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津崎写真館 津崎和朗さんのお話

雨がぱらついてきたので、糸岐川沿いの 水車小屋跡を 引き上げる。 

― 泉さんが、毎朝、有明海からのぼる朝日に敬礼していた 高台はどこなんですか。
泉  高台じゃないですよ。 もっとむこう。川を下ってちょっといけば、有明海はどこからでも見えますから。
津崎 うちの前から みえますよ
糸岐川の先は 有明海

若芝 戦後、海岸は一部デコボコしとったけど、金のある人たちが自分で埋め立てました。
     戦前は その橋のすぐ先が もう海だったのです。

この後 津崎写真館と看板のある 津崎さんのお宅にお邪魔して、津崎和朗さんに お話をお聞きした。


―  おじゃましま〜す。 すてきなおうち。わあ 火鉢がある。(きゃあきゃあ)
    これ昔の建物のままですか? 
津埼 いやいや建て替えた。むこうが(川に近い庭の方)写真館でした。
    はじめ写真は2階でやっとったですが、写真がストロボになったでしょうが。じゃけん下におろして、ここでやっとった。 
    
長崎の響写真館も写場(スタジオ)は2階だ。 NHKの朝のドラマにもなった田辺聖子さんの
大阪の実家も写真館で 2階が写場だった。 自然光を取り入れる必然からだったのだ。

津崎 終戦直後ですから、材料がなくてね。 うちの山の木を切ってきて、建てました。
    暗室は土蔵に、地面のところは石ころ入れて。

―  津崎さんのおたくは お醤油屋さんだったんでしょう。
津崎 米や醤油 なんでも売っていました。
―  井手家は長崎から疎開して まず津崎さんの広い家に7人で転がりこんだと聞いています。
津崎 私は、兵隊でおらんけんね。 その時は知らんのです。 特攻隊でしたから。
―  え? 津崎さん、特攻隊だったんですか? 知覧にいたんですか?
津崎 知覧には行ってません。その前に、まだ訓練兵でしたから四国の松山にいたんですね。
    4人だけ 訓練兵が残ったのです。
―  まあ、なんという! よかったですね〜 花と散らなくて。
 
津崎  内地だったので、終戦になったらわりとすぐ帰れました。
    私が帰ってきた時は、もう井手家は多良にこんさっとですよ。
―   昭和20年の春には、長崎から多良に引越してきたようです。 
     写真の道具とかも手放さないで持って来たんですね。
津崎  はい。トラックでみんな運んで来られたようです。 昔のカメラですからね、なにしろ大型で。  
     
     そしたら 井手先生に「津崎くんは軍隊で何をやってきたか」って聞かれて。
     写真の道具持って来てるから、教えてあげるから、写真をやったらどうだって言われました。
―  まあ、じゃあ、昭和二十年の秋には、傳次郎から写真を習ってたんですね。 
    津崎さんの家で教わったんですか? 
津崎  私が水車小屋まで行ったり、それから井手先生が自転車で来られたり、行ったり来たりですよ。
     この川沿いに桜の並木があってね。そこを先生がばああ〜と自転車でかけてくる。

津崎  一番の思い出はね、鹿島市ができたとき、何かの出張撮影に井手先生について出かけたんです。
    その当時は、キャビネ判で撮ってたんですが、ガラス乾板を半分にして撮ってたんですよ。
    それで半分残ったもんだから、「おい、写真撮ろうか」 「誰をですか?」「おまえの写真ば撮ろう」 って。 
     これが、その写真です。「おらは写らん」って言ったんですけどね。(笑)

                      
―   わぁ! 若い!津崎さん、若い自分とツーショットで撮りましょう。

津崎さんがアルバムを見せてくださる。

―  わぁ! 長崎の響写真館だ! 傳次郎もいる! 



津崎 これは、僕が撮った写真です。



―  そうそう、傳次郎はいつもルパシカを着て、パイプをくわえていたそうですね。
    左の小さい写真は 津崎さんですか? 超ハンサム! 映画俳優みたい。
   これもガラス乾板ですか?
津崎 その当時だからガラスです。
―  傳次郎は修正の技術が高かったそうです。津崎さんもすごく技術が高いですね。 すごいきれい。
津崎 先生は写真のことに関しては、ものすごくやかましかったですもんね。

 ―   津崎さん、傳次郎にかわいがられてたんですね。怖くなかったですか?
津崎  怖くはなかったですね。
―    子どもたちはすごく父親が怖かったみたいだけど。
津崎  徹生さんたちはよく怒られてましたね。
 ―  そうそうそうそう。(笑)
津崎  まちがったことをすれば怒られますよね。傳次郎先生はそういう性格です。
     その点は僕は軍隊で仕込まれてますから。
―   なるほど〜。

津崎  集合写真を撮りに行ったことがあるんです。 
     普通はそういうのは弟子にやらせるんですが、たまたま先生が撮影に行った。
     議員さんが 「おおい、写真屋はまだか」って怒鳴ったらしい。
     そしたら先生は「おい、カメラたため。 帰るぞ」って帰ってしまった。
―   キャハハ 帰っちゃったの? 傳次郎らしい。(笑)
津崎  先生はそういう性格ですよね。 自分の約束はきちんと守るが、えらい威張った人に頭を下げない。                     
    東京の資生堂の社長さんとか、そういう方たちとのつきあいも多かったですね。

―   え? 資生堂の福原さんですか?
津崎  誰だか知りません。
―   資生堂の福原信三さんだと思います。 傳次郎と 芸術写真社をおこした資生堂の福原信三さんと
     交友があったのではと 去年から調べていたんですが、
     福原信三さん直筆の井手傳次郎様という宛て書きがある 福原さんの写真集が 
     泉さんの家から 最近見つかったんですよ。
津崎  長崎来ると響に寄りはって、酒飲みなさるんで、一晩中話ばされて、泊まっていかれたと 聞いてます。
―   福原さんは、全国の写真館主と 交友あったからと 聞いていたのですが、
     長崎に来た時は 響に泊まるほどの仲だったんですね! 去年秋からの疑問に確認取れてうれしいです。


―   津崎さんは、何年からここで写真館を始めたんですか?
津崎 昭和21年。
―  ええ? 20年秋に 兵隊から帰って、写真習って、21年にはもう始めたんですか? 早い!
津崎 昭和21年11月3日、新憲法発布の日に津崎写真館をはじめました。
    そこにあるでしょう? これを見てください。 

縁側の方の 鴨居に額がかけてある。
はずせないので 椅子に上って見ると・・・・・    
                                             
―  へええええええ すご〜い! 傳次郎直筆のご挨拶が 飾ってある! 


 昨春 奇縁ありて 御当地に疎開以来 郷党各位の 御厚意と 御懇情と依り
 幸い 安住を得ました事を 衷心感謝いたしたいと存じます。

 就きましては、 かねてより昵懇の 津崎令息和朗君が 終戦帰還後
 性来愛好の 写真術修得の 希望を寄せられましたので
 再建写真文化発揚の 幼苗(ようびょう)として 嘱望の 好青年と認め
 爾来 一年有余 精根を尽くし 修練の結果 
 漸く(ようやく) 専門家としての 素地完成の 折から
 今秋来計画中の 新写場も落成の域に達し 
 いよいよ三日 新憲法公布の 佳節を卜し 開業されましたので
 不肖私常用の 写真機一切を持参 引き続き 全責任を以て 撮影指導の任に当たり
 必ず 各位御要望と御期待に 副い奉るべく 何卒 御鞭撻(ごべんたつ)御愛顧の程 お願い申し上げます。 

                                元 長崎市写真館 響 本館主
                                         井手傳次郎 識 



―  まさに 響写真館の お墨つきじゃないですか! すご〜い! 私も お宝発見だ!
津崎 ずっと 写真館の ガラスケースの中に 飾ってたんです。
 

津崎さんが 箱に入った アルバムを2冊出してくる。
なんと 井手傳次郎が 生前出版した 写真画集 『長崎』 と 『雲仙・島原』 だ。
開業祝いに 傳次郎が 贈ったものらしい。


―  わ、これは、まるで新品のようですね。 今うちにある母のより、ずっといい!
津崎 写真を大事にされることは 井手先生に教わりました。
泉  いや〜、こんなに大事にしていただいて。 僕ら不肖の息子たちは、ダメですなぁ。(落ち込む)
―  写真美術館に寄贈したものより、ずっといいですね。 響写真館のスタジオで撮った写真400枚位と
   写真画集『長崎』は、まだ母が元気な時に東京都の写真美術館に寄贈したんです。
    雲仙・島原は、 私初めて見ます。
泉  うちに2部ありますから お送りします。 僕は 長崎より 雲仙・島原の方が 自然が多くて好きです。

―  傳次郎は、津崎さんのことを すごく高く買ってたんですね。  写真館の開業もすごく嬉しかったんですね。
    こんな 挨拶文を書いてくれたり 開業祝いに 写真画集を贈ったり。
    
津埼  井手先生から最初は 長崎ば引き受けろって 言われたとですよ。片淵町をですね。
―  え?響写真館をですか?へえええええ。 それは びっくり。

津崎 でもそんなん、こっちに余裕もないし、お袋からえらく怒られました。
    なんで長男坊が 長崎に行かにゃならんかって。 
    どこにも行くな。 せめて鹿島にしてくれって やかましい言われました。
―   鹿島にも 写真館を出されたんですか。
津崎 いや、鹿島には出しませんでした。話だけで、お袋に止められたから。

―  津崎さん、素直だから 傳次郎に かわいがられたんですね。 響をやれって言われるなんて。 
   傳次郎は気むずかしいから お弟子さんもついていくのが大変だったみたいですけど。
   井手家だって 息子が5人もいるのにねぇ。(笑) まだみんな小さかったからかなぁ。
   長男桃太郎 次男幸蔵が 復員する前だったのかなぁ・・・・

    でも 傳次郎は やはり長崎の響写真館を 再興することを 考えていたんですね。
   なぜ 戦後長崎に戻らなかったのかが 私にはすごく不思議だったのです。 

津崎 原爆の後 井手先生は 家のことで長崎にちょくちょく行くようになったですもんね。
    そしたら先生が あるとき、「おう、響写真館を売って来たぞ」って。 
    当時のお金で5万円ですよね。 当時5万円って言ったら大金です。

―  なんか石鹸とか くずみたいな宝石と 響写真館は交換になったと聞きましたが。
津崎 「今現金はないけんが、これをやっとく」と言われたらしく、
    私が見てもくずみたいな石ころをもらって来なさったんですよ。 
   
    私も忠告はしたんですよ。「先生、そがん大金ばよかとですか」って。
    「いや、あれは信用しとるから」って。 私もそれ以上は別に言われんけんね。
    そしたら結局 最後は泣き寝入りっていうか。
―  ええ? じゃあそれだけ?5万円はもらえなくて、そのくず石だけ?
    だまされちゃったのかなぁ・・・・
    長崎県自転車振興会というのに売ったようで 登記もそうなっているんですが、
    間に入った 複数の人の思惑で 売却がうまくいかなかったみたいです。  

   長男桃太郎が管理していた傳次郎の手紙を、つい先月、私も初めて見たんです。
   奥さんの睦子さんが 一箱送ってくれました。
   傳次郎が 「響を再建するための大切なお金だから、お金を払ってくれ。 
   家族も 水害で困窮を極めている」っていう 内容証明つきの手紙がたくさんありました。
   昭和29年頃まで 奈良に移ってからの手紙もあるから 10年近く 響写真館の売却で もめたようです。

   

―   じゃあ、津崎さんは ここで酒屋さんとお醤油さんと写真屋さんを やられたわけですね。
津崎 その当時はお米が配給制でしたから。味噌も醤油も全部配給せにゃならん。
―   写真も繁盛したでしょう? その頃は 今みたいに家庭にカメラがありませんものね。
津崎 おかげさんでね。この前も「おれを覚えてる? あんたんとこで写真撮ってもらったたい」って
    お婆さんに会いました。(笑) でもデジカメが出てからは、全然だめです。

若芝 僕も津崎写真館で 撮ってもらった。たぶん結婚式。(笑)
    井手傳次郎さんにも1回だけ写真を撮ってもらったことがある。
泉   は、そうですか? 多良で?
若芝  うん、いっぺんね。なんか受験の証明写真だったかな。
     お父さん、ジェントルマンだからね、ものすごく丁寧な言葉で、ああしてください、こうしてくださいって。
     だからよく覚えてる。 それから うちの姉は 長崎の高等女学校だったけが、
     アルバム見たら響写真館製って入っとった。

津崎  井手先生がスタジオでよく使ったすすきの株は、 うちの庭に持ってきてます。 
     長崎のスタジオで使っていた 高さ1間くらいの大きなすりガラスは 
     佐世保の 森泊丁が欲しいと 森さんのスタジオに行きました。
泉  僕も 一度だけ 津崎さんの暗室に入って 見学したことがあります。
―  今日は 60年ぶりに来られて よかったね〜、泉さん。
泉  ほんとにまぁ 傳次郎の 写真も何も こんなに大事に保存していただいて・・・・・
津崎  いえいえいえ これはもう私が生きとる間は 井手先生の大事な資料として 保存しとかんばと思ってます。
泉  ほんとに申し訳ないです。 今日はほんとに感激しました。 出来が悪いからなぁ・・・息子たちは・・・・
―  アハハハハ また反省してる。 今から反省しても 遅いよ。 鹿島中学で長靴はいて逃げてた時に
反省しなくちゃ。(笑)





ネットで 津崎酒店を見つけて 電話した時には、予想もしなかった 深い繋がりだった。
津崎写真館 津崎和朗さんは 井手傳次郎の 最後のお弟子さんになる。
今ご健在のお弟子さんに 直接お話が聞けたのは、 
そして 傳次郎の息吹を感じる 数々の思い出の品を見せていただいたのは 本当に幸運だった。

「このバカげた戦争 日本は負ける」と言っていた傳次郎が 
家族を守るために 写真館を閉じて 長崎を離れた傳次郎が
戦後 写真館の再開を賭けて 通った長崎で  あの原子野のまん中で 何を 思っただろう。 
被災は いつも 二重三重の バカバカしい人災と 苦痛を強いる。


津崎さん 奥様 長い時間 お邪魔して 貴重なお話をありがとうございました。(佐賀ぼうろも 美味しかった!)
水車小屋までの道を 辿りながら伺ったことと お宅で伺ったことを 津崎和朗さんの 話に絞って 構成しました。 ご了解ください。
取材だと思って 遠慮して静かにしてくださっていた?(笑)沈殿組3羽ガラスのお話は 次回のお楽しみに。
| 長崎8人兄妹物語 | 09:24 | comments(2) | trackbacks(0) |
Comment
津崎さんには、お世話になりました。私の小学・中学の卒業写真は全て津崎写真館で撮りました。それに、お酒を配達してもらうときも津崎酒屋さんにお願いしていました。
津崎さんのお父さんは、糸岐川の漁業組合の監視人で私たちが小さい頃川に潜って鮎を捕まえたりしよく怒られたものです。「津崎さんが来た隠れろ!」と岩陰に身を潜めていました。
私は、伝次郎さんのお弟子さんに写真を撮って貰っていたんですね。戦中、高名な小説家や芸術家が戦争遂行に協力していった中で「この戦争は負ける」と言われたお祖父様の世界と世の中を見据える目の確かさに共感を覚えます。このような立派な人が私の故郷に短い間とはいえ暮らしておられたことに誇りを感じます。
2011/11/22 8:30 PM, from kawakami
kawakamiさん、いつも心温まるコメントありがとうございます。最近、「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川〜♪」の『ふるさと』を日本国歌にしてほしいなぁと思っている私です。(笑)
2011/11/22 9:25 PM, from かんからかん









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古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

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