谷川雁 『ものがたり交響』 あとがきより
老人がこんなにふえてくると、円熟という理想なんか棄てたがましだ。
飾りのない衰えの新型とでもいったものを工夫したい。
生命のどんな階梯にもふくまれる未熟さ、それも各種各様あるやつを組み合わせて、
いささか変わった味のする飲料をこしらえ、お互いに贈呈しあう習俗をうみだすなどはどうであろう。
それには夜明けのぶどうである十代の血が必須だというわけで、
月に一度あやしげな針葉樹のように山を下り、
半世紀も年のちがう者たちと賢治童話を読む。
ハーモニカに舌をあてがったときの涼しい空気を吸いにくるおとなもいるが、
室は少年少女でみちる。
宿題発表の模造紙を丸めたりしてあつまってくる顔は
日曜をまるまるつぶした後悔の色もなく、
好きな模型の部品でも探しにきたという風情だ。
それも道理、かれらはものがたりを<人体交響劇>とよぶ集団表現に仕立てあげる作業が
ことのほか気に入っていて、そのためのヒントが得られるなら、
図書館通いや研究所訪問も苦にならなくなっているのだ。
金平糖とか木酢とか作ってみた子もある。
動物、植物、鉱物、天文、気象、地理、歴史と
夜店のようにかわいらしく雑多に集められた知識にむかいあい、
ものがたりを通してそれにさわってみようとする<万有学>の小さな宴げは、
もう六十回近くつづいている。
賢治はかれらにとってほぼ曾祖父に近いところに位置しているし、
私は時としてかれらの祖父と同年だったりする。
賢治にたいする私の尊敬を聞くことは、かれらにとっては
ガルシア・マルケスの小説の持つ 抽象空間を感じるに等しい。
沈黙、感嘆、笑いの符号は片っぱしから食いちがい、また宙返りする。
このようにして世代は可逆的なのだ。
たとえ私が生命の古さと読むところを、かれらが新しさと読み、
新しさと読むところを古さと読んだとしても、
どちらが表か裏か、ついにわからない折り紙を中間に置いて、
両側から手をのばしていることに変わりはない。
そしてまたかれらと私のあだいにある空間が
閉じたりひらいたりして ふしぎな動物の形になれば、
それがそのまま かれらと賢治のあいだにある生きた時間になって
呼吸しはじめるという構造のもたらす悦楽を、
ちょっとしたおもちやの発明のように展示したくなってくる次第だ。