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追求

「井手家は 片淵に移る前に 船大工町で 暮らしていたみたいで、
桃太郎が 大徳寺のクスの木で 幸蔵さんと遊んだ頃が 一番楽しかったって 
言ってたそうなんですよ。 睦子さんに 初めて聞いたんですが、 
幸蔵さん そのクスの木 覚えてらっしゃいますか?」

大阪に住んでいる 8人兄弟次男の幸蔵さんに 電話した。 
長男桃太郎が亡くなったので 井手家の最長老だ。 大正11年生まれ。 今年の秋に90才になる。

  「はあ そうですかぁ。全然覚えてませんなぁ・・・・」

幸蔵さんは いつも はじめは必ず まるで興味ないように 「全然覚えてませんなぁ」 とおっしゃる。

「しかし千絵さんは どこまでも 追求するのですな。 
よっしゃ 何か思い出したら 手紙に書いて送りまっせ。」
 
幸蔵さんは なぜかいつも 追求という 言葉を使う。
 
追跡ならわかるが 追求は なんとなく なじまない。 軍隊用語なんだろうか。

2008年秋に 桃太郎の1周忌で初めてお会いして話を聞いた後、
便箋12枚に 軍隊時代のことを書いて送ってくださった。
その手紙にも 追求の文字がある

日本軍の構成は 天皇の統帥権は、具体的には連隊長に直結して、

天皇 → 連隊長 → 大隊長 → 中隊長 → 小隊長 に与えられて 一貫します。

他部隊の長も、特に前線では 命令することは 出来ません。
もちろん 山中で出会えば、敬礼はせねばならないが、他部隊の長に 命令されることはないのです。
他部隊の 迷子の兵がいたとしても、余裕がなければ 捨てたものです。

小隊は ふつう4個の分隊に分かれるが、内務班として統一されています。
内務班長は、最古参の 下士官がなる。
朝晩の 点呼をして、隊員の数を 点検して、週番士官に報告するのです。 
脱走兵や 事故兵を 把握せねば、戦争はデキナイからです。

連隊長は、天皇から 連隊旗を 手渡されて、
 連隊旗を (天皇の自称)と思え  と しつけられていました。

だから 我々も地球の果てまでも 本隊を追って 追求せねば具体的な軍人とならなかったのデス。
一緒でなくては戦争のしようがないから。

軍隊は、不合理が 本質なので 今さら 悪口を言っても話にならないからヤメます。

                                 (コウゾウその1 http://kankarakan.jugem.jp/?eid=672



追及はやはり軍隊用語で、部隊が本隊に追いつき合流することを言うらしい。 

幸蔵さんは昭和18年12月1日、21才で、学徒出陣で久留米の予備士官学校に入り、
長崎県大村市の陸軍歩兵第47連隊に入隊した。
これは 留守部隊で 本隊は インパール作戦 烈師団。
本隊を追求して 
シンガポールまで追求し そこで 幸いにも終戦になったという。
 
戦後 疎開先の多良で 台風で糸岐川が氾濫した時も
泉 清明 徹生の3兄弟が 父親の大事にしていた 盆栽が流れるのを
「流れろ〜流れろ〜」と喜んで歌っていたのに、
戦地から復員したばかりの 幸蔵さんは 村に救援を求める伝令として 一人糸岐川に飛び込んだ。

「そりゃもう 指揮官の命令には絶対服従ですから」

今では 井手家の 笑い話ひとつ話になっているが、
悪ガキ3傑の アホみたいな がなり声と、 
父親の命令で 川に飛び込んで 濁流に流された 幸蔵さんの対比が ちょっと悲しい。

幸蔵さんは 奥さんの道子さんと 2人暮らし。
足腰が痛い 奥さんの代わりに 買い物など 日常的な仕事も こなしている。

 「そりゃ 指揮官の命令には絶対服従ですから」

と 奥さんの道子さんのことも 指揮官と 冗談めかして言う。

学徒動員時代に洗脳されたことは 80才を越えた今になっても 肌に染みついているのだろうか。
それをジョークのように言うことによって 当時のバカらしさを 冷笑しているのだろうか。  
この兄妹に特有の いや これまで会って話を伺った長崎の人たちに 共通の
一番肝心な悲惨なことを なぜか 茶化して言う 体質のためだろうか。

2008年 睦子さんが 大阪で開催される アルバムエキスポの 新聞の切り抜きを私に送ってきた。
そこに 徹生が送ってくれたアルバムで 滑り込みエントリーしたら、入賞した。 
(けっこう  睦子さんに 仕掛けられてる私。 笑)
 
その時 私が 大阪に日帰りで 見に行くと言ったら
睦子さんが 声をかけて 大阪の幸蔵さん、 奈良の泉さんも 梅田HEPホールに見に来た。

みんなで 会食した後、 東京に戻る新幹線の時間まで 鶴橋にちょっと行ってみたいと 私が言ったら 
生野に住んでる 幸蔵さんが 一緒に環状線に乗って 鶴橋で降りて ついてきてくれた。

「一人で 大丈夫ですよ〜〜」 
86才(当時)のおじさんに 私の 気まぐれな思いつきにつきあってもらうのは 申し訳ない。

「いやいや 指揮官の命令には どこまでも お供しますよ。」 

幸蔵さんはお茶目に笑って、コリアンタウンの迷路を 一緒に歩いた。
幸蔵さんと話すのは、その日が2度目だった。

「幸蔵さんは 非人間症のようになって 僕たち兄妹とも 口をきかなくなったのです。
徹生の アルバムを見にくるなんて こんなことに 出かけてくる人じゃなかったのです。
びっくりしました。 すごいですよ。 
千絵さんのおかげで 僕も初めて 幸蔵さんの 戦地の話を 聞きました。」
梅田の改札口で 待ち合わせた時 弟の泉さんが こっそり 私にささやいた。

徴兵は 家督を継ぐ長男は最初は猶予され、 赤紙はまず次男三男に来た。
だから 井手家も 長男 桃太郎より 次男 幸蔵が先に出征したし
カーネーションでも だんじりの屋根に登る屈強な長男ではなく、へたれの 次男がまず出征した。

学徒出陣が始まるのが 昭和18年。
当時は 今のように多くが大学に行く時代ではないから
日本の未来を担う頭脳集団として それまで保護していたエリートたちまでも 
戦況の泥沼化と 人員確保で いよいよ駆り出さざるを得なくなった。

理工系は 兵器開発などの 頭脳集団として 最後まで猶予し、
まずは 文化系学生が 駆り出されたのだ。

 しかし 入隊した新兵が 軍の規律やすべてを習う 直接の上官は、 
貧しい農村から 口減らしの意味もあって 先に出された次男三男が多く 
裕福で 高等教育を受けていた エリート学徒兵には 本来ひがみもねたみもある。

軍隊の序列しきたりと 「テンノウヘイカ」の名の下に 理不尽な暴力が どれだけあっただろう。
また にわか仕立ての 学徒兵が 古参の兵を 出し抜いて 上官になるケースも多かったという。
ここでも 兵士たちが戦っていたのは 直接見えない鬼畜米英ではなく、
同じ同胞の 共食いだったと言える。

「もう人間が変わりましたから。 
そりゃあ 軍隊に入ったらね、 変わらなくちゃ、やっていけないし。
そりゃ もう 色々・・・ありました。 
そのうちまとめて 書いて、お送りしますよ。それを、好きなように脚色して書いてください。」

桃太郎の一周忌に初めて話を伺った時、 幸蔵さんはこう言った。

19才の学徒兵を 非人間症に陥らせたのは 何か。
幸蔵おじさんに 一番聞きたいことには まだ踏み込めないでいる。


 



 

 

 

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