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8月9日 雲の切れ間

2年前の2005年8月9日 大学病院の病室で、こっそり持ち込んだ赤ワインで、母と祝杯をあげた。
ちょうど60年前の今日、17年で終わっていたかもしれなかったおまけの人生で、ずいぶん楽しめたね。
60年丸儲けの人生だったね!と乾杯したのだ。

もっとも、ワインを飲んだのは、私と弟だ。
母は、血液のガン、悪性リンパ腫の浸潤が脳に拡がり、7月末から始まった脳ヘルニアによる呼吸困難のため、
酸素マスクと点滴でがんじがらめで意識もなかった。

3月末に入院した時、友人のきょんみさんに「お母さんの物語をたくさん聞いてあげてね」と言われたのに、
入院と同時に 母は言葉をまったく失った。
言語領野だけで生きてるような人だったが、よりにもよって腫瘍は脳の言語領野に拡がっていたのだ。
4月の抗癌剤の効果で、5月にちょっと言葉が戻った時、
私の友人ヨウコに 「病院の食事はおいしいですか」 と聞かれて、
「まあまあ。赤ワインがあればね」とおねだりしていたらしい。
本人はワインを口にするどころか、ベッドで迎えた60年の不思議な人生を、振り返ることもできなかった。

60年前の1945年8月9日。
アメリカのB29ボックス・カー号は当初、予定していた小倉市街が雲に覆われて目視できず、
上空旋回を繰り返したものの、晴れる見込みがないので目標を長崎に変更、
やはり曇ってはいましたが、山の向こうに雲の切れ間を見つけ、午前11時2分、原爆を投下しました。
(半藤一利 『昭和史』)


「眼下の雲は依然として、突き切ることはできなかった。
ところがそのとき、本当に最後の瞬間、雲の切れ目が見えた。
数秒の短い瞬間、長崎の市街が 明るい昼時の日光の下に 隈なく明瞭に現れた。
それは太陽の下 長崎の最後の短い瞬間だったのである。」
(計測器搭載機に乗り組んでいたW・L・ローレンスの手記『0の暁』)


1945年8月。
私の母、夏木は、生まれ育った長崎の、三菱兵器大橋工場のトンネル工場で、学徒動員のため働いていた。
それは原爆投下爆心地松山町から半径1、2km  雲の切れ間に見えた、軍事工場群の1つだ。

1945年8月9日 運命は私を見のがした。
私が学徒動員で働いていた 三菱の兵器工場は まさに爆心地であったから、
出勤していれば即死 だったろう。
めったにとれない休暇申請が認められて、長崎から汽車で2時間ほど離れた家族の疎開地、
前夜から帰っていたそのほんの小さな偶然が、 私の命を左右したのだ。
(針生夏木 随想 「共生の地球を夢みて」授業を創る誌)
 と 母は書いている。

母は足におできができて、帰ったと言っていた。
「じゃあ、足におできができなかったら、母さんは原爆でやられてしまって、
父さんと東京で出逢うこともなかったし、私たちも生まれなかったんだね!」
この奇跡の生還譚、「運命のおでき」は、子供の時は お気に入りのストーリーだった。

というか、この話しか、私は母から原爆の話を聞いたことがない。

でも、なぜ おでき?
おできごときで、この国家総動員の非常時に帰っていいのか。
おできを理由に、家族の元に、帰りたい「なにか」があったのではないだろうか。

今回改めて叔父や叔母に話を聞いたところでは、
「夏木姉さんは 家族が疎開してる太良に めったに帰って来なかった」という。
家族兄弟7人が疎開しているのに、なぜ1人(上の兄2人は出征していた)長崎に残っていたのだろう。
その気丈な軍国少女(?)の彼女のからだを動かしたのは、本当におできだけだったのだろうか。

人を、時として日常とはちがう行動へ駆り立てる「なにか」が、私はいつも気になる。
それは、偶然のようでいて、本人の中では必然だったのかもしれない。
が、本人ですら気付いてないか、言葉に置き換えて説明できるようなものではない。
からだの方が直感的に感じて動く。 
そういう瞬間瞬間の決定が、一人一人の人生や歴史をつくっていく。

答えられない問いを向ける機会もなく、母は運命に乾杯した一週間後の8月17日 この世を去った。

入院した時、初めて母の被爆手帳を見た。

その被爆年齢の欄に書きこまれた「17才」という数字を見たとき、目眩がした。
ウカツだった。母の話として聞いていたために、私の中で取り違えていたのだ。
原爆を受けたのは、母ではなく、17才の少女だった。

友人に宛てた会葬御礼の手紙に、私はこう書いた。

夏休みの終わりに宿題をいっぱい抱えた小学生のような気分で、今はいます。
高校の頃から、親の演説は友人に聞いてもらって私は傍らで聞き流してきたので、
ツケが回ってきました。

母の宿題は、私にとっては長崎での被爆です。(略)

折しも我が家の次女彩夏が この8月に17才になり、
この多感な、起伏激しい高校2年生を毎日見ている私にとって、
17才の少女が あの瓦礫の中で何を思ったのか、
その後の精神の基底に どうフラッシュバックしたのかを思うと 目眩がしました。

母は原爆について声高に語りませんでした。
だからたまたま 前日に足にできたオデキのために学徒動員されていた三菱兵器工場を1日休んで、
疎開先に帰っていたために助かった という奇跡の生還譚しか、聞いた覚えがないのです。


この手紙を書いた直後に、母が長年かかわってきた「人間の歴史の授業を創る会」から、
母の随想の抜き刷りが送られてきた。
それは、母が70才になった節目に、会の若い先生に頼まれて、
生きてきた時代を綴った自伝的随想で、私はそれを読んだことがなかった。

(上の赤字の抜粋の続き)
私は多くの親しかった友人知人の一瞬の死を思うとき、
原爆のことを語る資格はない、と長い間沈黙してきた。
今でも積極的に語る気にはなれない。

ただ、毎日必死で線路の回復を待ち続け、敗戦の翌日(原爆から一週間め)
やっと長崎近郊まで汽車が通じて、そこから瓦礫の町にたどりついたとき・・・
あれほど美しかった山々、毎日「きょうも生きてたよ」と呼びかける相手だった山々のてっぺんまで、
一木一草もなく赤く焼け焦げ、ぼうぼう千里、うす紫のもやがたちこめる市街区の廃虚を見渡したとき・・・
私のなかで何かがはじけ散った。

ぎらぎらと照りつける太陽。
毎日、暑かった。 汗びっしょりになりながら、
母親はじめ一家5人を瞬時に失い、トンネル工場で仕事をしていた、自分だけ助かった友人に再会して、
「生きてた!」と互いにおどろきあい、いっしょに瓦礫の町を歩き回った。

家があったと思われるところを探し歩き、棒切れや素手で何かないかと掘り返し、
壊れた眼鏡のツルや、割れた茶碗や、熔けたビー玉のかけらなどを見つけるたびに、
はっと身を引き、 「たくさんの命が・・・だれのために・・・なんのために・・」 とこみあげる激しい怒りに
歯をくいしばってボロボロ泣いた。(「共生の地球を夢見て」 針生夏木)
 

宿題は、母自身がもうやっていたのか、と苦笑した。
でも70になるまで、書けなかったのだな、とも思う。

何かがはじけ散った。何か としか書けないなにか・・・
60年近く、子供たちにも言えなかった想い、を思う。

1995年8月9日。 
子供の夏休みで久々実家に戻っていた私の家族と母は、夕食後つけたテレビで、
偶然 戦後50周年のNHK特別番組 『 長崎 映像の証言 よみがえる115枚のネガ 』 を見た。

それは原爆投下の翌日、長崎に入った陸軍西部軍報道部のカメラマン山崎庸介氏(1917〜 1966)が
撮影した115枚の写真と、そこに写った家族の消息を辿ったもので、
写真が伝える生々しい原爆投下直後の実態は、私の想像をはるかに越えていた。

母から何も原爆の話を聞いたことがないだけに、言葉も出なかった。
座椅子の背もたれに埋もれるようにして見ていた母が、番組が終わった後、
深い溜息をついて 「こういう映像初めて見られた」 とつぶやいた言葉が忘れられない。

番組最後のテロップを見た時、制作にNHK福岡放送局 軽部淳さんの名前があって、
みんなでびっくりした。 私の友人 ヨンスンのパートナーだった。

最近この記事を書くため資料を探していたら、
図書館で偶然、この番組と山崎庸介の写真が本になっているのを見つけた。
またしても、不思議な巡り合わせを感じた。
写真はもとより、番組スタッフの調査、奔走に打たれる。

写真に写された被爆者の方々も、悲惨な記憶を呼び起こし、貴重な証言をしてくださいました。
どなたの証言も、被爆直後の生と死の記録として、忘れることができません。 
取材班は番組の制作を同時進行で、精一杯この本を書き続けました。
それは、若いディレクターたちが、原爆をいう二十世紀の巨悪がもたらした悲惨のひとつひとつを、
地を這うようにして確認していく作業でもありました。

と軽部さんがあとがきを書いている。

2007年8月9日。今日も 暑い。
是非 この本を読んでください。
『NHKスペシャル 長崎 よみがえる原爆写真 』NHK取材班  NHK出版





| 長崎8人兄妹物語 | 11:02 | comments(3) | trackbacks(0) |
Comment
はじめまして。
今日、8/9にかんからかんさんの娘さんがtwitterでつぶらかれた話がリツイートで拡散したことで偶然にも2007.08.09のブログの記事を読ませていただくことができました。17歳の夏にお母さまが目にした光景、60年面前のお母さまの気持ちを気づかうかんからかんさん、そしてお二人を見ながら育った娘さんの8/9の思いがブログを通して深く心の中に残りました。週に1回、三菱兵器大橋工場の跡地前を車で通っています。この跡地には「三菱マークと兵器」が刻まれた石碑がこぢんまりながらもあることは知っていました。来週か再来週にこの石碑を尋ねてみようと思います。そして「いつまでもここに座り続けて戦争があったことを伝え続けてね」とお願いしてみようと思います♪
通りすがりのものですみません。
2015/08/09 8:32 PM, from さえ
さえさん、拙文を読んでくださって、コメントありがとうございます!
長崎の方なんですね。とても嬉しいです。今日は8月9日で娘がツイッターに貼ってくれたこともあり、1時間に200以上のアクセスでびっくりしています。(笑)   
長崎8人兄妹物語は、右側のカテゴリィをクリックすると他の記事も読めます。片淵の今パブテスト教会のあるところに響写真館という写真館が昭和のはじめにあったのです。そこが母の実家、私の祖父がやっていた写真館です。ご両親かおばあちゃんか、どなたか響写真館をご存知ないですか?
今年中に本にして出版したいと思って今悪戦苦闘しています。さえさんもよかったら読んでくださいね!
2015/08/09 10:06 PM, from かんからかん
こちらこそ、お返事を下さってありがとうございます。実は、私は広島で生まれ、小学生からは東京で暮らし、就職後に転勤で長崎へ移り住んでいます。17歳のお母さまが心の中に焼き付いたつらい思いを想像すると胸がぎゅっと痛くなり、かんからかんさんの文章を読みながら涙が流れました。「長崎8人兄妹物語」も拝読させて頂きます。
そして、本は是非手にして読ませて頂きたいと思っています。遠くからですが、本が無事に出版できますように心から応援させて頂きます♪
2015/08/10 11:30 PM, from さえ









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