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佐世保港の夜景 森山一信夫妻


母が長崎生まれと言っても 井手家の誰も 長崎には住んでいないので 
長崎には母に連れられて 2度しか 行ったことがなかった。

私の3度目の長崎訪問は、 2008年3月。
前年の秋 大阪に住む井手8人兄妹の長男 桃太郎が 膵臓癌で亡くなり 
一人残された 睦子おばを 元気にしようと 思いついた 長崎行きだったが、
「どうしても ちこちゃん(私のこと)に会って欲しい人が佐世保にいる」という睦子さんの提案で 
佐世保からスタートした。

羽田から私の友人関谷美知子、定年退職したばかりの夫、私、
大阪から単身飛行機で睦子おばが 、佐世保で合流。 
後から京都に住んでいるうちの長男も青春18でやってきて にぎやかな道行きだった。

すでに 佐世保のミチさんのお話や 睦子おばに活水女学院を 案内してもらった記事は
2008年に公開しているが (下に貼ったバックナンバー 同級生ムツコと活水を歩く 従姉妹ミチ)

佐世保に着いた夜 お会いした 森山一信、雅子夫妻のお話が 未公開だった。

響写真館の写真は 母夏木が遠い親戚にあたる 学芸員の森山朋絵さんにお世話になって 
東京都写真美術館に寄贈した と何度も書いてきた。

長崎行きの前日 思いついて 森山朋絵さんに連絡を取った。
森山さんは 佐世保出身なので 佐世保在住のご両親に ご挨拶だけでもできないかと 思ったのだ。

「佐世保は夜景がすばらしいから、夜はタクシーで高台に上がってね」とミチさんに電話で言われていたので、
夜景の見えるところを教えて欲しいと 聞いたら、
森山夫妻が 佐世保港を見渡せる弓張ヶ丘の 中華レストランを予約してくださった。
そこで森山一信 雅子夫妻と初めてお会いすることができた。


森山一信さんは 佐世保で 長年画塾を開きながら 創造美術会などで活躍されてきた 画かきさん。
 背が高く 低いいい声のダンディな方だ。 
「パパの絵は 昔はシュールレアリスム。今は普通の絵」「今は美術も宣伝の時代なのに この人口ベタなの。」
雅子夫人は 小柄で ケラケラよく笑う なかなか辛口の 楽しい方だ。 最初はもっぱら 雅子夫人が話された。

―  母の兄妹に聞き書きをして、インターネットで公開させていただいているんです。
   今日のお話も録音させていただいてよいですか?
雅子夫人 まあ すごい。楽しみ。いいですよ。
―  去年の夏に桃太郎さんにお話伺ったら、その2ヶ月後に亡くなってしまって
   貴重な話を録っておいてよかったなぁって。
雅子夫人  まぁ インタビューしとってよかったねぇ。もう先は何があるかわかりませんからね。
 ― そういえば、夫は高校の教員なんですけど、今日退職しました。
    終業式が終わって そのまま飛行機に乗って来ました。
雅子夫人  まあ、それはおめでとう! 元気で退職されてなによりですね。大変なことよ。
―   ミチコさんも 小学校の先生で、去年退職されたんです。
雅子  まあ おめでとう! よかった みなさんにお会いできて。 乾杯しましょう。
森山 僕の絵の教室にも退職された先生たちが多いんですが、話聞いてると学校も大変ですね。

青島ビールと紹興酒で乾杯した。


森山  ここから夕日がすごくきれいなんですよ。東シナ海にずっと沈む。
―  わあ、東シナ海かぁ。
根本 東京より 日没が20分くらい遅いんですよね。
森山  感覚的にはもっと遅いですね。野球放送を見てるとよくわかります。すぐにライトがつくでしょう。
     こっちはまだ明るいから。8時くらいまで 明るいですよ。
雅子夫人 東京行ったら夕暮れが早いから さみし〜くなりますね。(笑)

森山夫妻は 上野の美術館で審査があるので 毎月のように上京され、
一人娘の 朋絵さんのところにも 寄るという。
森山朋絵さんは 現在は 東京都現代美術館の学芸員で メディアアート部門で 活躍されている。

           東京都写真美術館

―    娘の佳奈が、東京都写真美術館で学芸員実習した時も、朋絵さんにお世話になりました。
雅子夫人 そうでしたか。朋絵が、夏木さんにお葉書を出したと思います。
―     まあ 朋絵さんの方から?
雅子夫人 ええ。西田のおじさんが、夏木さんに会いに行きなさい言ってたんで、
       あなたちょっとお葉書でも出したらって 私が言いましたもんね。
       朋絵が佐世保に帰った時に、西田のおじさんが病気で寝とらしたから、お見舞いに行ったんです。
      その時に西田のおじさんが、兄貴(傳次郎)が作ったビロードの表紙の写真集『長崎』を見せてくれたんです。
      わぁ こんなすばらしい芸術的な写真 
      こういうものは貴重だから、ちゃんとどこかの美術館に寄付した方がよいよねって話になって。
      ちょうど朋絵が東京都の写真美術館に採用されて開設準備をしていた時だったから、
      そこに寄贈しましょうかって 西田のおじさんが言われたの。 

西田のおじさん とは、井手傳次郎の弟で、西田家に養子に行った西田清一さんである。

後日朋絵さんに確認すると、何もかも東京に持っていくのもどうかとその時は写真集を預からなかったが、
「東京で傳次郎の長女の夏木さんと連絡をとってみなさい」と清一おじに言われたという。

朋絵さんは、筑波大学の芸術学科だった時に、
講演に来た 美術評論家針生一郎に会って 「遠い親戚らしいです」と挨拶をしたことがあったそうだ。
それで針生家宛に写真美術館で働くことになったと葉書を出したら、後日夏木が写真美術館を訪ねて来た。

その時、写真画集「長崎」と響写真館の写真も寄贈したいという話になり、
1990年にオープンした写真美術館に 2002年12月に寄贈することになったという。

響写真館の写真を東京都写真美術館に寄贈するのは、
傳次郎の弟西田清一の進言がきっかけだったとは! 


実は この夜は 17年ぶりに飛行機に乗り 佐世保に着いたばかりで
次々運ばれてくる 美味しい中華料理に きゃあきゃあしながら 
初めてお会いする 森山夫妻と 写真や系図を見ながら 話があちこちして とても消化できていなかった。
 
西田のおじさんという 肝心なキーパーソンも 石田さんと聞こえていたのか、
私も 小学生の時 母と会ったことがある 清一おじさんだとは 思ってもいなかった。 
睦子さんが今回の旅でどうしても私に会って欲しいと 翌日会うことにしている女性は、
西田清一さんの長女ミチさんだったというのに。
後日 朋絵さんに 写真美術館への寄贈の進言をしてくれた 石田さんとはどなたでしょうかと 
間抜けな 問い合わせをしている。 
 
当時は 井手兄妹のインタビューを 始めたばかりで  長崎についての知識もまったくなく
食いつきも悪い。 
最近になって 手つかずにいた録音を聞き直して 
自分が聞き流していた重要な話の数々に 赤面の思いだ。

いつもそうだが なにやら 私の中の熟成を待って 情報が発光を始めるような 気もするが・・・・


                西田清一さん


―   井手の兄弟とは交流ありませんでしたか。 
森山 全然知らないんです。
雅子夫人 西田のおじさん つまり清一さんと 森山の父 信伍が 従兄弟なんですよ。
       つまり傳次郎さんとも 従兄弟ね。
     写真持ってきたよ。 森山の父とと西田の清一おじさんは似とらすね。
     西田のおじさんの方がモダンだけどね。

森山信伍さん芳江さん 西田清一さん

     西田のおじさんはモダンかったね。昭和30年頃  自転車のサドルがすごい上の方にあるのに、乗ってた。(笑)
       
森山    戦時中は朝鮮の木浦で私の父森山信伍と同じ隊で 新兵の教育係の小隊長だったそうです。
      うちの父はバカ正直だから、雪の中でも走らせたり新兵訓練をまじめにやってたんだけど、
      西田のおじさんは「どうせこの戦争は負けるから、やらんでよか」って休ませてたらしい。

―    やっぱり井手の血統ですね。(笑)

雅子夫人 森山の家に おじいちゃん森山熊造さんの奥さんミヤさん(洗礼名マリア)のきれいな写真があって
       「これは誰が撮ったんやろかか」って聞いたら「響写真館」だった。
       そのミヤさんが 井手家の系列なんやろね。          
       玉屋(デパート)の前に森泊丁って佐世保で一番古くて大きな写真館ができて、
       そこも響写真館のお弟子さんが始めたのよ。

 
睦子  傳次郎さんも、最初は佐世保で写真の技術を習ったらしいですよ。
     傳次郎さんと梅子さんは東京で結婚して長男の桃太郎が生まれた頃は青山に住んでいたんだけど、
     関東大震災で東京でやっていた桐タンスの材木調達の仕事がダメになって、一時佐世保に帰ったそうです。
     ちょうどその頃傳次郎の父親の井手乙松さんが莫大な負債を負って破産して、
     傳次郎さんは父親の負債も返済しなければいけないし、何か仕事を探さなければいけない。
     それで写真をやろうって勉強を始めたそうです。
     佐世保で写真を習った先生は誰かわからないんだけどね。
     それから長崎に行って、上野彦馬の弟子の渡瀬さんに習ったらしいです。

                佐世保 海軍鎮守府


森山  佐世保は小さな村だったんですけど、明治22年に海軍の鎮守府ができて、軍港ができたので、
     隣接する佐賀や北九州、関西から一旗あげようって人がどおっと集まったんです。

なるほど。傳次郎の父乙松も海軍相手の食糧商を始めて当たったと言っていた。

森山  佐世保は村から町を通り越して市になったんですよ。
     海軍は割とモダンなので文化人もたくさん集まりました。
     軍楽隊のリーダーには音大出の人が来ましたし、音楽や美術もさかんです。
     九州で有名な音楽家がやるところは、昔は佐世保しかなかったんですよ。

睦子  西田清一おじさんも、戦後はピアノの調律を仕事にしたんですよね。
     戦後3度目の再婚されて生まれた子ども3人も、ヤマハの調律や音楽の方に進んでいる。

森山  西田のおじさんは、ずっと我が家のピアノの調律に来てくれてました。
     昔おじさんからオルガンをもらいました。

雅子夫人 この人ほんとはピアニストになりたかったのよ。
       小児喘息がひどくて 学校も秋はずっと休むし 
       音大に行く体力ないから絵の方に進んだの。 ピアノも上手よ。

―   西田のおじさんが音楽を始めたのは どうしてですか。
睦子 途中からね。まあ響にいた頃から。
―   響写真館に 清一おじさんも一緒にいたの?
睦子 いや、まあちょいちょい遊びに来てたんでしょう。

後日睦子さんに確認すると 清一さんは 兄貴の傳次郎が 写真館を始めたので 手伝いに住み込んでいたが
なんせ 楽しいおじさんだから 子どもたちは わぁわぁなっちゃうし 
そのうち お弟子さんも増えて 身内で暢気にしてるのは 示しがつかないから 
兄貴に追い出される形になったらしい。
  
―  傳次郎が音楽好きだったのは なんの影響ですか。 乙松さんの時代から?
睦子 いえいえ、長崎で仲のいいお友だちがいてね、レコード屋さんだったの。
―   そうなんだ。レコードだけでトラック何往復もあったんでしょ。
雅子夫人 うちにもレコードたくさんある。捨てられんのねぇ。でも全然聞かんたい。
森山 たまに聴くよ〜。いいのがあるから。
―  やっぱりハイカラですね、九州は。
雅子 やっぱり長崎とかは外国の文化が最初に入って来たからねぇ。

                長崎と佐世保

森山 でも長崎と佐世保は、ずいぶん気質が違うんですよ。
―  そうですか。違いますか。どういうふうに?
森山  県北の方はね、倭寇の系統で
根本 松浦ですね。
森山 そうです。 松浦の殿様の 昔は水軍とか言ったけど、
    それから 佐世保は軍港ができてから発達したので、佐賀や福岡、関西各地から人が集まってくる。 
    だから割と、かっこを気にしない。 開放的なんです。 悪く言えば、その場しのぎ。(笑)
―   なるほどねぇ。
森山 長崎は閉鎖的でしょ。天領だったし。
    周りが山で、なかなか出られんようなところを幕府が開港したわけだから。

根本 平戸から長崎に港が移ったのは、どういう理由なんですか。
森山 平戸じゃちょっと狭かったんでしょうね。
    平戸から横瀬の浦ってとこに移ったんですが、そこも狭くて長崎に移ったんです。

睦子 長崎は港が深いからよかったんでしょうね。
森山 そうでしょうね。佐世保は湾が広いから、連合艦隊が全部止められたんですよ。
雅子 佐世保は湾の入り口に 高後崎って岩がこう寄ってて、狭〜い所からしか入って来られんけん、攻めにくいのね。
    出ていくぶんはいいんだけどね。でもあそこから 原子力潜水艦も入ってくるけん、かなり湾は深いのね。
―   エンタープライズですね。 入港反対で 佐世保の名前覚えてます。
     長崎で15才の時に原爆に遭った人の本を読んだら、
     「長崎人はお上には逆らわず、人がよくてお人よし」 みたいに書いてあって
     夏木や自分を思い浮かべると なるほどって納得してたんだけど。
森山 長崎人同士で、ものすごく団結が強いんですよ。
    だからあそこに行って新しい商売なんか、できないんですよ。たちまち行き詰まる。
雅子 閉鎖的ね。キリスト教禁令も関係あると思うよ。外国文化が入ってくるところだから、水際を守ったと思うけど。

森山 長崎と佐世保は離れていますからね。
―   離れてますよねぇ。隣町かと思った。 東京と我孫子くらい離れてる?
根本 もっと離れてる。空港からすぐかと思ったら、80キロくらいありますかね。
森山 高速道路で1時間半かかりますからね。 
雅子 空港からのバスはほんとにのろのろでねぇ。ジャンボタクシーの方が早い。

根本 バスで来る時、左側がずっと海ですよね。あれは?
森山 大村湾です。ネックになってるところに、ちょうど西海橋があるんです。ちょうど
    桜の時期に、大きな渦潮が出るんです。すごいですよ、音がごうごう言って。
根本 18年前に 夏木さんにハウステンボスの後 連れて行ってもらって見ました。
森山 あそこはおいしい魚が獲れるんですよ。
     波が荒いから、筋肉の発達した鯛がとれるんです。

雅子  佐世保は魚はおいしいけど、料理はあまりおいしくない。
   兄が亡くなって元気なかったんだけど このまえ佐々ってとこで 白魚の踊り食いを食べたら 元気になった。

 ―   佐世保は ハンバーガーの発祥地だとか。2時間行列するところもあるとか。
雅子  佐世保バーガーね。 やっぱり米軍基地があるしね。
     ブルースカイとか。食べ切らんよ。大きくて。
森山 ブルースカイもあるけど、アメリカ人相手の もう一つあるだろう。 こうやって裏返して出す。
雅子  やっぱりブルースカイが一番有名かな。
     今来た道の資料館のところが、昔 BOQっていう外人のクラブだったの。
     そこにプールがあって、そこのプールサイドで売ってるハンバーガーがとってもおいしかった。
      今はないけどね。

                   キリシタン


―    森山さんは原爆には遭われてないですか
森山  ちょうど1ヶ月して 9月に 長崎へ行きました。おばさんが被爆したから。
―     じゃあ残留放射能浴びてますね。
森山   少しは浴びてるでしょうね。でも長崎にいた日にちは2、3日だから。
      ミチさんは次の日に行って、ずっとだからね。
睦子   原爆で西田清一おじさんの奥さんの千代さんや子どもたち4人が、亡くなったんですよね。

雅子夫人  はい。その話は、西田のおじさんがある日 うちに来て 悔やんでました。
     
       井手家も森山家も西田家も全部カトリックの信者やったけどね。
       昔は キリシタンは踏み絵をさせられて 信仰を捨てろって迫害を受けたでしょ。
       踏み絵をすれば宗教を捨てたってことで職業をくれるの。
       井手家は踏み絵をして石工の仕事をもらったの。
       あの眼鏡橋の建設にも関わったらしいわよ。
      
崇福寺や浦上教会の下の石垣等も、井手家の先祖が作ったと後で知った。

雅子夫人 井手家は全部転んだけど、森山家の先祖は転ばんやったけん、がんこかね。

転ぶというのは、キリスト教を捨てて転向することである。

雅子夫人 明治4年の最後のキリシタン迫害「浦上四番崩れ」の時も、森山家は踏み絵をしなかったのよ。
       片岡弥吉さんって 純心女子大の先生が書かれた 『長崎のキリシタン』
って本があるけどね。
       森山のおじいさん熊造さん?がまだ12才だった頃で、たくさんの流刑者と一緒に、
       縄で縛られて山口県萩の方まで連れて行かれたらしい。
       その時禁教令が解けて旅(流刑地に流されること)から生きて帰って来らしたから
       今、森山の子孫がおるわけね。

       流されたキリシタンは たくさん罰を受けるから 足に石を乗せられて
       熊造さんは足が悪かったです。

      「 信ちゃん(森山信吾さん)の先祖は転ばんやったけん、原爆では死なんかった。
       井手は全部転んだからバチが当たって。」
        西田のおじさんはそんな話ばしよらって 家族が原爆で亡くなったことを 悔やんでらしたね。 

             
                 佐賀人が多い佐世保


―  奥さんは佐世保生まれですか?
雅子  私は佐賀生まれ。 祖父は伊万里の淀姫神社の神主です。
     父は神社を継がず水先案内人をしていたので
     4才から香港に行って9才までは香港で育った。
     その後佐賀に2年間いて、それから佐世保に来ました。
―    傳次郎の奥さん(つまり私の祖母) 梅子さんも佐賀ですよね

森山  佐世保は佐賀の人が多いんですよ。
 睦子  梅子さんの実家の古賀は上代家老だったらしいですよ。
根本  上代家老って言ったら 参勤交代で 殿様が留守の間 お国を守る 筆頭家老だよ。
雅子 佐賀の人は梅子って多いのよ。
―   へえ なんでだろう。
雅子  なんでだかね。

睦子  もう数年前にチコちゃんがこの仕事を始めてくれたらねぇ 
     桃太郎や夏木も交えて みんなで集まれたのに。
森山 ほんとですね。もっと生きてたのに。
雅子夫人 そうそう。夏木さんとは電話でながーく話してね、いつか上京した時にはお会いしましょう。                       って言ってたのよ。お会いしたかったわぁ。  




この年の夏に、森山一信さんは急逝された。

お元気だったのに 後で知って びっくりした。
送っていただいた 2009年 森山一信展 光あるうちに ある画家のイマージュの 年譜を見たら
命日が 夏木と 同じ 8月17日だった。

話 聞いておいてよかったねぇ。もう先は何があるかわかりませんからね。
と この夜の最初に 雅子夫人が 桃太郎に対して 言われた言葉が 身に沁みる。

美味しい中華料理と 貴重なお話 今さらですが ありがとうございました! 
丘の上からの佐世保港の夜景が忘れがたい。





附記
 公開にあたって ひさしぶりに雅子夫人に電話をしたら
佐賀県多良に井手家が疎開していた話をしたら
佐世保教会の牧師さまが ネットで調べているうちに「わかりました!」と 
千絵さんの ブログ かんからかんのかあんを 全部印刷して持ってきてくださったという。
思わぬところで 読んでいただいている方がいらして びっくりした。
深澤牧師様 ありがとうございます!
              

右側カテゴリィ 長崎8人兄妹物語をクリックすると これまでの記事が 見られます。
公開の新しいものから辿る形式なので
私の弟の ブログに貼ってくれている ↓ 発表順の 目次の方が 見やすいです。
   
宿題   http://harryblog.exblog.jp/13907894/

| 長崎8人兄妹物語 | 22:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
Comment
わーおひさしぶりです!お元気そうでなによりです!そして、ブログにうちの両親の話をこんなに詳細にのこしてくださるなんて…(涙)。
ありがとうございます。
私はいつも仕事ばっかりで実家をかえりみない子でしたが、両親の仲のよさも含めてこんなに生きいきと書き残していただき、ほんとうに嬉しく、感謝にたえません。
これからも、ときどきこの頁を見て、両親と過ごした日々のことを思い出すことにします。

いま現美はリニューアル第1弾で短期休館中ですが、4月にはまた開きます。私は昨年、庵野秀明さんの特撮博物館展をやって(動員30万人!)、今年は10月3日からの吉岡徳仁展を前に、仲間たちと高知県立文学館で「文学×Media Art」展を開けて 戻ってきたところです。
写美さいごの展覧会が、東京→長崎→高知とまだ旅しているのです…次は博多と姫路です。
4月7日までやっている高知県立文学館の展示、もしお時間ゆるせばぜひ現地 へ…。
というのも、紀貫之や寺田寅彦を貴重なオリジナル資料とともに、現代作品やボーカロ イド/人気声優のサウンド作品として見せる、とか、思い切ったことをさせていただい
たからです。
そして、ご存じのとおり、高知は、何を食べても夢のように美味しく、暖かく、アーテ ィストらや私たち企画側全員にとって、素晴らしい転地療養になったのです。
高知は、宮尾登美子さん、倉橋由美子さんゆかりの資料や、ほんとうに文士の宝庫でした。
初代館長は安岡章太郎さんだそうです。 3月9、10日には「文学の手ざわり」ワークショップをやりにいきます。 またどこかでお会いしましょう!
2013/02/19 12:03 PM, from 朋絵
佐世保の巻をおもしろく読みました。
読者にも情報を受け取るための「熟成」期間が必要だったのかも。人物配置図がすんなりわかるようになりました。
いや、「ヨイトマケの唄」で発信者も受信者も脳内活性化したおかげかしら。
2013/02/20 1:20 AM, from ぱくこ









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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

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