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長崎活水高等女学校 同級生 タミ

11月末 母夏木の 長崎活水高等女学校と専門科(英文科)の同級生 
旧姓 木藤多美さん(鹿児島在住)に 初めて 電話した。

折あるたびに 私の代わりに 同級生から 情報収集してくれている 大阪の睦子おばが
「木藤さんは 学徒動員も夏木と一緒だったし、色々情報が得られるかもよ」と 教えてくれたのだ。

以前インタビューを公開した 同じ活水同級生で 幼稚園から一緒だったピアノ科のタエ子さんの家で
活水同級生が子連れでやっていたクリスマス会で 私も子どもの頃 お会いしたことがある。 
今夜は クリスマスイブなので 84才の同級生たちに 昔話を プレゼントしよう。

「夏木の娘の千絵ですけど・・・・」
「わぁ 千絵ちゃ〜ん、覚えてますよ〜。 マサキさん(タエ子さんの旧姓)の家のクリスマスで 
千絵ちゃんピアノ弾いてたよね〜。 
私は 戦後 東京や鹿児島の3ヶ所で 英語を教えていましてね、 
最後の教え子が 今話題の 東大の原子力工学科の一期生なの。
六大学美術コンクールっていうのが 当時ありましてね、 その教え子と芸術部の仲間たちで 
あなたのお父様の評論を 読んで議論を戦わせたことがあったけど、とてもむずかしい本だったそうよ〜。
千絵ちゃんは 奈良で結婚式したでしょう? 夏木が写真を 送ってくれたのよ〜。
睦子さんから 聞いたわよ〜。 夏木のことを 調べてるんだって?」

こちらが質問を投げる隙もなく 話はあちこちにどんどん進む。(笑)
それでも、ご自分で軌道を核心に修正されて、 話が早い。 

木藤さんは、活水卒業後、久留米師範学校付属中学で英語を1年教えた後、
もっと英語の勉強がしたいと 活水の家政科の先生だったブルナーさんを頼って 昭和22年頃 上京したらしい。
夏木も 大村師範学校で英語を教えた後、タエ子さんの話で 昭和22年の秋頃上京したとわかったので、
ほとんど同じ時期に 上京したことになる。 (これはまったくの偶然で お互いに相談もしないし、知らなかったそうだ) 

「あ ちょっと待って。今 人が来たから 5分後にかけ直します。電話番号教えて。」
「いえいえ 私からかけますから」
「いえ こちらからかけます。番号教えて。」
私がおずおず番号を言うと 「two? 最後はtwoね? 数字だけは、英語で確認した方がいいのよ〜。」
なるほど。 そうかもしれない。
さすが英語の先生らしく すばらしく発音のいい トゥーで 私の電話番号を確認して 電話は切れた。

きっちり5分後に 電話がかかってきた。
「すみません、お客さまだったら またおかけします。」
「いいのいいの、植木屋さんが打ち合わせに来たんだけど、またにしてって帰ってもらったから。」
「え? いいんですか?(笑)」
「いいのいいの。 それより うちは主人が85才で私が84才でしょう。 
お互いに耳が遠いから いつも大声で話してるから 喉がかれちゃって。(笑) 
今 のど飴なめてきたから大丈夫。 ハイ、で、お聞きになりたいことは?」

アハハ さすが篤姫を生んだ薩摩の女性は 圧倒的だ。  以下 多美さんのお話。

活水の中でも だいたい2人組で 仲良しだったのよ。 
マサキさんとイトキが仲良し。私と夏木が仲良し。
睦子さんは 途中で転校してきたからね、ちょっと 後からのお友だちなの。

私と夏木は英文科で 高等女学校から 専門部の英文科まで ずーっと一緒だったのよ。
2人とも 大の読書好き、音楽好き。 趣味が共通だったのね。
それに 我が家は父がロシア語の専門家で、活水の下のもと居留地に住んでたのね。 
周りはイギリス人、デンマーク人に囲まれていたでしょう? 
なんとなく ハイカラというか 外国かぶれのところが 響写真館の 夏木と 生活環境が似てたのよ。

それに 夏木と私は同じピアノの先生に習ってたのよ。
お諏訪さん(諏訪神社)の横の 高見先生ってすごく背の高い先生でね。
170センチくらいあったけど、ほんとに美人で素敵な先生だった。

我が家にも、夏木の家にも 当時としては珍しい電蓄や洋書、文学全集が揃ってたしね。
お互いの家にある本や、図書室にあるものを乱読して、お互いに感想を交換していたの。

夏木はフランス文学がお気に入りだったみたいで、バルザックの 『谷間の百合』とか
『ゴリオ爺さん』 ジイドの『狭き門』 アナトール・フランスなんかを 読んでいたわね。
私はロシアやドイツの本が好きで、ゲーテの 『若きウェルテルの悩み』とか トルストイの 『復活』
ドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』などが好きだった。

あの時代はテレビもないし、街中にある映画館は、女学生は保護者同伴じゃなきゃ入れなかったので
読書が最大の楽しみだったのね。

音楽の趣味も共通しててね。やはりシューベルト、ショパン、べートーヴェンが人気。
夏木は音程のしっかりしたアルトで、シューベルトのリートが一番だったけど、
べートーヴェンの「アデライデ」という歌曲も好きだったわね。
家で歌ってたら、桃太郎兄さんか幸蔵兄さんだかが「アデノイド、ああ、アデノイド」って
からかって歌うのよ〜って 憤慨してたわ。(笑)

夏木はテニス部で 才色兼備っていうのは ああいう人のことを言うのね。
夏木はおませさんで、刺激的なことをたくさん教わったわ。
私も6人姉妹の末っ子で 姉たちから色々教わるから おませさんだったけど。
2人で 秘密のやりとりもしてたのよ。 女学校の2年の時だったかな。

人に知られたら困るから ペンネームにしましょうってことになって。(笑)
夏木は みどりっていう ペンネームにしたわね。

― 碧は 赤ちゃんの時に死んだ 自分の姉の名前ですね。

さっすが千絵ちゃん、よく調べてるわね〜。
そうそう 自分の姉が みどりっていう名前で 生まれてすぐに死んだから
次に生まれてくる子は 夏の木のように 丈夫にたくましく生きるようにって 願いをこめて 
生まれる前から 夏木って名前が決まってたって お話をしてくれたわ。

秘密のやりとりとは言っても、テストの点数とか、本の感想とか、 
それから 夏木が上級生に手紙をもらってそれを先生に届けるかどうか とかね。

活水だけじゃないと思うけど、女子校では自分の気に入った下級生に上級生が手紙を送って、
手紙が下駄箱に入ってたりするのよ。
それをS(sister)になるというんだけど、学校では禁止されてたの。
だから手紙をもらった人は必ず担任に届けなければいけなかったのね。

夏木は才色兼備で ファンも多かったから 困ったと思うわ。
あの時代は、今の学生には想像できないほど、学校からも親からも管理されてたのよ。
まあ、自分たちは、特別不自由とは思っていなかったけどね。

活水はね、校舎の裏門から登下校する組と、表門から南山手方面に登下校する組に 分かれてたのね。
夏木は裏門組で 私は表門組だったから、登下校の時に ワイワイ情報交換することができないのよ。
それで 秘密の手紙をやりとりしてたのね。

表門、裏門の話で思い出したけど、 校舎の前で 両方の登下校組が「おはよう!」と顔を合わせる場所があるのね。
ある日 夏木を見たら、お弁当の入った 小さな袋だけ ブラブラ下げてニコニコしながら 歩いて来るのよ。
「夏木、カバンは?」って 聞いたら キョトンとして 「エッ? アッ!! 忘れてきたみたい!!」
さすがの夏木もあわてて、 小使い室に走りこんで 電話を借りて 家から 女中さんが カバンを届けた
ってことがあったわねぇ。(笑)

夏木はおしゃれだったしね。 母親の梅子さんが、とってもモダンなインテリって感じだったでしょう?
梅子さんは 東京にいたとき、岡本かの子の弟子だった(和歌?)って 夏木が言ってたわ。

― へえ? それは初めて聞きました。 たしかに梅子さんは 死ぬまで和歌を書いてました。

戦中も戦後も、あらゆる物資が不足してたでしょう? 
衣料もほんとに 今からみればみすぼらしい格好だったんだけど、みんな自分なりに工夫してたわね。

ある日夏木が黒いズボンにとてもステキなダーク・ブラウンのビロードのジャケット着てきてね、
わぁそれどうしたの?って聞いたら、夏木がニコリと笑って 「実はこれ、お店のカーテンなの」って。
(サウンドオブミュージックみたい。笑)
野口さんて洋裁やってる方が、作り変えてくれたみたい。
遠足など 自由服でいい日は、 梅子さんが選ぶのか とてもセンスのいい上質の服を着てたわ。

― 多美さんと夏木は、ケンカ仲間だったとか?

いえいえ、夏木さんは ケンカってものをまったくしない人でしたねぇ。
夏木の激しい言葉はみたことない。 宮沢賢治じゃないけど いつも静かに笑っている。 
ケンカ売ってるのは、こっちでね、それでもまったく乗ってこないの。(笑) 
性格的に トラブルを好まないのね。
 
そもそも 夏木の走ってるところを 見たことないわ。
遅刻しようが何しようが、決して走らないの。悠々然と 全然悪びれず。(笑) 
みんな待ってて いい加減イライラしてるのに 
「みなさん  こんにちわ〜」って笑って言われると 怒れないのよぉ。

― 多美さんと夏木は 学徒動員も一緒だったとか?

三菱兵器の大橋工場に 通っていました。 
中は広ーくて 建物がたくさんあってね、(20棟くらい) みんなバラバラでしたね。
夏木は ゼンソクがあって からだが弱かったから 事務方に回されたんじゃないかしら。

大橋工場の工場長が 全員を集めて 発会式で訓示したのを 覚えています。
他の学校の人も 学徒動員兵が 大勢いたんですよ。 それを ズラ〜っと並べて

「今から みなさんは お国のために 働きますよ。 
 物資がなければ 精神力で補わなければならない。必ず精神力で補えます。」って 
工場長が話したのだけは よく覚えているわ。 洗脳が始まったのね。

でも 何しろ物資のない頃でしょう。 残業の時とか 夕食に 大豆の入った雑穀なんだけど お弁当が出たのね。
私はそれが楽しみで・・・(笑)  だから学徒動員は けっこう楽しかったわね。

大橋工場には 旧制七高(今の鹿児島大学文理学部)の人も 学徒動員で来ててね。
「デカンショ〜 デカンショ〜で 半年くらし〜」 って歌知ってる? (デカルト カント ショーペンハウエル) 
旧制中学って 帝国大学に入る前の 大事な教養の時期なのよね。
そのバンカラな男子が何人か来てて、 女生徒と あちこちロマンスもあったのよ〜。

大きな鉄板の机の上で 七高の男子学生2名と活水の女学生2名が向かい合って
小さな部品に 黙々と コンマ何ミリって 印をつけていくの。
七高生は 大きな図面を拡げていた。
私の工場は 飛行機の部品 って言ってたわね。 非常に小さな部品を作ってた。
でも 本当のことは 私たちには 知らされなかったと思うわ。
私は 途中から トンネル工場の方に回されたんだけどね。

夏木が言ってたんだけど 七高の男子学生の中に すごい右翼で ひげの濃い人がいてね、
昼休みになると 広場に円陣を組んで 皇居の方に向いて 頭を地べたに 押し当てて 東方遙拝をするんだって。
平野国臣の 「わが胸の 燃ゆる想いに くらぶれば けむりはうすし 桜島山」って 和歌を詠んだりしてね。
夏木さんも 日本女子大の女の人に誘われて その東方遙拝にむりやり参加させられたりして
「困るのよ〜」って 言ってたわ。

― 夏木は 父親傳次郎が こんなバカな戦争は負けると言って 佐賀に疎開したのに 一人長崎に残ったし
やはり軍国少女だったのだろうかって 思ったんですが。

まあ あの時代はね。 でも夏木は 何に対しても 過激じゃないというか
今考えると こうだ!って 色分けしない人だったわね。 

―  多美さんは 原爆の時は?

うちは 父が外務省で もと居留地の 南山手32番地に住んでいたんですけどね、
うちが 要塞司令部になるかもしれないっていうんで 家族は島原に疎開したんです。
(後で聞いたところでは、結局我が家は 三菱が買ったらしいわ。)

でも 私の姉の ちえ子が 活水の音楽の先生になってたんですね。
で結婚して 南山手16番地の 沢山さんって財閥のお宅が持っている貸し家に住んだので、
妹の私も そこに住まわせてもらって 学徒動員に通っていたの。

ところが たまたま 膝に水がたまって 関節炎になってしまってね
福井整形外科に行って 10日間の休養って 診断書を書いてもらって 島原に帰ってたの。

―  え? じゃあ 原爆に遭わずにすんだんですね! 夏木と同じだ。

そうなのよ。 たまたまね。 島原にいても 赤いような 不気味な色の雲が 見えたんですよ。
空中爆雷とか 新型爆弾とか いろんなウワサが飛んでね。

10日ぐらいしてから 隣が警察署長さんだったので、警察の車で 私たち家族3人を乗せてくれて 
長崎まで 行ったのです。 南山手にいる 姉が心配でした。

浦上の方から 長崎へ入ると もう 目も覆わんばかり。 見るも無惨な惨状でした。
大八車で 死体を運んでいる人がたくさんいました。

長崎駅付近で 車が朝鮮の方たちにとり囲まれて 「チョーセンチョーセンパカニスルナ パカニスルトコロスゾ」って 
車の窓を バンバン叩かれたのが とても怖かった。
警官が 窓を開けないでくださいって さあ〜っと車を動かして その場を逃れ 南山手に辿りつきました。

― 桃太郎の話でも、長崎には炭鉱で働く 朝鮮の人たちがたくさんいて、
毎日 落盤事故で 何十人死んだとか言ってました。 

そしたら なんと姉は 脱出して 私たちとは入れ違いに 島原に帰っていたのです。

― よかったですね〜

三菱にいた親戚は、急性白血病になって 1ヶ月後に死にました。
活水でも 先生や生徒が70人以上死亡しています。全身にガラスの破片がつきささった友だちもいます。

夏木が どこに住んでたかっていうのはね睦子さんにも 聞かれたけれど 私も知らないのよ。
西山の 野口さんっていう お店か何かやってた家に 寄宿してたんじゃないかって 睦子さんは言ってたけど。
あの当時は みんなが バタバタだったから 当時の話を聞くのは 大変だと思うわ。 

戦後 2人で一緒に 佐賀に旅行にも 行ったのよ〜。
井手家は 佐賀に疎開していたでしょう?
夏木さんが 「佐賀の人たちはね おもしろい言葉を使うのよ〜」って 膝を乗り出して
「ところで・・・」と言う時 「さらばのまい」って 言うのよ〜って (笑) もう みんなで 大笑い。
by the way ですね。 「さらばのまい」 って もう いっとき 私たちの間で 流行りましたね〜
「さらばのまい」  (笑) 

結婚してからは お互いに 子育てに忙しくて だんだん 疎遠になったけど
私の息子が 中学生の時 夏木さんは 遠山啓先生の 『ひと』 っていう雑誌の 
母親編集委員に なってたでしょう?

英語教育の特集があって 私も 英語教育と母親の立場から 現場の意見を発言してくれって
夏木に頼まれて 座談会に出たことがあるのよ。
夏木さんは 座談会の司会で 遠山啓さんとか板倉聖宣さんとか 有名な先生方がたくさんいる中で、
平凡な一母親である私が自由に発言できるように 雰囲気を作ってくれて 実に冷静な司会だった。
おかげで 私も堂々と先生方に反論したりして(笑) とても楽しかったわぁ。

それから 私は 鹿児島に移ったので なかなか会えなくなってしまったけどね。

夏木の話は くめども尽きないわねぇ。 思い出すと きりないわ。
夏木がいなかったら 私の青春時代は 生彩のない平凡なものだったわね。 これ おせじじゃなくて ほんとよ。
千絵さんの、お話ぶりや声の雰囲気も 夏木とそっくりねぇ。 なんか夏木と話をしてるような気になるわ。
とてもとてもなつかしいわぁ。





電話でお聞きしたことを 鹿児島に送って 赤ペンで修正していただき、
さらに便せん7枚!に 補足で書いていただいたものを 構成しました。
多美さんは、80才までは 毎年アメリカやヨーロッパを旅行されるほどお元気だったそうです。
81才で病気されてからは、弱ってしまってと書いておられましたが、
どうしてどうして 電話だと とてもお元気。 圧倒されっぱなしでした。
どうぞ お元気で。 また 愉快な話を 聞かせてください。    メリー・クリスマス!





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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

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