2011.02.08 Tuesday
長崎響写真館 井手伝次郎 写真画集 『長崎』
私の母方の祖父 井手伝次郎は、長崎で 響写真館を営んでいたが、
生前 写真画集『長崎』を出版している。
これは 母が大事に持っていたものであるが 長崎響寫真館謹製 大阪の細谷眞美館印刷
昭和16年11月13日 長崎要塞司令部検閲済の判が見える。
写真画集は 眼鏡橋 オランダ坂 浩台寺 大浦天主堂 築町河岸 崇福寺 福済寺
諏訪神社 おくんち ・・・・古きよき 長崎の景色と 詩が載っていて 静かな情緒が 伝わる。
古本屋のネットで 井手伝次郎の写真画集『長崎』は 昭和3年のものが35000円で出ていた。
広辞苑を編纂した 新村出が 長崎に旅した時の 紀行文『南国巡禮』に
響写真館の井手君がその卓越した藝術心から生んだ寫真帳に
長崎と題する新刊書がある。
私たちは旅舎の高楼に海から吹いてくる涼風にふかれつゝ
その書をひもといて
長崎の古今を一様に、夢幻の裡に 望見した。
詩だ、繪だ。
とろけさうになって私はもうこの上は
どの寺、どの街と一々見てあるくのは 却って愚だと思った。
新村出 南国巡禮 朝日新聞社
昭和2年発行
と書いてくれている。
この写真集も含めて 響写真館の スタジオ写真や 長崎の風景を写した何枚かの写真は
母の発案で 2002年に 東京都写真美術館に寄贈した。
ところが 2009年の泉おじの取材の時に
写真美術館の現館長である 福原義春さんの 祖父かおじにあたる 資生堂先代の福原さんと
井手伝次郎は 交流があったと 泉おじと睦子おばが話していて びっくりした。
そして あれこれ調べる中で 『写真家・福原信三の初心』 山田勝巳編著 求龍堂
『巴里とセイヌ』や 『光と其諧調』を見て さらに私は驚いた。
福原信三さんの写真と 井手伝次郎の写真が よく似ているのだ。
「資生堂ギャラリー七十五年史をまとめた方が 伝次郎と交流あったのは、
たぶん福原信三さんでしょうって。 写真もすごく似てるよ! 影響受けてたんじゃないかなぁ。」
奈良に住んでいる 泉おじに電話した。
「ああ ああ そういえば 家には 井手伝次郎様と 宛書きのある
福原さんの 写真集がありましたよ」
なんだぁ おじちゃん 早く言ってよ!(笑)
写真集は 探してもらったが 未だ見つかっていない。
長崎から佐賀へ 佐賀から奈良へ 奈良の家ももはやない 流転の中で 紛失したのかもしれない。
長男桃太郎の妻 睦子おばの話では、
伝次郎は井手家の長男だったのに 4才で浦上教会に預けられたという。
そのことで父親に対して 並々ならぬ反発心があり、
画家をめざして 長崎海星中在学の時 同じマリア会系の神父さんの紹介で
東京の暁星中に編入するため 単身上京したらしい。
文献資料が 長崎から取り寄せた戸籍謄本と 長男桃太郎が書いたノートしかないので、
ウラを取るのが大変だが 海星中に電話して 在籍名簿を調べてもらった。
井手伝次郎は 明治39年に 長崎海星中に入学 40年3月に除籍退学になっていた。
その時 伝次郎は 17才。
東京の暁星中にも 問い合わせたが
戦災で資料が焼けたため 在籍名簿の確認は できなかった。
そして 前の「ときの忘れもの」の記事で書いた 古河梅子と 東京で結婚。
大正9年 長男桃太郎の出生届けは 東京都赤坂区青山南町3ノ36番地。
港区役所に問い合わせると 現在は 南青山2丁目19番あたり。
ちょうど青山霊園の入り口付近らしい。
その頃東京では 大正10年に資生堂の初代社長福原信三が「写真芸術社」を興し、
『写真芸術』を創刊。
大正8年に資生堂化粧品部二階に開設した陳列場(資生堂ギャラリーの前身)で
写真展も開催している。(『写真家・福原信三の初心』福原信三年譜より)
東京にいた井手伝次郎が その写真展を見て 啓発されたことは 十分ありえる。
私の母が 70才の時に書いた随想には
「問わず語りで母から聞いた話では、父は海軍の御用商人だった自分の父の生き方に反抗して上京し、
画家を志して美術学校に入学したが、途中で写真の面白さにひかれて転向し、
当時の東京の青年たちに流行していた、いわゆる大正リベラリズムやアナーキズムにも感染し、
あの震災で向学を断念すると、それを契機に 故郷に帰って 写真館を始めた。」
(針生夏木 『共生の地球を夢みて』 授業をつくる誌)と書いてあるので
東京にいた時に 写真に惹かれたことは確かのようだ。
ガラス乾板の中にある この2枚は 長男 桃太郎が ごく小さい時1才前のものだと思うが
祖母 梅子がまげを結っているところをみても 青山時代の写真と思われる。
そうであるなら 東京にいた頃に 伝次郎は すでにカメラを持っていたわけだ。
ところが 次男 幸蔵の出生届けは 大正11年 佐世保市天満町。
次男の出産で 梅子の実家がある佐世保に 母子は帰っていたのだろうか。
伝次郎は 桐材の仕入れで 東北を回っていることが多く 留守がちだったというから。
その間に ちょうど関東大震災があって 青山の家が 倒壊したのかもしれない。
一家は その後 東京には戻らなかった。
なんという 運命のいたずらか・・・・
ちょうど ずっと反発してきた 父親乙松が 商売を拡げすぎて 多額の負債を背負った。
伝次郎は それを返すべく 家族を養うべく
長崎で 新しい仕事を 始めるしかなくなったのである。
(乙松じいさんは 長生きしたが 原爆で下ン川で 亡くなった)
東京で 資生堂の福原信三さんが立ち上げた 芸術写真社とその写真が、
若き井手伝次郎の 心に 熾き火のように あったのかもしれない。
画家をめざしていたのに 長男、次男の病気、急逝で 家業の資生堂を継がざるをえなかった
福原信三さんが、芸術への思いを捨てきれずに 経営の傍ら 写真芸術社を立ち上げたことは、
同じ状況の伝次郎に 大いなる励みになったのではないだろうか。
鬼籍の人への インタビューは叶わないので すべては 想像の域を出ないが、
こうして青春時代を過ごした東京に別れを告げて 長崎に戻った 井手伝次郎は
上野彦馬の弟子にあたる 渡瀬(貞三)写真館で 技術を教わり、
長崎片淵町に 響写真館を 立ち上げたのである。
これは 母が大事に持っていたものであるが 長崎響寫真館謹製 大阪の細谷眞美館印刷
昭和16年11月13日 長崎要塞司令部検閲済の判が見える。
写真画集は 眼鏡橋 オランダ坂 浩台寺 大浦天主堂 築町河岸 崇福寺 福済寺
諏訪神社 おくんち ・・・・古きよき 長崎の景色と 詩が載っていて 静かな情緒が 伝わる。
古本屋のネットで 井手伝次郎の写真画集『長崎』は 昭和3年のものが35000円で出ていた。
広辞苑を編纂した 新村出が 長崎に旅した時の 紀行文『南国巡禮』に
響写真館の井手君がその卓越した藝術心から生んだ寫真帳に
長崎と題する新刊書がある。
私たちは旅舎の高楼に海から吹いてくる涼風にふかれつゝ
その書をひもといて
長崎の古今を一様に、夢幻の裡に 望見した。
詩だ、繪だ。
とろけさうになって私はもうこの上は
どの寺、どの街と一々見てあるくのは 却って愚だと思った。
新村出 南国巡禮 朝日新聞社
昭和2年発行
と書いてくれている。
この写真集も含めて 響写真館の スタジオ写真や 長崎の風景を写した何枚かの写真は
母の発案で 2002年に 東京都写真美術館に寄贈した。
ところが 2009年の泉おじの取材の時に
写真美術館の現館長である 福原義春さんの 祖父かおじにあたる 資生堂先代の福原さんと
井手伝次郎は 交流があったと 泉おじと睦子おばが話していて びっくりした。
そして あれこれ調べる中で 『写真家・福原信三の初心』 山田勝巳編著 求龍堂
『巴里とセイヌ』や 『光と其諧調』を見て さらに私は驚いた。
福原信三さんの写真と 井手伝次郎の写真が よく似ているのだ。
「資生堂ギャラリー七十五年史をまとめた方が 伝次郎と交流あったのは、
たぶん福原信三さんでしょうって。 写真もすごく似てるよ! 影響受けてたんじゃないかなぁ。」
奈良に住んでいる 泉おじに電話した。
「ああ ああ そういえば 家には 井手伝次郎様と 宛書きのある
福原さんの 写真集がありましたよ」
なんだぁ おじちゃん 早く言ってよ!(笑)
写真集は 探してもらったが 未だ見つかっていない。
長崎から佐賀へ 佐賀から奈良へ 奈良の家ももはやない 流転の中で 紛失したのかもしれない。
長男桃太郎の妻 睦子おばの話では、
伝次郎は井手家の長男だったのに 4才で浦上教会に預けられたという。
そのことで父親に対して 並々ならぬ反発心があり、
画家をめざして 長崎海星中在学の時 同じマリア会系の神父さんの紹介で
東京の暁星中に編入するため 単身上京したらしい。
文献資料が 長崎から取り寄せた戸籍謄本と 長男桃太郎が書いたノートしかないので、
ウラを取るのが大変だが 海星中に電話して 在籍名簿を調べてもらった。
井手伝次郎は 明治39年に 長崎海星中に入学 40年3月に除籍退学になっていた。
その時 伝次郎は 17才。
東京の暁星中にも 問い合わせたが
戦災で資料が焼けたため 在籍名簿の確認は できなかった。
そして 前の「ときの忘れもの」の記事で書いた 古河梅子と 東京で結婚。
大正9年 長男桃太郎の出生届けは 東京都赤坂区青山南町3ノ36番地。
港区役所に問い合わせると 現在は 南青山2丁目19番あたり。
ちょうど青山霊園の入り口付近らしい。
その頃東京では 大正10年に資生堂の初代社長福原信三が「写真芸術社」を興し、
『写真芸術』を創刊。
大正8年に資生堂化粧品部二階に開設した陳列場(資生堂ギャラリーの前身)で
写真展も開催している。(『写真家・福原信三の初心』福原信三年譜より)
東京にいた井手伝次郎が その写真展を見て 啓発されたことは 十分ありえる。
私の母が 70才の時に書いた随想には
「問わず語りで母から聞いた話では、父は海軍の御用商人だった自分の父の生き方に反抗して上京し、
画家を志して美術学校に入学したが、途中で写真の面白さにひかれて転向し、
当時の東京の青年たちに流行していた、いわゆる大正リベラリズムやアナーキズムにも感染し、
あの震災で向学を断念すると、それを契機に 故郷に帰って 写真館を始めた。」
(針生夏木 『共生の地球を夢みて』 授業をつくる誌)と書いてあるので
東京にいた時に 写真に惹かれたことは確かのようだ。
ガラス乾板の中にある この2枚は 長男 桃太郎が ごく小さい時1才前のものだと思うが
祖母 梅子がまげを結っているところをみても 青山時代の写真と思われる。
そうであるなら 東京にいた頃に 伝次郎は すでにカメラを持っていたわけだ。
ところが 次男 幸蔵の出生届けは 大正11年 佐世保市天満町。
次男の出産で 梅子の実家がある佐世保に 母子は帰っていたのだろうか。
伝次郎は 桐材の仕入れで 東北を回っていることが多く 留守がちだったというから。
その間に ちょうど関東大震災があって 青山の家が 倒壊したのかもしれない。
一家は その後 東京には戻らなかった。
なんという 運命のいたずらか・・・・
ちょうど ずっと反発してきた 父親乙松が 商売を拡げすぎて 多額の負債を背負った。
伝次郎は それを返すべく 家族を養うべく
長崎で 新しい仕事を 始めるしかなくなったのである。
(乙松じいさんは 長生きしたが 原爆で下ン川で 亡くなった)
東京で 資生堂の福原信三さんが立ち上げた 芸術写真社とその写真が、
若き井手伝次郎の 心に 熾き火のように あったのかもしれない。
画家をめざしていたのに 長男、次男の病気、急逝で 家業の資生堂を継がざるをえなかった
福原信三さんが、芸術への思いを捨てきれずに 経営の傍ら 写真芸術社を立ち上げたことは、
同じ状況の伝次郎に 大いなる励みになったのではないだろうか。
鬼籍の人への インタビューは叶わないので すべては 想像の域を出ないが、
こうして青春時代を過ごした東京に別れを告げて 長崎に戻った 井手伝次郎は
上野彦馬の弟子にあたる 渡瀬(貞三)写真館で 技術を教わり、
長崎片淵町に 響写真館を 立ち上げたのである。