ムツコ 私はその日、その大家さんの息子さんに会って、「こんなとこで暮らしたら、あかん」って言うんで、
    その人のおばあさんの家かどこかに、その夜 電車に乗って、行ったのよ。諫早かどっか。
─  ってことは、その日のうちには、家族にも誰にも会えなかったの?
ムツコ 会わなかった。誰もいないから。そのへんにもう、生きた人いないもん。 
─  じゃぁ、お母さんが生きてるかどうかもわからなかったの?
ムツコ 母親は、ちょうど大分の湯布院に疎開を頼みに行ってたからね。生きてることは、わかってたけど、
    父親は、町で働いてて連絡は取れなかった。
ムツコ その晩は、諫早ってとこで、もう電車が止まって、また空襲警報がやっぱりあってね。みんな危ない
    から列車降りなさいって、降ろされて。その夜は、親戚の家には辿りつけなくて、諫早の中学校で、
    みんな寝たわけ。その時は、もう、死体だらけだった。そこまで辿り着いても、どんどん死んで行くからね。
    私は無傷だから歩けるけど、歩けない人も、ずるずるずるずる、「列車が来るぞ〜」っていう度に、列車は
    高いとこにあるから、把手をつかむんだけど、乗れないのよ。
    みんな、ケガしてるからね。ずるずるずるずる落とされて・・・・みんなねぇ・・・大変だったわ。
    それこそ、そのへんは、地獄でしたね。

黒い雨

─  夏木が一週間くらいして、やっと電車が通じて、長崎に戻った時も、一週間くらいじゃ、全然変わらない?
ムツコ 変わらない。変わらない。私は、その諫早の中学校で1泊して、大家さんの親戚の家で2泊したけれども、
    いくらなんでもうちへ帰らないと、みんな探してるだろうから、長崎に戻ってその時に、母とか、父に
    会えた。
─  会えたんだ。よかったねぇ。
ムツコ その後、壕のようなとこで、半月くらい暮らしたんだけど、それが、悪かったねぇ。なんにもないんだけど、
    いろんな家族が、どんどんどんどん探しに来てましたからねぇ。
─   じゃあ、相当放射能浴びてるじゃない。
ムツコ 浴びてるけどね。それから、半月くらいして湯布院の方へ疎開したから、長崎を離れた人たちは、
みんな生き残ってるね。
─   でも、それって、直後の放射能が、からだに残留してるでしょ?
ムツコ 残留してるだろうけどね、それはいろんな程度があってね。それこそ、私の母は、入れ替わりに長崎に来て、
黒い雨に当たって、何ヶ月で死にましたけどね。
─  何ヶ月!
ムツコ 黒い雨・・・みんな知らなかったの。なんで、こんなに雨が黒いんやろって言いながらね、ザーザーザーザー当たってたわけ。隠れるとこも何もないから。
モモ  広島でも 黒い雨が降ったんですね。
ムツコ そう。空中に滞在している放射能の塵が落ちてきたわけね。

モモさんとムツコさんは、いつ会っても、ユーモアたっぷりに、明るく達観した口調で話す。こんな風に、歳を重ねられたらなぁ、と、その老い方の上手さに、いつも敬服する。こんな思い出したくない話を根ほりはほり聞いてしまって、ごめんなさい。ありがとうございました。話は、まだまだ、モモタロウの軍隊武勇伝など続くが、また次の機会にする。最後におばちゃんが、つぶやいていたことが、気にかかる。

ムツコ こうやって私らがやらないで来たことを、チコちゃんたち若い人がやってくれる。それは とっても大事な
    ことだねぇ。やらなきゃあかんことやねぇ。
    でも、それでも、 何かが取り違うのではないかと 思うわねぇ。
─  そりゃ 取り違うよ。匂いとか 感覚とかまったくわからないもの。

私はそう答えながら、この答えはおばちゃんの答えになっていないことはわかっていた。
おばちゃんが 言葉を探すように、いや自分の想いを探すように言った、何かを取り違えるとはなんなのか。
日々生きて行くために、自分の中で切り捨ててきた想いは、60数年経っても、しっくり言葉に置き換えることができない。言葉に置き換えられない、なにか としか 言えない 何か・・・











| 長崎8人兄妹物語 | 15:30 | comments(2) | trackbacks(0) |
Comment
はじめまして、僕は大学院で城郭について研究している者です。現在長崎県島原市の島原城に関する史料を探しています。お話の中に出てきた写真家の井手傳次郎さんが島原城を撮っていたというようなお話は聞いたことありませんでしょうか。突然の勝手な質問で申し訳ありませんが、ご返信いただけたら幸いです。
2007/10/22 6:49 PM, from コマツ
コマツさま

コマツさま

お問い合わせの井手傳次郎の作品群の中には、残念ながら島原城の写真はなかったように思います。傳次郎が生前出した「長崎」という写真集の中にあったかどうか、今私の手元にないので、確認することができません。記憶ではなかったように思います。

ブログに今アップしましたが、長男で写真を管理していた叔父が亡くなってしまったので、確認できず残念です。

お力になれなくて、申し訳ありません。思わぬところで、思わぬ方に見ていただいているのでびっくりしました。ありがとうございました。

2007/10/22 10:16 PM, from かんからかん









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