不倫

NHKの朝ドラ『花子とアン』の影響で 
なぜか夫が買ってきた『白蓮れんれん』(林真理子)を読んでいる。(笑)

このブログの「長崎8人兄妹物語」
8月9日雲の切れ間で始めたシリーズ。
さっぱり更新できないが 8月9日には やはり長崎から 突き上げられる。

長崎で響写真館をやっていた 私の祖父母 井手傳次郎と 梅子。
井手傳次郎は 長崎海星中(
美輪明宏さんの母校。甲子園に出るよ!しかも二松学舎と対決)を中退して、
明治40年に東京九段の暁星中に 自分で志願して 転校。
それを追うようにして?なのか 佐世保の古賀梅子も 大正4年 
東京九段の 和洋女子高等師範に 遊学した。

傳次郎も梅子も ともに 長崎県佐世保出身だが、 
佐世保鎮守府、海軍に食糧を納め、料亭梅月を経営する井手乙松の長男 傳次郎のことを 
古賀米穀店の娘 梅子は 佐世保にいる時から 知っていたのだろうか。
4才から 長崎の浦上教会に 預けられたという 井手傳次郎と 9才年下の古賀梅子が
佐世保時代に交友があったとは 考えにくい。


2人は 東京で どこでどのようにして 出逢ったのだろう。

ずっと長崎の話だと 思ってきたが  祖父母の物語のはじまりは、
大正4年から12年の 東京だったのだ。
まさに 花子や 蓮子が 出逢ったり 恋したり 文学してる時代の 東京だ。

傳次郎と梅子の長女である私の母夏木が 書いた随想に
「問わず語りで母から聞いた話では、父は海軍の御用商人だった自分の父の生き方に反抗して上京し、
画家を志して美術学校に入学したが、途中で写真の面白さにひかれて転向し、
当時の東京の青年たちに流行していた、いわゆる大正リベラリズムやアナーキズムにも感染し、
あの震災で向学を断念すると、それを契機に故郷に帰って写真館を始めた」
とある。

この数行を手がかりに あちこち尋ねてみると

傳次郎が通っていた美術学校は 「中村伏折が学長」という睦子おばの話からして
明治38年  谷中真島町で始まった太平洋画会研究所ではないかと 思われる。

え〜! 傳さま(うちのでんさま) 早く言ってよ〜!
私は 結婚してすぐ 谷中のすぐ近く 千駄木団子坂上に住んでたんだよ〜!

同じ界隈を 祖父や祖母が 歩いていたと 思うだけで ゾクゾクする。
まるで 隠された 地名コードに 導かれているようだ。
地名や通りが頭の中にない 長崎と違って、
東京なら 東京生まれ 東京育ちの私  地名と距離感が 想像の翼を 次々に かき立ててくれるからだ。

谷根千の 森まゆみさんの 大正美人伝や 谷中文学散歩など 読みあさった。

傳次郎と 梅子が 出逢うとしたら 九段 本郷 あたりの カフェか。 
谷中の かやばコーヒーか。
(去年9月 初めて町屋カフェかやばコーヒーに入って 私は 2階の階段から落ちてしまった。 
後で 傳次郎が谷中の太平洋画会に通っていたと知り まるで地霊に引っ張られたのかも!と 思ったものだ。笑)


傳次郎がアナーキズムにかぶれたというのが どの程度のものかわからないが、
 本郷白山坂上に 南天堂という本屋兼カフェがあり、
そこがアナーキズム研究会の開催場所で 大杉栄も来ていたらしい。
また 谷中の一善飯屋へちまが アナキストたちの たまり場だったとか。

しかし ごきげんようの 東洋英和より 和洋女子師範学校は
良妻賢母と 女子教員育成で 規律もさらに厳しいだろうから
女学生が アナキストたちのたまり場に行くことは 考えられない。

三男泉の話では 傳次郎は 個人の自由を抑圧するものは 徹底的に嫌ったが
政治活動はしていないのではないかと 言っていた。 

傳次郎は ニーチェが好きだったと三男泉が言っていたから 
ニーチェの翻訳者で 「青鞜」の名づけ親 生田長江の講演会か何かで出逢ったのだろうか。


あるいは 梅子は 若い時から 死ぬまで ずっと 和歌を 詠んでいて
与謝野晶子に 和歌を習っていたという 話もあるから、
梅子が 与謝野鉄幹晶子が発刊した 明星に 短歌を投稿していたのかもしれない。

傳次郎も 梅子も 斉藤茂吉を信奉していたと三男泉が言っていたから
短歌が2人を結びつけたのではないかという仮説が 私の中では 有力だ。 

大正4年出版の 白蓮の 『踏み絵』は 九州発信だし
上京したばかりの女学生 梅子も ゾクゾクして読んだかもしれない。
大正10年の 宮崎龍介と 駆け落ちした 白蓮事件も まさに同時代の女性 同じ歌よみ人として
自己投影して ハラハラ見守っていたかもしれない。

梅子おばあちゃん。 私が高校 大学の時 奈良に行くたび 何度か訪ねて話したのに
そんな 話 知っていたら 聞きたかったなぁ。と 悔やまれる。

梅子は 大正8年 女子師範学校を卒業後  静岡掛川の学校に教職が決まっていたが、
傳次郎は 梅子が返済するべき学費を 自分が返済するからと 2人は一緒に 暮らし始める。
といっても 佐世保の 双方の家からは すぐに結婚を認められなかったのか、
入籍届けは大正9年10月26日になっている。 
長男桃太郎の出生届けが 1ヶ月後の 大正9年11月6日 東京赤坂区青山南町3-33だから
第一子の誕生前に 慌てて入籍したのだろうか。
同棲してたら できちゃった? みたいな 間抜けな戸籍謄本を見て 笑ってしまう。

傳次郎は 太平洋画会研究所で出逢った? 日本画家平福百穂(ひらふくひゃくすい)と懇意になった。
次男幸蔵の話では 傳次郎は 平福百穂を 絵の師匠と仰いで、
毎日 百穂が飼っていた あひるの写生に 通っていたという。
家も 青山南町で 隣に住んでいたらしい。
平福百穂は 幸徳秋水の平民新聞に挿絵を描いていたし、
アララギ派の歌人でもあるから 傳次郎梅子夫妻 共通の隣人として 申し分ない。

長崎で 響写真館を始めてすぐに 井手傳次郎は 写真画集「長崎」を出版しているが
その表紙を 飾ったのも 平福百穂の 帆船の絵だ。

しかし東京で 傳次郎は 絵で 生活するところまではいかず
妻梅子と長男桃太郎を養うため おでんの屋台を引いていたこともあるという。
花子とアンに  おでんの屋台が出てきて、そこで白蓮と宮崎が逢い引きしてた時は 仰天した。
それから 長男桃太郎の妻 睦子の話では
桐タンスの会社に勤めて 東北に 桐材仕入れに 行く仕事をしていたという。
次男幸蔵に確認すると「それは 九州の炭鉱主が始めた 桐材仕入れの 東京支社のような形ですな。」

九州の炭鉱主!
ネットで探している時に 伊藤伝右衛門の 赤がね御殿も 見つけた。
去年の夏 丸木美術館の炭鉱展にいらしていた 上野英信さんの息子さん 上野朱さんに
佐賀の小岩炭鉱主で 桐材の会社をおこした人はいないか 調べていただいたりもした 。
(初めて会ったのに 厚顔無恥なお願いしてスミマセン!)

というわけで 去年の夏から 大正時代の東京と 長崎を結ぶ線を あれこれ探して 
想像の翼で ぐるぐるしていた私にとって(笑)
花子と白蓮は 九州と東京 双方から 私の興味に迫ってくれるので ほんとにありがたい。
しかも 傳さま だし。

 

ところで タイトルの不倫は 祖父母には 関係ない。(笑)

花子と村岡 白蓮と龍介のおかげ?で、
この春は 朝から「みちならぬ恋」「みちならぬ恋」と 
NHKの朝ドラには 不似合いな言葉の合唱に なんだか居心地悪かった。

「みちならぬ恋」といわれると なにやら 背徳めいて ざわざわするが、
倫(みち)は 誰にとっての どんな 倫(みち)なのか。 


すぐ 不」 をつけて 後ろ指さしたがる 
日本人の  集団的排他的自衛権 ともいうべき 
村八分のバッシング構造の方が 気になる。 

夫は 妾が何人いても 男の甲斐性とゆるされ
妻には 姦通罪があったという 時代だから どんだけ 男性本位か。

人間だれしも 身も心も 一つしかないのだし すべては タイミングの問題だから 
出逢ったタイミングと 恋する2人の状況が  ズレていることは ままある。
だからこそ せつない。   

当人や関係者たちは 修羅場を くぐるしかないのだから
「みちならぬ」 なんて 便乗してバッシングする構造には 
みせしめ的な 別の悪意を感じる。 

ワイドショーで こんなタレントいたっけ? 名も知らぬような 夫婦の
不倫疑惑 離婚騒動を 連日やったりしてると
もっと巨悪な みちならぬ政治 みちならぬ構造を まやかすための いけにえか? と思ってしまう。 
情報は いくらでも 操作できる。 操作されてきたんだ。
 

そして 関東大震災・・・・

関東大震災のどさくさで 大杉栄と 伊藤野枝が 甘粕大尉に殺される。
主義者と呼ばれる 無政府主義者に対する  排除。
その後の 治安維持法 特高警察へ 繋がっていく。 その恐怖。

震災によって 瓦解したものの 大きさ
そこから 復興しようとした時に 微妙に ズレていったもの
立ち上がろうとする 人々の気持ちに いつも甘い言葉で つけこんでくる 整理の形。

もし 関東大震災と その後の戒厳体制がなかったら
大正デモクラシーのあっけない終焉と  昭和の軍国主義の台頭はなかったかもしれない

佐野慎一の この言葉を いつも思い出す。

傳次郎が 震災で 東京での生活を諦め 長崎に帰った 一番の理由は なんだったのだろう。
東京で 長崎で 2度までも 慣れ親しんだ風景の瓦解を 見ることになるとは・・・

 

昨日の 長崎原爆の慰霊祭での 安部首相の挨拶。

「一度ならず、二度までも被爆の辛酸を嘗めた私たちは、
にもかかわらず、苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり、祖国を再建し、
長崎を、美しい街として蘇らせました。」

はあ? にもかかわらず? どのツラさげて どの舌で言ってるの?

「被曝の辛酸」を嘗めたのは 君じゃないでしょ?
耐え立ち上がり再建したのも 君じゃないでしょ? 
「被曝の辛酸」を嘗めた にもかかわらず! 原発が 54基もある。
311の震災の後 いまなお 故郷に帰れない人たちがいて
あんなに 原発反対の運動があったのに にもかかわらず 再稼働しようとする。
にもかかわらず 原発や 軍事産業を 外国に輸出して 経済の復興を はかろうとする。 
 
みちならぬ政治家。
それを 選んでいる みちならぬ国民!
なにが 過ちか どうくりかえそうとしているのか。

これが 不倫でなくて 何が不倫だ!
 

| 長崎8人兄妹物語 | 23:20 | comments(9) | trackbacks(0) |

深雪

今年は 関東も 毎週のように雪の予報で  
陽の当たる駐車場を 日割りで借りて 車を移動し 凍結に備えた。

北海道 日本海側の積雪も 今年は格別で 青森では5メートルの積雪。
深い雪に 冬の間 閉じ込められている 雪国の人たちの苦労を考えたら
10センチ程度の積雪で オタオタ交通がマヒしてしまう東京のニュースは 笑いものだろう。
 
積雪とは まったく関係ないが、ずっと書く機会がなく 
たぶん春めいてきたら また今年も機会を失ってしまうので、
深い雪という名前の 長崎8人兄妹物語の末娘 深雪(みゆき)について 書いておく。

長崎8人兄妹 井手家の 子どもたちは 上から
大正8年生まれの長男・桃太郎 大正11年生まれの次男・幸蔵 昭和3年生まれの長女・夏木 
昭和5年生まれの 三男・泉、昭和6年生まれの四男・清明、 昭和8年生まれの五男・徹生、昭和11年生まれの 次女・美夜 そして末娘の 三女・深雪 の8人である。

次男 幸蔵の 次に 大正14年に生まれた 長女翠が 生後2週間で 死んでしまったため、
次に生まれる 子どもは 男でも女でも 夏の木のように 丈夫に育つようにと
生まれる前から 「夏木」と 決められていた。
その ミッションを 背負って 昭和3年2月  響写真館の開設と 同じ年に生まれたのが 
私の 母 夏木 である。

末娘の 深雪は 昭和14年2月1日生まれ。 
文字どおり 深い雪の日に 生まれたのであろうか。

今は 読めないような 凝った名前を もらう子が多いが
井手家の父親 傳次郎の 命名も  
長男に 桃太郎 と クラシック?シュール?(笑)を はじめとして 
夏の木 美しい夜 深い雪 と なかなか 大正ロマンな 命名だと思う。

深雪は 夏木とは11才 長男桃太郎とは20才 年齢が離れている。



夏木のアルバムに貼ってあった写真。 右から
 夏木 深雪 美夜 徹生  かぞえ年3才の 深雪の七五三だろう。
昭和16年11月? 太平洋戦争突入直前の 古きよき時代だ。
  深雪が着ている 亀甲の着物は3才の七五三に
                             美夜が着ている 赤白の着物は7才の時 私も着たので なつかしい。
今思えば 夏木は 娘の七五三に 妹たちとの長崎の思い出を  重ねていたのだなと 思う。

美夜と深雪は 3才違いで 年が近いから いつも一緒に写っている。



いかにも 仲の良い姉妹だが、 年の近い姉妹に特有の 確執もあったようだ。 
美夜の話は 前に紹介した。

「深雪は 傳次郎と梅子さんの 45過ぎてから生まれた最後の子どもで、
素直で従順で、なおかつ小学校から高校までずーっと級長をやる 優等生だった。
   
そんないい子だったから、深雪は 私の 邪魔になったの。
特に多良に疎開してた時は、よその畑のスイカとか栗とか、盗みに入る時に、
「よその家のもの 盗ったら いけないんとちがう?」とか 言うのよ!
そういう時は ほんとに 邪魔なのよ!」

傳次郎の写真にも 深雪の 不安げなよい子ぶりと 姉美夜の 勝ち気な感じが よく写っている。






瀟洒な写真館の お嬢様から 一転
やぎの糞尿の匂いただよう 多良の かや葺き小屋へ疎開した 井手家の運命とともに
末娘 深雪の スタジオ写真は 少ない。 


下の写真は戦後 「多良には 娯楽が少ないから 夏木姉さんは よく私たちを 活水や 大村に呼んでくれた。」(美夜) という 頃の写真かもしれない。

「夏木姉さんは あんたたちは どこかで遊んでなさいと 活水(女学院)の廊下に私たちを放し、
自分は 一人 ピアノ室で ピアノを弾いていた。」
「真っ暗な 夜の 大村湾の浜辺に 私と深雪を残したまま 
夏木姉さんは 一人で 夜の海に 泳ぎに行って いつまでも 帰って来なかった。
帰ってきたら 姉さんの水着に 夜光虫がたくさんついて 光っていた。」
「真夏の暑い時に 外食券で コッペパンをもらう行列に 私と深雪を並ばせたまま
夏木姉さんは どこかへ 行って 帰ってこなかった。
帰ってきても ありがとうとも言わず パンちゃんともらえた? と言うだけだった。」 

妹 美夜が語る 姉 夏木の 行動は 謎が多い。(笑) 深雪の話も 聞きたかったな。


長崎8人兄妹物語は 2005年8月に77才で夏木が亡くなった後、
2007年から おじおばたちに聞き書きを 始めたが、
夏木の2ヶ月後 2005年10月に まるで姉の後を追うように 深雪も66才で 急逝した。 
だから 8人のうち 夏木と 深雪2人のインタビューはない。

夏木は 授業を創る誌に 自分の半生を振り返って書いた 自伝的随想があるので 
それを 手がかりに使っているが 
深雪おばだけ 何もなくて 心苦しい。                                  

井手家が 疎開先の佐賀県多良から 奈良に引っ越した後、 
兄や姉は 東京へ 神奈川へと 家を出たが、
最後まで 両親 傳次郎 梅子と 奈良法連山添町の家にいたのは
 末娘の 深雪だから
健在ならば 奈良時代の傳次郎の様子など 聞けただろう。





                 
                             東大寺 南大門前で



私と 深雪おばとの 結びつきも 強い。

深雪おばは 県立奈良高校を卒業後、しばらく病院で働くが、そこで出逢った 明さんと 結婚。
京都西陣の 旧家に 嫁に入る。

うなぎのねどこみたいな 細い京都の町屋の奥に おじちゃんが 趣味で カウンターやパチンコ台を作った
隠れ家的スペースを 覚えている。

私が高校生になって 毎年奈良京都へ一人で通うようになった頃は 
どういう事情か 深雪おばは お義母さんや夫と 別居して 
上賀茂神社が近い 紫竹上高才町の 小さなアパートに 一人娘の 明美と住んでいた。

京都駅から 堀川通りをバスで北上して 私も よくそのアパートに泊めてもらった。
私は 奈良京都に惹かれて 京都の大学を2つも 受験したので  受験の前後も しばらくお世話になった。

アパートは 普通の家の階段をあがりきった 座布団1枚くらいのところが 部屋の玄関になっていた。
母子住まいの用心のためなのか、 男性の革靴が いつも揃えて 置いてあった。
その靴の中に おばちゃんは 私が自由に出入りできるよう 鍵を 入れておいてくれたので 覚えている。

従姉妹の明美と 私は ちょうど 夏木と深雪と同じ 11才年が 離れている。
当時 まだ小学校に上がるか 上がらないかの明美と2人で 銭湯に行くと
「チコねえちゃんの おっぱいは、 なんで そんなに 小さいん?」と さわってきて 困った。(笑)

傳次郎の撮った 深雪のこの写真を見ると あまりにも その時の 明美に よく似ていて
 声まで 聞こえてきそうだ。 (夏木が好きだった 野坂昭如『火垂るの墓』の ドロップをなめる 妹にも似ている)
 

深雪おばちゃんは 生活のために ワコールの下着の 縁取りに貼るレースを 鋏で切る内職をしていた。

ちゃぶ台で まっすぐに レースに裁ち鋏を 走らせている 深雪おばの横で
小さい明美とじゃれあいながら よくおしゃべりをした。

親の悪口とか 説明しなくても 笑い話のように言える おばとの話は
自分もちょっと 大人びた気がして 楽しかった。

「チコちゃん そっち 引っ張っててや。」
ちゃぶ台のたもとから ピンと引っ張った レースに まっすぐに 鋏を進めてきて
私の手元で バチンと 鋏が鳴ると ヒヤっとした。

深雪が あの頃 バチンと裁ち切りたかったものは なんだったのだろう。
その決断に 井手家の おかしな家族と育った日々は 少なからず 影響したのだろうか。 
高校生の私には もちろん そんな問いはなかった。

仕事の合間に 狭い台所で ちゃっちゃと お茶碗を洗って 忙しそうに動き廻るおばを見ていると
食後は のんびり 紅茶を飲んで 煙草を吹かしていた 夏木と
同じ姉妹でも ずいぶん 違うもんだなぁ〜と ぼんやり感じていた。

10人もお手伝いさんがいた 響写真館全盛時代の お嬢様の 夏木と
生まれて2年後には 太平洋戦争が始まり 写真館を閉めざるを得なくなった深雪では  
同じ姉妹でも  時代の明暗が 否応なく反映されていたのだろう。

私は お嬢様然とした 夏木より、
生活感溢れる いかにも関西のおばちゃん風の 深雪おばの方に ずっと親近感を感じていた。
だから 2009年に 美夜の話で 深雪が 成績のよい従順な優等生だったと 聞いて びっくりしたものだ。
 
深雪おばは 別居した お姑さんを 最後まで 世話し、
その後 高槻の 桃太郎睦子と 同じマンションに 引っ越した。
何年だったか クモ膜下で倒れて 手術してからは ちょっとやせて 老け込んでしまった。

桃太郎は 母親梅子さんを 引き取って 同居していたし、
佐世保から 井手家の墓を 嵯峨野の念仏寺に移したので
母にとっては 高槻が 兄妹に いっぺんに会える 実家のようになった。 



写真は2003年 大浦信行監督の映画『日本心中』 上映の後 鶴見俊輔さんと一郎が対談する
というので 京都造形大に行った時 私の友人たちと。右から 深雪 睦子 桃太郎。
その前日 夏木は 写真美術館に 響写真館の写真を寄贈した報告を お墓の傳次郎にして、
妙に はしゃいでいたのを 思い出す。
 
2005年3月  夏木が脳の悪性リンパ腫で入院して まったく言葉を失った時も
深雪おばは 4月に京都から上京して 船橋の清明と 相模大野の 病院まで 駆けつけてくれた。
いつも 「あんたたち」と りんとして いばっていた姉が
車椅子で しゃべれなくなってしまった姿を見て 妹は どう思っただろう。

その日は 私と 生田の家に泊まって 一郎と話しながら
「ここに来られて ほんとによかった。  チコちゃん、ありがとうね。 ありがとうね。」と何度も繰り返して 喜んだ。

その後 6月に 深雪おば自身が 血尿が出て 入院してしまったという。
夏木も 6月末から 誤嚥性の肺炎で 転院先から 緊急搬送されたので こちらも 余裕もなかったが、
7月に 夏木が小康状態になった時に 佳奈と 深雪の見舞いに行った。


その時は ちょっと腎臓が悪いらしいと手がむくんでいたが 
「夏木姉さんが 騙されたみたいに 不動産をたくさん買うのは、 あれは 隔世遺伝やでぇ。
傳次郎さんの父親の 乙松さんが 山だの不動産を 買う趣味があったんや。」と
ベッドに腰掛けて いつもの調子で 話してくれた。

まだ 私が長崎8人兄妹物語の聞き書きも始めていない時なのに、
問わず語りに ひいおじいさんの 乙松の話を 笑いながらしてくれたのだから 先見の明がある。

8月 夏木が 意識不明になると 深雪も 透析になり、
夏木の葬式の頃には  深雪も 意識不明になったという。
 
当時は バタバタして 目の前のことを片付けるのが 精一杯だったが、
記録を見ると 2人の症状が 奇妙に 連動しているのに 驚く。

夏木の葬儀が終わった 8月末 病院に駆けつけた。
尿毒症で パンパンに腫れ上がった 全身と 
舌が落ち込んで 呼吸困難にならないよう つけている エアウェイが 痛々しかった。

一人娘の 明美はまだ 子どもたちが 小学生と 保育園で 小さかったし、
ご主人の 治療院の 医療事務をやっていて 月末で仕事が山積みなので
「今夜は 私が泊まるから 帰っていいよ」と 明美を帰した。

その夜 明け方4時半頃 「痛いよ〜 痛いよ〜」と 突然 深雪おばは 大声で泣き叫んだ。
私は 折りたたみベッドから 飛び起きて
「おばちゃん チコだよ。 そばにいるよ〜」と 声を かけると
「わ ちこちゃん 来てくれたの〜 うれしい〜」と 涙を流して おいおい泣いた。
なんと5日ぶりに 昏睡状態から 意識が戻ったのだという。

朝来た 明美も  明おじも 睦子さんも 「奇跡だ!」とびっくりした。
深雪は 「選挙だけん、不在者投票行かな。」とか 具体的な話をして みんなを 笑わせた。

それから 1ヶ月ちょっとして 10月のはじめ 深雪は 亡くなった。

まだ入院したばかりの頃だったと思うが 深雪は 病院から 私に電話してきた。
夏木の容態やら うちの おばあちゃんの様子やら 心配してくれた後、
深雪おばは やさしい声で こう言った。
   
「人間 当たり前のこと をやるのが 一番大変なんよ。 
チコちゃんは、当たり前のことを ちゃんとやってるから ほんまにえらいと 思うわ〜。」

病院の暗い廊下で パジャマで電話をかけている 深雪おばの映像が 映画のように 目に浮かぶ。

おばちゃんが 言いたかった 「当たり前のこと」 と 私が思っていることは 違っているかもしれないが
確かめようもない。
今思えば 遺言のような その言葉を 今でも よく思い出す。 

| 長崎8人兄妹物語 | 21:00 | comments(6) | trackbacks(0) |

佐世保港の夜景 森山一信夫妻


母が長崎生まれと言っても 井手家の誰も 長崎には住んでいないので 
長崎には母に連れられて 2度しか 行ったことがなかった。

私の3度目の長崎訪問は、 2008年3月。
前年の秋 大阪に住む井手8人兄妹の長男 桃太郎が 膵臓癌で亡くなり 
一人残された 睦子おばを 元気にしようと 思いついた 長崎行きだったが、
「どうしても ちこちゃん(私のこと)に会って欲しい人が佐世保にいる」という睦子さんの提案で 
佐世保からスタートした。

羽田から私の友人関谷美知子、定年退職したばかりの夫、私、
大阪から単身飛行機で睦子おばが 、佐世保で合流。 
後から京都に住んでいるうちの長男も青春18でやってきて にぎやかな道行きだった。

すでに 佐世保のミチさんのお話や 睦子おばに活水女学院を 案内してもらった記事は
2008年に公開しているが (下に貼ったバックナンバー 同級生ムツコと活水を歩く 従姉妹ミチ)

佐世保に着いた夜 お会いした 森山一信、雅子夫妻のお話が 未公開だった。

響写真館の写真は 母夏木が遠い親戚にあたる 学芸員の森山朋絵さんにお世話になって 
東京都写真美術館に寄贈した と何度も書いてきた。

長崎行きの前日 思いついて 森山朋絵さんに連絡を取った。
森山さんは 佐世保出身なので 佐世保在住のご両親に ご挨拶だけでもできないかと 思ったのだ。

「佐世保は夜景がすばらしいから、夜はタクシーで高台に上がってね」とミチさんに電話で言われていたので、
夜景の見えるところを教えて欲しいと 聞いたら、
森山夫妻が 佐世保港を見渡せる弓張ヶ丘の 中華レストランを予約してくださった。
そこで森山一信 雅子夫妻と初めてお会いすることができた。


森山一信さんは 佐世保で 長年画塾を開きながら 創造美術会などで活躍されてきた 画かきさん。
 背が高く 低いいい声のダンディな方だ。 
「パパの絵は 昔はシュールレアリスム。今は普通の絵」「今は美術も宣伝の時代なのに この人口ベタなの。」
雅子夫人は 小柄で ケラケラよく笑う なかなか辛口の 楽しい方だ。 最初はもっぱら 雅子夫人が話された。

―  母の兄妹に聞き書きをして、インターネットで公開させていただいているんです。
   今日のお話も録音させていただいてよいですか?
雅子夫人 まあ すごい。楽しみ。いいですよ。
―  去年の夏に桃太郎さんにお話伺ったら、その2ヶ月後に亡くなってしまって
   貴重な話を録っておいてよかったなぁって。
雅子夫人  まぁ インタビューしとってよかったねぇ。もう先は何があるかわかりませんからね。
 ― そういえば、夫は高校の教員なんですけど、今日退職しました。
    終業式が終わって そのまま飛行機に乗って来ました。
雅子夫人  まあ、それはおめでとう! 元気で退職されてなによりですね。大変なことよ。
―   ミチコさんも 小学校の先生で、去年退職されたんです。
雅子  まあ おめでとう! よかった みなさんにお会いできて。 乾杯しましょう。
森山 僕の絵の教室にも退職された先生たちが多いんですが、話聞いてると学校も大変ですね。

青島ビールと紹興酒で乾杯した。


森山  ここから夕日がすごくきれいなんですよ。東シナ海にずっと沈む。
―  わあ、東シナ海かぁ。
根本 東京より 日没が20分くらい遅いんですよね。
森山  感覚的にはもっと遅いですね。野球放送を見てるとよくわかります。すぐにライトがつくでしょう。
     こっちはまだ明るいから。8時くらいまで 明るいですよ。
雅子夫人 東京行ったら夕暮れが早いから さみし〜くなりますね。(笑)

森山夫妻は 上野の美術館で審査があるので 毎月のように上京され、
一人娘の 朋絵さんのところにも 寄るという。
森山朋絵さんは 現在は 東京都現代美術館の学芸員で メディアアート部門で 活躍されている。

           東京都写真美術館

―    娘の佳奈が、東京都写真美術館で学芸員実習した時も、朋絵さんにお世話になりました。
雅子夫人 そうでしたか。朋絵が、夏木さんにお葉書を出したと思います。
―     まあ 朋絵さんの方から?
雅子夫人 ええ。西田のおじさんが、夏木さんに会いに行きなさい言ってたんで、
       あなたちょっとお葉書でも出したらって 私が言いましたもんね。
       朋絵が佐世保に帰った時に、西田のおじさんが病気で寝とらしたから、お見舞いに行ったんです。
      その時に西田のおじさんが、兄貴(傳次郎)が作ったビロードの表紙の写真集『長崎』を見せてくれたんです。
      わぁ こんなすばらしい芸術的な写真 
      こういうものは貴重だから、ちゃんとどこかの美術館に寄付した方がよいよねって話になって。
      ちょうど朋絵が東京都の写真美術館に採用されて開設準備をしていた時だったから、
      そこに寄贈しましょうかって 西田のおじさんが言われたの。 

西田のおじさん とは、井手傳次郎の弟で、西田家に養子に行った西田清一さんである。

後日朋絵さんに確認すると、何もかも東京に持っていくのもどうかとその時は写真集を預からなかったが、
「東京で傳次郎の長女の夏木さんと連絡をとってみなさい」と清一おじに言われたという。

朋絵さんは、筑波大学の芸術学科だった時に、
講演に来た 美術評論家針生一郎に会って 「遠い親戚らしいです」と挨拶をしたことがあったそうだ。
それで針生家宛に写真美術館で働くことになったと葉書を出したら、後日夏木が写真美術館を訪ねて来た。

その時、写真画集「長崎」と響写真館の写真も寄贈したいという話になり、
1990年にオープンした写真美術館に 2002年12月に寄贈することになったという。

響写真館の写真を東京都写真美術館に寄贈するのは、
傳次郎の弟西田清一の進言がきっかけだったとは! 


実は この夜は 17年ぶりに飛行機に乗り 佐世保に着いたばかりで
次々運ばれてくる 美味しい中華料理に きゃあきゃあしながら 
初めてお会いする 森山夫妻と 写真や系図を見ながら 話があちこちして とても消化できていなかった。
 
西田のおじさんという 肝心なキーパーソンも 石田さんと聞こえていたのか、
私も 小学生の時 母と会ったことがある 清一おじさんだとは 思ってもいなかった。 
睦子さんが今回の旅でどうしても私に会って欲しいと 翌日会うことにしている女性は、
西田清一さんの長女ミチさんだったというのに。
後日 朋絵さんに 写真美術館への寄贈の進言をしてくれた 石田さんとはどなたでしょうかと 
間抜けな 問い合わせをしている。 
 
当時は 井手兄妹のインタビューを 始めたばかりで  長崎についての知識もまったくなく
食いつきも悪い。 
最近になって 手つかずにいた録音を聞き直して 
自分が聞き流していた重要な話の数々に 赤面の思いだ。

いつもそうだが なにやら 私の中の熟成を待って 情報が発光を始めるような 気もするが・・・・


                西田清一さん


―   井手の兄弟とは交流ありませんでしたか。 
森山 全然知らないんです。
雅子夫人 西田のおじさん つまり清一さんと 森山の父 信伍が 従兄弟なんですよ。
       つまり傳次郎さんとも 従兄弟ね。
     写真持ってきたよ。 森山の父とと西田の清一おじさんは似とらすね。
     西田のおじさんの方がモダンだけどね。

森山信伍さん芳江さん 西田清一さん

     西田のおじさんはモダンかったね。昭和30年頃  自転車のサドルがすごい上の方にあるのに、乗ってた。(笑)
       
森山    戦時中は朝鮮の木浦で私の父森山信伍と同じ隊で 新兵の教育係の小隊長だったそうです。
      うちの父はバカ正直だから、雪の中でも走らせたり新兵訓練をまじめにやってたんだけど、
      西田のおじさんは「どうせこの戦争は負けるから、やらんでよか」って休ませてたらしい。

―    やっぱり井手の血統ですね。(笑)

雅子夫人 森山の家に おじいちゃん森山熊造さんの奥さんミヤさん(洗礼名マリア)のきれいな写真があって
       「これは誰が撮ったんやろかか」って聞いたら「響写真館」だった。
       そのミヤさんが 井手家の系列なんやろね。          
       玉屋(デパート)の前に森泊丁って佐世保で一番古くて大きな写真館ができて、
       そこも響写真館のお弟子さんが始めたのよ。

 
睦子  傳次郎さんも、最初は佐世保で写真の技術を習ったらしいですよ。
     傳次郎さんと梅子さんは東京で結婚して長男の桃太郎が生まれた頃は青山に住んでいたんだけど、
     関東大震災で東京でやっていた桐タンスの材木調達の仕事がダメになって、一時佐世保に帰ったそうです。
     ちょうどその頃傳次郎の父親の井手乙松さんが莫大な負債を負って破産して、
     傳次郎さんは父親の負債も返済しなければいけないし、何か仕事を探さなければいけない。
     それで写真をやろうって勉強を始めたそうです。
     佐世保で写真を習った先生は誰かわからないんだけどね。
     それから長崎に行って、上野彦馬の弟子の渡瀬さんに習ったらしいです。

                佐世保 海軍鎮守府


森山  佐世保は小さな村だったんですけど、明治22年に海軍の鎮守府ができて、軍港ができたので、
     隣接する佐賀や北九州、関西から一旗あげようって人がどおっと集まったんです。

なるほど。傳次郎の父乙松も海軍相手の食糧商を始めて当たったと言っていた。

森山  佐世保は村から町を通り越して市になったんですよ。
     海軍は割とモダンなので文化人もたくさん集まりました。
     軍楽隊のリーダーには音大出の人が来ましたし、音楽や美術もさかんです。
     九州で有名な音楽家がやるところは、昔は佐世保しかなかったんですよ。

睦子  西田清一おじさんも、戦後はピアノの調律を仕事にしたんですよね。
     戦後3度目の再婚されて生まれた子ども3人も、ヤマハの調律や音楽の方に進んでいる。

森山  西田のおじさんは、ずっと我が家のピアノの調律に来てくれてました。
     昔おじさんからオルガンをもらいました。

雅子夫人 この人ほんとはピアニストになりたかったのよ。
       小児喘息がひどくて 学校も秋はずっと休むし 
       音大に行く体力ないから絵の方に進んだの。 ピアノも上手よ。

―   西田のおじさんが音楽を始めたのは どうしてですか。
睦子 途中からね。まあ響にいた頃から。
―   響写真館に 清一おじさんも一緒にいたの?
睦子 いや、まあちょいちょい遊びに来てたんでしょう。

後日睦子さんに確認すると 清一さんは 兄貴の傳次郎が 写真館を始めたので 手伝いに住み込んでいたが
なんせ 楽しいおじさんだから 子どもたちは わぁわぁなっちゃうし 
そのうち お弟子さんも増えて 身内で暢気にしてるのは 示しがつかないから 
兄貴に追い出される形になったらしい。
  
―  傳次郎が音楽好きだったのは なんの影響ですか。 乙松さんの時代から?
睦子 いえいえ、長崎で仲のいいお友だちがいてね、レコード屋さんだったの。
―   そうなんだ。レコードだけでトラック何往復もあったんでしょ。
雅子夫人 うちにもレコードたくさんある。捨てられんのねぇ。でも全然聞かんたい。
森山 たまに聴くよ〜。いいのがあるから。
―  やっぱりハイカラですね、九州は。
雅子 やっぱり長崎とかは外国の文化が最初に入って来たからねぇ。

                長崎と佐世保

森山 でも長崎と佐世保は、ずいぶん気質が違うんですよ。
―  そうですか。違いますか。どういうふうに?
森山  県北の方はね、倭寇の系統で
根本 松浦ですね。
森山 そうです。 松浦の殿様の 昔は水軍とか言ったけど、
    それから 佐世保は軍港ができてから発達したので、佐賀や福岡、関西各地から人が集まってくる。 
    だから割と、かっこを気にしない。 開放的なんです。 悪く言えば、その場しのぎ。(笑)
―   なるほどねぇ。
森山 長崎は閉鎖的でしょ。天領だったし。
    周りが山で、なかなか出られんようなところを幕府が開港したわけだから。

根本 平戸から長崎に港が移ったのは、どういう理由なんですか。
森山 平戸じゃちょっと狭かったんでしょうね。
    平戸から横瀬の浦ってとこに移ったんですが、そこも狭くて長崎に移ったんです。

睦子 長崎は港が深いからよかったんでしょうね。
森山 そうでしょうね。佐世保は湾が広いから、連合艦隊が全部止められたんですよ。
雅子 佐世保は湾の入り口に 高後崎って岩がこう寄ってて、狭〜い所からしか入って来られんけん、攻めにくいのね。
    出ていくぶんはいいんだけどね。でもあそこから 原子力潜水艦も入ってくるけん、かなり湾は深いのね。
―   エンタープライズですね。 入港反対で 佐世保の名前覚えてます。
     長崎で15才の時に原爆に遭った人の本を読んだら、
     「長崎人はお上には逆らわず、人がよくてお人よし」 みたいに書いてあって
     夏木や自分を思い浮かべると なるほどって納得してたんだけど。
森山 長崎人同士で、ものすごく団結が強いんですよ。
    だからあそこに行って新しい商売なんか、できないんですよ。たちまち行き詰まる。
雅子 閉鎖的ね。キリスト教禁令も関係あると思うよ。外国文化が入ってくるところだから、水際を守ったと思うけど。

森山 長崎と佐世保は離れていますからね。
―   離れてますよねぇ。隣町かと思った。 東京と我孫子くらい離れてる?
根本 もっと離れてる。空港からすぐかと思ったら、80キロくらいありますかね。
森山 高速道路で1時間半かかりますからね。 
雅子 空港からのバスはほんとにのろのろでねぇ。ジャンボタクシーの方が早い。

根本 バスで来る時、左側がずっと海ですよね。あれは?
森山 大村湾です。ネックになってるところに、ちょうど西海橋があるんです。ちょうど
    桜の時期に、大きな渦潮が出るんです。すごいですよ、音がごうごう言って。
根本 18年前に 夏木さんにハウステンボスの後 連れて行ってもらって見ました。
森山 あそこはおいしい魚が獲れるんですよ。
     波が荒いから、筋肉の発達した鯛がとれるんです。

雅子  佐世保は魚はおいしいけど、料理はあまりおいしくない。
   兄が亡くなって元気なかったんだけど このまえ佐々ってとこで 白魚の踊り食いを食べたら 元気になった。

 ―   佐世保は ハンバーガーの発祥地だとか。2時間行列するところもあるとか。
雅子  佐世保バーガーね。 やっぱり米軍基地があるしね。
     ブルースカイとか。食べ切らんよ。大きくて。
森山 ブルースカイもあるけど、アメリカ人相手の もう一つあるだろう。 こうやって裏返して出す。
雅子  やっぱりブルースカイが一番有名かな。
     今来た道の資料館のところが、昔 BOQっていう外人のクラブだったの。
     そこにプールがあって、そこのプールサイドで売ってるハンバーガーがとってもおいしかった。
      今はないけどね。

                   キリシタン


―    森山さんは原爆には遭われてないですか
森山  ちょうど1ヶ月して 9月に 長崎へ行きました。おばさんが被爆したから。
―     じゃあ残留放射能浴びてますね。
森山   少しは浴びてるでしょうね。でも長崎にいた日にちは2、3日だから。
      ミチさんは次の日に行って、ずっとだからね。
睦子   原爆で西田清一おじさんの奥さんの千代さんや子どもたち4人が、亡くなったんですよね。

雅子夫人  はい。その話は、西田のおじさんがある日 うちに来て 悔やんでました。
     
       井手家も森山家も西田家も全部カトリックの信者やったけどね。
       昔は キリシタンは踏み絵をさせられて 信仰を捨てろって迫害を受けたでしょ。
       踏み絵をすれば宗教を捨てたってことで職業をくれるの。
       井手家は踏み絵をして石工の仕事をもらったの。
       あの眼鏡橋の建設にも関わったらしいわよ。
      
崇福寺や浦上教会の下の石垣等も、井手家の先祖が作ったと後で知った。

雅子夫人 井手家は全部転んだけど、森山家の先祖は転ばんやったけん、がんこかね。

転ぶというのは、キリスト教を捨てて転向することである。

雅子夫人 明治4年の最後のキリシタン迫害「浦上四番崩れ」の時も、森山家は踏み絵をしなかったのよ。
       片岡弥吉さんって 純心女子大の先生が書かれた 『長崎のキリシタン』
って本があるけどね。
       森山のおじいさん熊造さん?がまだ12才だった頃で、たくさんの流刑者と一緒に、
       縄で縛られて山口県萩の方まで連れて行かれたらしい。
       その時禁教令が解けて旅(流刑地に流されること)から生きて帰って来らしたから
       今、森山の子孫がおるわけね。

       流されたキリシタンは たくさん罰を受けるから 足に石を乗せられて
       熊造さんは足が悪かったです。

      「 信ちゃん(森山信吾さん)の先祖は転ばんやったけん、原爆では死なんかった。
       井手は全部転んだからバチが当たって。」
        西田のおじさんはそんな話ばしよらって 家族が原爆で亡くなったことを 悔やんでらしたね。 

             
                 佐賀人が多い佐世保


―  奥さんは佐世保生まれですか?
雅子  私は佐賀生まれ。 祖父は伊万里の淀姫神社の神主です。
     父は神社を継がず水先案内人をしていたので
     4才から香港に行って9才までは香港で育った。
     その後佐賀に2年間いて、それから佐世保に来ました。
―    傳次郎の奥さん(つまり私の祖母) 梅子さんも佐賀ですよね

森山  佐世保は佐賀の人が多いんですよ。
 睦子  梅子さんの実家の古賀は上代家老だったらしいですよ。
根本  上代家老って言ったら 参勤交代で 殿様が留守の間 お国を守る 筆頭家老だよ。
雅子 佐賀の人は梅子って多いのよ。
―   へえ なんでだろう。
雅子  なんでだかね。

睦子  もう数年前にチコちゃんがこの仕事を始めてくれたらねぇ 
     桃太郎や夏木も交えて みんなで集まれたのに。
森山 ほんとですね。もっと生きてたのに。
雅子夫人 そうそう。夏木さんとは電話でながーく話してね、いつか上京した時にはお会いしましょう。                       って言ってたのよ。お会いしたかったわぁ。  




この年の夏に、森山一信さんは急逝された。

お元気だったのに 後で知って びっくりした。
送っていただいた 2009年 森山一信展 光あるうちに ある画家のイマージュの 年譜を見たら
命日が 夏木と 同じ 8月17日だった。

話 聞いておいてよかったねぇ。もう先は何があるかわかりませんからね。
と この夜の最初に 雅子夫人が 桃太郎に対して 言われた言葉が 身に沁みる。

美味しい中華料理と 貴重なお話 今さらですが ありがとうございました! 
丘の上からの佐世保港の夜景が忘れがたい。





附記
 公開にあたって ひさしぶりに雅子夫人に電話をしたら
佐賀県多良に井手家が疎開していた話をしたら
佐世保教会の牧師さまが ネットで調べているうちに「わかりました!」と 
千絵さんの ブログ かんからかんのかあんを 全部印刷して持ってきてくださったという。
思わぬところで 読んでいただいている方がいらして びっくりした。
深澤牧師様 ありがとうございます!
              

右側カテゴリィ 長崎8人兄妹物語をクリックすると これまでの記事が 見られます。
公開の新しいものから辿る形式なので
私の弟の ブログに貼ってくれている ↓ 発表順の 目次の方が 見やすいです。
   
宿題   http://harryblog.exblog.jp/13907894/

| 長崎8人兄妹物語 | 22:00 | comments(2) | trackbacks(0) |

長崎舟大工町 大徳寺公園のクスの木 

大晦日 長年の習慣で 見るともなく流している 紅白歌合戦で
美輪明宏の 『ヨイトマケのうた』 に 息をのんだ。

映像と踊りで ハデな演出が多い中 
うたの力だけで 紅白の場を制した。  圧倒的だった。

ツイッターも1万件以上来て 歌別視聴率も 他の出演者が1パーセントなのに 
美輪明宏だけ 45パーセントだったとか 年明けのワイドショーでも 話題になっていた。

そういえば 美輪明宏も話題に上がった長崎の記事 書きかけだったなぁ・・・ 
ヨイトマケに刺激されて 去年の春から フリーズしていた記事をファイルから 出してきた。 

今日は 長崎8人兄妹物語の 長女夏木の誕生日なので
1年前の2月の記事の続き ちと 長いが 2回分を一挙公開。
  

私の祖父 井手傳次郎は 長崎市片淵町で響写真館を構える昭和3年より前、
丸山公園近くの 船大工町に住んでいたという。

井手家八人兄妹 次男 幸蔵さん(90才)の手紙によると    

さて ご質問の 片淵への移住についても おぼろな記憶を辿ると・・・・
有名な思案橋から南方へ、丸山の花街を左にして下り、 
カステラの福砂屋を通る 籠町通りが大徳寺公園で切られたところ、左の山の手に登ると 狭い石畳の道となる。
その突き当たりに 楠神社という小さな土塀に囲まれた構があり、巨大な樟の木が そびえていた。

その向かいに長屋があって、 その一軒に 母と桃太郎、幸蔵とお手伝いさん2人が暮らした。
父は書生さんたちと 写真館に住み込んで、 ほとんど長屋には帰らなかったようだ。

毎夜、樟の木の主、梟の「ホウホウ」という 物悲しい鳴き声が 私の子守唄だった。

ある一夜、台風の雨もりがひどくて、 母やお手伝いさんの テンヤワンヤの姿を アリアリと想い出す。
さてさて、台風被害に参った傳次郎は必死に働き、 片淵町への移住を計画したのでしょう。

             詳しくは ふくろうの子守唄  http://kankarakan.jugem.jp/?eid=1153



「よし、船大工町に行ってみよう!」と 2010年10月 疎開していた佐賀県多良を訪ねた後、
三男 泉おじと 長崎船大工町に 行ってみた。 
泊まった宿が たまたま 新地中華街の入り口(下左のオレンジが中華門)だったので 
地図でみると 歩いて行けそうだ。



堀に沿っていく。 あの小高いあたりかな?
 
船大工町という地名からして 昔はこの堀が もう海だったのかもしれない。
原爆資料館などを 案内してもらった 長崎平和案内人 さるく案内人の 調さんにお聞きすると
やはりこれが昔の 海岸線だったようだ。
新地は 唐人の倉庫が並んでいて 出島のようになっていたらしい。 



梅香崎神社の鳥居をくぐって階段を上ると 大徳寺の大クスの 看板があった!


わ ここがドンピシャ船大工町だ!  
右手の石段を登ったところが 大徳寺のクスの木。
だとすると このバイクが止まっている 三角の空き地が・・・あやしい。

泉おじは 昭和5年生まれ。 井手家が片淵 響写真館に移ってから 生まれたから、
このへんの記憶は まったくない。



これが 小さい桃太郎と 幸蔵が木登りして遊んだというクスの木か。
わぁい、私も木に登ってみる。

 はじめまして〜 私は井手桃太郎や幸蔵の姪っ子です♪
 
  

クスの木の枝で毎晩鳴いてるふくろうの目線で 下を見ると 
白い車が止まっている さきほどの 狭い三角地帯に長屋があったことになる。

若き井手傳次郎と その妻梅子 小さい長男桃太郎と次男幸蔵は
片淵町に 響写真館を構える前 大正の終わりから昭和のはじめ
この駐車場の場所 クスの木の下の 細長い長屋に住んでいたようだ。 
この 写真は その 長屋の前らしい。  桃太郎と 幸蔵の 小さいこと!
昭和元年頃か。


一番右が 母親梅子。 あとの2人は お手伝いさんか? まだ 女性たちは 着物だ。 
左の写真は 長崎駅前だろうか?(写真撮影 井手傳次郎 ガラス乾板)
 

大徳寺の大クスの木の 向こうは 梅香崎神社の 公園になっていた。



たまたま通りかかった男性に 声をかけて 聞いてみた。 
 先ほど くすの木から見下ろした  細長い場所に バイクを止めてた方だ。 


―   この公園の下の細い三角地帯に、昭和のはじめ 私の祖父が住んでいたようなんですが。

男性  この下には最初は会楽園って中華屋が建っていました。
     大徳さんって 旅館もありましたし、風呂屋もありました。
     このへんは変わりました。そのビルなんてなかったから この公園から海が見えたんですよ。

 ―   まあ ここから 長崎湾が見えたんですね! このあたりにお住まいですか?

男性  はい。 私は昭和3年から この公園で 梅ヶ枝餅を焼いている 菊水の3代目です。

―    ええええ!(ビンゴ!)  ちょっと お話聞かせていただいて いいですか?

なんと 昭和のはじめから ここで 名物の 焼き餅屋をやってらっしゃる 菊水のご主人だった。

大徳寺公園は 「寺もないのに大徳寺」と長崎の七不思議として歌われた。
明治元年(1868)の廃仏毀釈で 大徳寺が 廃寺になったため 寺はない。
昔は 大きな藤棚があって 海が見える ちょっとした 観光スポットだったようだ。
焼き餅屋も 3軒あったとか。

かつては長崎港を望む景勝地だった


梅香崎神社。   幕末の志士たちの フルベッキ写真で有名な フルベッキも ここに住んでいたらしい。


菊水主人 この下には いろんな家が建ってましたよ。 通天閣っていうキャバレーもあったんですが、
    それがクリスマスイブの日に火事で焼けてしまったんです。

―   まあ、火事で?

ご主人  トタンの屋根に上ってホースで水をかけてもかけても、シュンシュンシュンシュン言って
     大変だったんですわ。このへんは本石灰町(もとしっくいまち)って言うんですが、
     また火事か また火事かっていうくらい なぜか火事が多かった。 

泉   このへんに フロリダっていうダンスホールありませんでしたか。
    僕は戦後 響写真館のお弟子さんだった 大久保月光さんのところに 写真の見習いに行ってた時、
    フロリダっていうダンスホールに 写真撮影に行ったことがあるような 記憶があります。

ご主人  ああ、フロリダは カステラの福砂屋のまん前です。 
     今はセブンイレブンになっています。     
     昔はこのへんは キャバレーひろとか 新世界とか キャバレーがたくさんありました。

―   にぎやかな歓楽街だったんですね。

ご主人   そうです。この坂を下ると丸山公園と交番があります。そのへんが丸山ですね。
      昔はもう、なんていいますかねぇ  私らは女郎屋(じょろうや)と言いますが・・・遊郭ですね。

      東京方面の遊郭とは出入りの数が違いますけんね。 長崎の遊郭にはかなわんでしょうね。
    東京方面の遊郭は1本すーっと見ておしまいやと思いますが、 長崎の遊郭はあっちを見てこっちを見てです。
     

丸山は 江戸の吉原、京都の島原と並ぶ日本三大遊郭。

菊水主人   美輪明宏のお母さんがやっていたカフェ「世界」も、
     福砂屋の前のセブンイレブンの隣の隣です。 思案橋の方へ ちょっと行ったところですね。
     美輪明宏は小学校の頃は しょっちゅうこの公園で遊んでいたんです。
 
―    へえええ! そうなんですか?

ご主人  美輪明宏の小学校は、この公園から坂を上っていった佐古小学校ですからね。 
     ここは通り道だからどうしても通る。 
     美輪明宏は いつも歌を歌いながら 帰ってましたよ。

―   そうなんだ。 
     
美輪明宏自身が 自伝的エッセイ 『紫の履歴書』の中で この公園のことを 書いている。


 近所のいたづら坊主達と 暴れ廻っていた頃
丸山遊郭の直ぐ裏手の 崖の上に 大楠の木が空にうねり 藤棚と 仲良く小さな 神社があった。

あちこちの 鯉のぼりや 吹き流しを見渡せる 境内の縁側に お春さんが 日なたぼっこをしていた。

 お春さんというのは 不幸な遊女達が より不幸に見える女気狂いだったそうで。   
 いつもはらんで   大きなお腹をしていたので 悪たれどもで ぽっくりを隠したりしていたという。


  序曲には 長崎という町への 格別の想いが書かれている。    
    
     私は九州長崎に生まれ、十五の年までそこで育ちました。
   竹久夢二の 長崎十二景の絵さながらに、港あり、丘あり、山あり、川ありで、
   その中にイスパ二ヤ、ポルトガル、オランダ、オロシヤ、支那、朝鮮、英米国人と、
   さまざまな国の人々を遠い祖先に持つ人々が、その面影を残した容姿や性癖、習慣で
   それぞれが幻のように生活しておりました。

     (中略)

   昭和十年ですから、まだ、世界大戦の前で衣食住も豊かで、
   ロシヤケーキ、支那餅を筆頭に 上海の方から送られてくる、さまざまな品物で町は賑わっていました。

    当時、カフェーや料亭などをやっておりました私の家では、
    島原や天草あたりから出て来た女中や女給にまじって、
    白系ロシヤや混血児の女給達もいました。

      (中略)

      古い町なりに 因習的なくせに、反面、南の国らしくお祭り好きで開放的で、
      情けの深い人なつこい街でした。

      (中略)

 やがて戦は始まりましたが、すべてはあの一条の閃光で終わりを告げました。
 原爆の中を裸足で逃げまどい、地獄絵さながらの、あの光景は、一生私の胸から
 消えることはないでしょう。
    しかし、あの長崎のコバルト色の空や港、中間色の町並みを見下ろす乳色の夕もやに
  包まれた丘の上にある学校の講堂で、遅くまでピアノを弾いてうたっていたあの頃が、
  一番美しい想い出ともなっています。

   もし、それが他の都市であったなら、音楽を伴侶にしている私は、きっとあり得なかっただろうと
思っております。 

                                           美輪明宏 『紫の履歴書』


  
菊水主人  佐古小学校は 昔の小島病院の跡地で、この前150周年のお祭りをしたばかりです。 
    小島病院は オランダ人の医師ポンペが開いた 医学伝習所の後、長崎医大の前身です。

     遊郭の女郎たちは 定期的に 上の小島(こしま)病院に検査に行かなきゃいけなかったんですよ。
     昔は梅毒とか淋病とかね、商売にならんから調べなきゃいけなかった。 
     「今日は 検査ど〜」って 若い娘たちが この公園を通って行きました。 
 
生活のために 貧しい村から 遊郭に働きに出された 若い娘たちが たくさんいたのだろう。
梅毒の検査で 病院に行く前の 束の間の時間
長崎港が見える公園で こっそり あつあつの焼き餅をかじりながら 
娘たちが 検査の不安な気持ちを 紛らわしてる 光景は なんだか 切ない。 

―   原爆の時は・・・・

ご主人   落ちた瞬間は家におったのですが、知らんのですよ。
      爆風はあったと思いますが、一山向こうですからね。 こっちには来ませんでした。
      最初は常盤橋あたりが目標だったそうですから、そこだったら やられていたでしょう。
      この公園の あの階段の下は 全部防空壕だったんですが。 
      爆心から 3キロまでは 被爆手帳の許可も 出なかったんです。

      
ご主人  焼き餅 焼きますか。 
―   わぁ お願いします!

注文を受けてから 餅米の粉を熱湯で練って こねてから あんを包んで 焼くという。

梅ヶ枝餅を焼いてもらう間  丸山公園の方へ 坂を下ってみる。



坂本龍馬の銅像のある 丸山公園。

萄讐伊榲垢ら 入った通りが 観光通り。 ここをまっすぐ行くと 居留地や 港の方に出る。
つまり 波止場についた 外国の水兵が まっすぐ 丸山に来られる 観光通りというわけだ。
この通りにある オビナタという スパゲッティやさんが 中嶋写真館のあったところらしい。
この場所が 傳次郎が 片淵に 響写真館を開く前に やっていたところの可能性が高い。 



裏道は カスバのよう。 長崎は こういう 迷路みたいな 細い坂道が多い。





梅ヶ枝餅が焼けてました。 大きくてびっくり!  あつあつの 美味しいこと!   
大阪の桃太郎睦子の家と 幸蔵さんにも 送りました。 

菊水のご主人 おくさん 町のイメージが浮かぶ 貴重なお話聞かせていただいて ありがとうございました!


悲しい物語も多い 丸山 大徳寺公園 
長屋の雨漏りだけでなく 子どもたちの 教育環境も考えて 傳次郎は 片淵への 転居を 考えたのかもしれないなと 思った。
親の思いとは うらはらに 大徳寺の大きな くすのきで 遊んでいた時が一番楽しかったと 
長男 桃太郎は 言っていたらしいが・・・
                                                 (写真撮影 根本信義)










 
 


   




| 長崎8人兄妹物語 | 00:25 | comments(4) | trackbacks(0) |

ふくろうの子守唄

「全然覚えてませんね〜。 何か思い出したら 書いて送りますよ。」と 言っていた幸蔵おじから、
便箋5枚の 手紙が来た。  相変わらず きっちりした達筆だ。 
私が電話したのが 9月12日だが 手紙は9月15日付。  88才(当時) 迅速だ!(笑)

以下 幸蔵さんの手紙 


 私が大正11年10月9日に佐世保市常盤町の母方の実家で生まれたとは初耳だ。
母から聞いた記憶はない。 聞かなかったのが事実と思うのは、
私の両親は過去の話は一切しなかったからだ。

母の実家は 佐世保でトップの米の卸問屋だった。 20m四方位の中庭を囲んで、
その一部分に理髪店、食料品店、雑貨店などの店子が店を構えた大きな屋敷構えであった。
これは傳次郎の実父の実力に均衡がとれていた。
傳次郎の実父(井手乙松)は、海軍の御用達商人として辣腕を振るっていたが、
共々にこの世は極楽だったのだろう。

しかし禍福はあざなえる縄の如しで、
父方の一族は長崎の原爆で、母方の一族は佐世保軍港を中心とした猛空爆で全滅した。

さて ご質問の 片淵への移住についても おぼろな記憶を辿ると・・・・
有名な思案橋から南方へ、丸山の花街を左にして下り、 
カステラの福砂屋を通る 籠町通りが
大徳寺公園で切られたところ、左の山の手に登ると 狭い石畳の道となる。
その突き当たりに 楠神社という小さな土塀に囲まれた構があり、 
巨大な樟の木が そびえていた。

その向かいに長屋があって、 その一軒に 母と桃太郎、幸蔵とお手伝いさん2人が暮らした。
父は書生さんたちと 写真館に住み込んで、 ほとんど長屋には帰らなかったようだ。

毎夜、樟の木の主、梟の「ホウホウ」という 物悲しい鳴き声が 私の子守唄だった。

ある一夜、台風の雨もりがひどくて、 母やお手伝いさんの テンヤワンヤの姿を アリアリと想い出す。
さてさて、台風被害に参った傳次郎は必死に働き、 片淵町への移住を計画したのでしょう。

その片淵町に移ってからすぐ 夏木は生まれました。
長女の 翠が早逝したこともあり、とにかく大事をとって 夏木の出産を考えたのでしょう。
その日は、 長崎の産婦人科の名医が3人の看護師さんを連れて、
10畳の新築部屋で 大切に 手当されたとのこと。 
一番古いお手伝いさんが 産湯の手伝いをして 私に教えてくれた。

私は妹が生まれたのが嬉しくて嬉しくて、2、3日後 母の許しで 初対面ができた。
母乳の香り高い 夏木のホホをつつきながら 生命力に感激したことを 想い出す。
自分の生命力の自覚もなかった幼児も、 間違いなく母からもらった夏木を眼前に、
それが生命力以外の 何者でもないと直観したのであろう。


アハハ どこが 「全然覚えてない」の〜〜? (笑)
こんなにリアルに覚えてるじゃないか〜、私まで 映像が眼に浮かぶよ 幸蔵おじちゃん! 
ありがとうございます! まんま 使わせて いただきますよ!


手紙は最後に 
これで千絵さんに最高のエピソードを贈ることが出来ました。
めでたしめでたし。
よく想い出したものだ。 80年ぶりの私の脳の健全が自証された。」 

と お茶目に結んである。(ちょうど夏木の誕生日だ。笑) 

そして
それにしても 千絵さんも 心機一転、心の旅路を再開されたようで、
私も活を入れられた気がしました


だって。 幸蔵さんは もちろん インターネットは 見ないが、
私が 去年の震災と 原発人災で 精神的にへばって 中断してたのも バレてたのかな。
恐るべし88歳。 指揮官はどっちだ?(笑)


ともあれ だいぶ ストーリーが見えてきた。 よし 船大工町へ 行ってみよう!
| 長崎8人兄妹物語 | 23:55 | comments(3) | trackbacks(0) |

追求

「井手家は 片淵に移る前に 船大工町で 暮らしていたみたいで、
桃太郎が 大徳寺のクスの木で 幸蔵さんと遊んだ頃が 一番楽しかったって 
言ってたそうなんですよ。 睦子さんに 初めて聞いたんですが、 
幸蔵さん そのクスの木 覚えてらっしゃいますか?」

大阪に住んでいる 8人兄弟次男の幸蔵さんに 電話した。 
長男桃太郎が亡くなったので 井手家の最長老だ。 大正11年生まれ。 今年の秋に90才になる。

  「はあ そうですかぁ。全然覚えてませんなぁ・・・・」

幸蔵さんは いつも はじめは必ず まるで興味ないように 「全然覚えてませんなぁ」 とおっしゃる。

「しかし千絵さんは どこまでも 追求するのですな。 
よっしゃ 何か思い出したら 手紙に書いて送りまっせ。」
 
幸蔵さんは なぜかいつも 追求という 言葉を使う。
 
追跡ならわかるが 追求は なんとなく なじまない。 軍隊用語なんだろうか。

2008年秋に 桃太郎の1周忌で初めてお会いして話を聞いた後、
便箋12枚に 軍隊時代のことを書いて送ってくださった。
その手紙にも 追求の文字がある

日本軍の構成は 天皇の統帥権は、具体的には連隊長に直結して、

天皇 → 連隊長 → 大隊長 → 中隊長 → 小隊長 に与えられて 一貫します。

他部隊の長も、特に前線では 命令することは 出来ません。
もちろん 山中で出会えば、敬礼はせねばならないが、他部隊の長に 命令されることはないのです。
他部隊の 迷子の兵がいたとしても、余裕がなければ 捨てたものです。

小隊は ふつう4個の分隊に分かれるが、内務班として統一されています。
内務班長は、最古参の 下士官がなる。
朝晩の 点呼をして、隊員の数を 点検して、週番士官に報告するのです。 
脱走兵や 事故兵を 把握せねば、戦争はデキナイからです。

連隊長は、天皇から 連隊旗を 手渡されて、
 連隊旗を (天皇の自称)と思え  と しつけられていました。

だから 我々も地球の果てまでも 本隊を追って 追求せねば具体的な軍人とならなかったのデス。
一緒でなくては戦争のしようがないから。

軍隊は、不合理が 本質なので 今さら 悪口を言っても話にならないからヤメます。

                                 (コウゾウその1 http://kankarakan.jugem.jp/?eid=672



追及はやはり軍隊用語で、部隊が本隊に追いつき合流することを言うらしい。 

幸蔵さんは昭和18年12月1日、21才で、学徒出陣で久留米の予備士官学校に入り、
長崎県大村市の陸軍歩兵第47連隊に入隊した。
これは 留守部隊で 本隊は インパール作戦 烈師団。
本隊を追求して 
シンガポールまで追求し そこで 幸いにも終戦になったという。
 
戦後 疎開先の多良で 台風で糸岐川が氾濫した時も
泉 清明 徹生の3兄弟が 父親の大事にしていた 盆栽が流れるのを
「流れろ〜流れろ〜」と喜んで歌っていたのに、
戦地から復員したばかりの 幸蔵さんは 村に救援を求める伝令として 一人糸岐川に飛び込んだ。

「そりゃもう 指揮官の命令には絶対服従ですから」

今では 井手家の 笑い話ひとつ話になっているが、
悪ガキ3傑の アホみたいな がなり声と、 
父親の命令で 川に飛び込んで 濁流に流された 幸蔵さんの対比が ちょっと悲しい。

幸蔵さんは 奥さんの道子さんと 2人暮らし。
足腰が痛い 奥さんの代わりに 買い物など 日常的な仕事も こなしている。

 「そりゃ 指揮官の命令には絶対服従ですから」

と 奥さんの道子さんのことも 指揮官と 冗談めかして言う。

学徒動員時代に洗脳されたことは 80才を越えた今になっても 肌に染みついているのだろうか。
それをジョークのように言うことによって 当時のバカらしさを 冷笑しているのだろうか。  
この兄妹に特有の いや これまで会って話を伺った長崎の人たちに 共通の
一番肝心な悲惨なことを なぜか 茶化して言う 体質のためだろうか。

2008年 睦子さんが 大阪で開催される アルバムエキスポの 新聞の切り抜きを私に送ってきた。
そこに 徹生が送ってくれたアルバムで 滑り込みエントリーしたら、入賞した。 
(けっこう  睦子さんに 仕掛けられてる私。 笑)
 
その時 私が 大阪に日帰りで 見に行くと言ったら
睦子さんが 声をかけて 大阪の幸蔵さん、 奈良の泉さんも 梅田HEPホールに見に来た。

みんなで 会食した後、 東京に戻る新幹線の時間まで 鶴橋にちょっと行ってみたいと 私が言ったら 
生野に住んでる 幸蔵さんが 一緒に環状線に乗って 鶴橋で降りて ついてきてくれた。

「一人で 大丈夫ですよ〜〜」 
86才(当時)のおじさんに 私の 気まぐれな思いつきにつきあってもらうのは 申し訳ない。

「いやいや 指揮官の命令には どこまでも お供しますよ。」 

幸蔵さんはお茶目に笑って、コリアンタウンの迷路を 一緒に歩いた。
幸蔵さんと話すのは、その日が2度目だった。

「幸蔵さんは 非人間症のようになって 僕たち兄妹とも 口をきかなくなったのです。
徹生の アルバムを見にくるなんて こんなことに 出かけてくる人じゃなかったのです。
びっくりしました。 すごいですよ。 
千絵さんのおかげで 僕も初めて 幸蔵さんの 戦地の話を 聞きました。」
梅田の改札口で 待ち合わせた時 弟の泉さんが こっそり 私にささやいた。

徴兵は 家督を継ぐ長男は最初は猶予され、 赤紙はまず次男三男に来た。
だから 井手家も 長男 桃太郎より 次男 幸蔵が先に出征したし
カーネーションでも だんじりの屋根に登る屈強な長男ではなく、へたれの 次男がまず出征した。

学徒出陣が始まるのが 昭和18年。
当時は 今のように多くが大学に行く時代ではないから
日本の未来を担う頭脳集団として それまで保護していたエリートたちまでも 
戦況の泥沼化と 人員確保で いよいよ駆り出さざるを得なくなった。

理工系は 兵器開発などの 頭脳集団として 最後まで猶予し、
まずは 文化系学生が 駆り出されたのだ。

 しかし 入隊した新兵が 軍の規律やすべてを習う 直接の上官は、 
貧しい農村から 口減らしの意味もあって 先に出された次男三男が多く 
裕福で 高等教育を受けていた エリート学徒兵には 本来ひがみもねたみもある。

軍隊の序列しきたりと 「テンノウヘイカ」の名の下に 理不尽な暴力が どれだけあっただろう。
また にわか仕立ての 学徒兵が 古参の兵を 出し抜いて 上官になるケースも多かったという。
ここでも 兵士たちが戦っていたのは 直接見えない鬼畜米英ではなく、
同じ同胞の 共食いだったと言える。

「もう人間が変わりましたから。 
そりゃあ 軍隊に入ったらね、 変わらなくちゃ、やっていけないし。
そりゃ もう 色々・・・ありました。 
そのうちまとめて 書いて、お送りしますよ。それを、好きなように脚色して書いてください。」

桃太郎の一周忌に初めて話を伺った時、 幸蔵さんはこう言った。

19才の学徒兵を 非人間症に陥らせたのは 何か。
幸蔵おじさんに 一番聞きたいことには まだ踏み込めないでいる。


 



 

 

 

| 長崎8人兄妹物語 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |

長崎 船大工町

私の母夏木は 井手家の 初めての女の子ではない。
長女 翠(みどり)は 大正14年4月3日に生まれたが、残念なことに 生後17日で 亡くなったらしい。
出生届けは出てないが、桃太郎のノートには 船大工町17(松永産婦人科?)と書いてある。

ということは 井手傳次郎とその家族は、
昭和3年に 片淵町に移るまで 船大工町に住んでいたのか。 

長男桃太郎の妻 睦子さんは 前回の登記の発見で電話した時 言っていた。

「おいちゃん(桃太郎のことを睦子さんはこう呼ぶ)はね、
響写真館のお弟子さんで 桜馬場で月光スタジオをやってた 大久保月光さんのお葬式の時に 
長崎に帰ったのが ただ一回だけなの。 」

へえ、そうなんだ。  
活水女学院と 附属小学校の同窓会で 夏木は何度か長崎に帰っていたようだが、
井手家の男たちは 帰る家がないから きっかけと踏ん切りがないと 
なかなか長崎には 行きにくいのかもしれない。

「私も一緒に行ったんだけどね。
その時に 井手家が 片淵に移る前に住んでた 船大工町に行ってみたの。」

やはり 船大工町に住んでいたんだ! よしよし 確認取れたぞ。 とはいえ
長崎の土地勘が 私にまったくないので 地名を言われても 風景が浮かばないのが悲しい。

「ほら、2年前に チコちゃんと(私のこと)と根本さんと関谷ミチコさんとコウスケくんと長崎に行った時、
丸山の花月で私の活水同級生の小野さんと お昼食べたでしょう?」

長崎の丸山は、江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊郭といわれた花街で、
花月は 造船業 海軍さん 国際人の社交場にもなり 文人墨客も多く訪れた高級料亭だ。
幕末には 坂本龍馬や勝海舟もよく利用したようで
坂本龍馬の 刀傷のある柱や 龍馬直筆の直訴文も飾ってある 史跡料亭になっている。

花月の 名物芸妓愛八が 長崎に伝わる古い歌を求めて 市井の歴史家 古賀十二郎と 旅をする
なかにし礼の小説 『長崎ぶらぶら節』の舞台でもある。

石段を 登って 曲がると 花月という 大きな提灯が 下がった玄関で
長崎の名物料理 卓袱(しっぽく)料理も食べられる。
卓袱料理を 松花堂弁当風にしたランチを 睦子さんにごちそうになった。

「花月の前のゆるい坂をおりたところが 丸山公園で、カステラの福砂屋の本店があるでしょ。 
その手前の細い路地を 左に入ると 中華街や 活水の方に抜ける 細い道があるのよ。
その途中に 石段があって その上が大徳寺って お寺はもうないんだけど 公園になってるの。」

ふむふむ。 カステラの福砂屋でミチコちゃんが お土産のカステラを送ってたなぁ。 
なんとなく 地理が浮かんできた。 

「その大徳寺跡に 大きなクスの木があってね
おいちゃんは弟の幸蔵さんと 毎日毎日 その木に登って 遊んでたんだって。 

そのクスの木が まだあったのよ〜。 おいちゃんの喜んだこと喜んだこと。
子どもみたいに 木に登って、 写真も何枚も撮ったよ。

そこで 幸蔵さんと遊んだ頃が 一番楽しかったんだって。
片淵の 響写真館に 移ってからは おすまししたお行儀いい坊っちゃんに させられてたからねぇ。」
睦子さんは おかしそうに笑った。
 
へえ そうなんだ。 この話は初めて聞く。

睦子さんは、なぜか重要な情報を 小出しに出してくる。 (笑)
自分でも 忘れているのかもしれないが、
まるで こちらの対応能力の熟成を待って、タイミングを計っているかのようにも 思える。

船大工町。 

いい名前だ。 船を作っていた 海のそばの人々の暮らしが 地名に残っている。
桃太郎が登った クスの木。 行ってみたいな。

兄 桃太郎と木のぼりしたことを 弟の幸蔵さんは 覚えているだろうか。
| 長崎8人兄妹物語 | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |

長崎 片淵町1丁目1番地 

去年の9月6日 思い立って 長崎地方法務局に 電話してみた。

「あのう 長崎市片淵町1丁目1番地に 昔住んでいた者の孫なんですが、
昭和のはじめに 「響写真館」で 登記はないでしょうか。」

「響写真館?ですか。 商号は? 株式会社ですか? 会社名は? 
いつからいつまで建ってたんですか?」

矢継ぎ早に質問される。 そもそも登記なるものが どんなものかも よくわかってないのに、
思いつきで 電話したのは まずかったか・・・・(爆)

「たぶん昭和元年か2年か3年から 昭和20年頃まで・・・・かな? 
それを知りたくて この電話をしてるわけなんですが・・・・・」

「その時代は 登記されてないことが 多いんですよねぇ。 
登記されてないと 記載がないかもしれません。 お待ちください。」

電話口の若い男性は こちらのあやふやな 受け答えに 親切に、 
でも事務的に答えて 調べに行った。

井手家に関する文字資料は 長崎から取り寄せた戸籍謄本と、 
桃太郎が 長男として 墓のことや 親兄弟の所在などをメモしたノートしかない。

響写真館が 片淵町で いつから始まったのか 
たぶん昭和の1年か2年頃だろうと 絞りこまれたが 私の予想のウラを 取りたかった。


「片淵町1丁目1番地・・・・・・ 響写真館の登記はありませんね。」
「え?  そ、そうですか・・・・・」

が があああああん  なんだよ〜 登記しないで商売してたのか? 
いいのか、傳次郎・・・



「井手傳次郎って方の 登記になってます。」

「え? あ それです、それです! 私の祖父です! よかった〜 登記があるんですね!
登記簿の写しを 送ってもらうことは 可能ですか?」

「じゃあ 返信用の封筒と 書式はなんでもいいので依頼書を書いて 
乙号窓口まで 送ってください。」

やった〜! 3つめの 紙資料だ!(笑)

送られてきた 紙を見ると 井手傳次郎が 片淵町1丁目1番地を手に入れたのは 
昭和2年2月1日になっていた。

傳次郎の友人で歌人の 山崎喜九一さんが つけたという 『響』の屋号は まだ なかったのね。  
そこから 傳次郎が自分で写真館の設計図を引いて、建設には1年近くかかったとすると・・・・・

戸籍謄本によると 母 夏木は昭和3年2月11日 片淵町で出生届が出ている。 
ということは昭和2年の年内か 遅くとも昭和3年の1月のうちには 
井手家は 片淵町に引っ越した筈だ。

私の予想が的中。 まさに
夏木の誕生と 響写真館の誕生は 一緒だったのだ!

テンション上がって 大阪の睦子おばちゃんに電話すると 
「そうそう 昭和3年から 響を始めたって 梅子さんが言ってた。 それは確かよ。」だって。

睦子さんは、長男桃太郎が 父傳次郎に先立たれた母梅子を引き取って同居したので
嫁として 一番 義母梅子の問わず語りを聞いている。

なんだぁ わかってたの〜〜  なら早く言ってよ〜(笑)  

片淵町は おくんちで有名な お諏訪さん(諏訪大社)の階段を下りて、
馬町の広い交差点を渡って 西山川沿いに大橋を渡ったところにある。 
今はパブテスト教会になっている。
長崎の概念図を イメージするために、
渡辺浩著 岩波ジュニア新書 『15歳の長崎』 地図を ちょっとお借りしよう。
 


中嶋川の上流には、坂本龍馬や 高杉晋作の写真も撮った 上野彦馬の
日本初の営業写真館 上野撮影局があった。 
(上の図 片淵響写真館の書き込みの線が 川と交差しているあたりに 撮影局跡がある)

若き井手傳次郎は 上野彦馬と同じ 中嶋川の支流西山川の畔に 土地を求めた。 
写真家として立つ 意気込みが 感じられる。

 昭和3年 娘の誕生と期を一にして、
井手傳次郎は 片淵町1丁目1番地に 響写真館を始めた。




お時間ある方は、以前紹介した 5男徹生の片淵周辺地図もご覧ください。
昭和8年生まれの徹生が 10年ほどしか住んでない町を 
60数年ぶりに再現する記憶力には仰天する。 

テツオの仰天記憶力 長崎片淵町周辺  http://kankarakan.jugem.jp/?eid=851


| 長崎8人兄妹物語 | 07:58 | comments(1) | trackbacks(0) |

長崎活水高等女学校 同級生 タミ

11月末 母夏木の 長崎活水高等女学校と専門科(英文科)の同級生 
旧姓 木藤多美さん(鹿児島在住)に 初めて 電話した。

折あるたびに 私の代わりに 同級生から 情報収集してくれている 大阪の睦子おばが
「木藤さんは 学徒動員も夏木と一緒だったし、色々情報が得られるかもよ」と 教えてくれたのだ。

以前インタビューを公開した 同じ活水同級生で 幼稚園から一緒だったピアノ科のタエ子さんの家で
活水同級生が子連れでやっていたクリスマス会で 私も子どもの頃 お会いしたことがある。 
今夜は クリスマスイブなので 84才の同級生たちに 昔話を プレゼントしよう。

「夏木の娘の千絵ですけど・・・・」
「わぁ 千絵ちゃ〜ん、覚えてますよ〜。 マサキさん(タエ子さんの旧姓)の家のクリスマスで 
千絵ちゃんピアノ弾いてたよね〜。 
私は 戦後 東京や鹿児島の3ヶ所で 英語を教えていましてね、 
最後の教え子が 今話題の 東大の原子力工学科の一期生なの。
六大学美術コンクールっていうのが 当時ありましてね、 その教え子と芸術部の仲間たちで 
あなたのお父様の評論を 読んで議論を戦わせたことがあったけど、とてもむずかしい本だったそうよ〜。
千絵ちゃんは 奈良で結婚式したでしょう? 夏木が写真を 送ってくれたのよ〜。
睦子さんから 聞いたわよ〜。 夏木のことを 調べてるんだって?」

こちらが質問を投げる隙もなく 話はあちこちにどんどん進む。(笑)
それでも、ご自分で軌道を核心に修正されて、 話が早い。 

木藤さんは、活水卒業後、久留米師範学校付属中学で英語を1年教えた後、
もっと英語の勉強がしたいと 活水の家政科の先生だったブルナーさんを頼って 昭和22年頃 上京したらしい。
夏木も 大村師範学校で英語を教えた後、タエ子さんの話で 昭和22年の秋頃上京したとわかったので、
ほとんど同じ時期に 上京したことになる。 (これはまったくの偶然で お互いに相談もしないし、知らなかったそうだ) 

「あ ちょっと待って。今 人が来たから 5分後にかけ直します。電話番号教えて。」
「いえいえ 私からかけますから」
「いえ こちらからかけます。番号教えて。」
私がおずおず番号を言うと 「two? 最後はtwoね? 数字だけは、英語で確認した方がいいのよ〜。」
なるほど。 そうかもしれない。
さすが英語の先生らしく すばらしく発音のいい トゥーで 私の電話番号を確認して 電話は切れた。

きっちり5分後に 電話がかかってきた。
「すみません、お客さまだったら またおかけします。」
「いいのいいの、植木屋さんが打ち合わせに来たんだけど、またにしてって帰ってもらったから。」
「え? いいんですか?(笑)」
「いいのいいの。 それより うちは主人が85才で私が84才でしょう。 
お互いに耳が遠いから いつも大声で話してるから 喉がかれちゃって。(笑) 
今 のど飴なめてきたから大丈夫。 ハイ、で、お聞きになりたいことは?」

アハハ さすが篤姫を生んだ薩摩の女性は 圧倒的だ。  以下 多美さんのお話。

活水の中でも だいたい2人組で 仲良しだったのよ。 
マサキさんとイトキが仲良し。私と夏木が仲良し。
睦子さんは 途中で転校してきたからね、ちょっと 後からのお友だちなの。

私と夏木は英文科で 高等女学校から 専門部の英文科まで ずーっと一緒だったのよ。
2人とも 大の読書好き、音楽好き。 趣味が共通だったのね。
それに 我が家は父がロシア語の専門家で、活水の下のもと居留地に住んでたのね。 
周りはイギリス人、デンマーク人に囲まれていたでしょう? 
なんとなく ハイカラというか 外国かぶれのところが 響写真館の 夏木と 生活環境が似てたのよ。

それに 夏木と私は同じピアノの先生に習ってたのよ。
お諏訪さん(諏訪神社)の横の 高見先生ってすごく背の高い先生でね。
170センチくらいあったけど、ほんとに美人で素敵な先生だった。

我が家にも、夏木の家にも 当時としては珍しい電蓄や洋書、文学全集が揃ってたしね。
お互いの家にある本や、図書室にあるものを乱読して、お互いに感想を交換していたの。

夏木はフランス文学がお気に入りだったみたいで、バルザックの 『谷間の百合』とか
『ゴリオ爺さん』 ジイドの『狭き門』 アナトール・フランスなんかを 読んでいたわね。
私はロシアやドイツの本が好きで、ゲーテの 『若きウェルテルの悩み』とか トルストイの 『復活』
ドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』などが好きだった。

あの時代はテレビもないし、街中にある映画館は、女学生は保護者同伴じゃなきゃ入れなかったので
読書が最大の楽しみだったのね。

音楽の趣味も共通しててね。やはりシューベルト、ショパン、べートーヴェンが人気。
夏木は音程のしっかりしたアルトで、シューベルトのリートが一番だったけど、
べートーヴェンの「アデライデ」という歌曲も好きだったわね。
家で歌ってたら、桃太郎兄さんか幸蔵兄さんだかが「アデノイド、ああ、アデノイド」って
からかって歌うのよ〜って 憤慨してたわ。(笑)

夏木はテニス部で 才色兼備っていうのは ああいう人のことを言うのね。
夏木はおませさんで、刺激的なことをたくさん教わったわ。
私も6人姉妹の末っ子で 姉たちから色々教わるから おませさんだったけど。
2人で 秘密のやりとりもしてたのよ。 女学校の2年の時だったかな。

人に知られたら困るから ペンネームにしましょうってことになって。(笑)
夏木は みどりっていう ペンネームにしたわね。

― 碧は 赤ちゃんの時に死んだ 自分の姉の名前ですね。

さっすが千絵ちゃん、よく調べてるわね〜。
そうそう 自分の姉が みどりっていう名前で 生まれてすぐに死んだから
次に生まれてくる子は 夏の木のように 丈夫にたくましく生きるようにって 願いをこめて 
生まれる前から 夏木って名前が決まってたって お話をしてくれたわ。

秘密のやりとりとは言っても、テストの点数とか、本の感想とか、 
それから 夏木が上級生に手紙をもらってそれを先生に届けるかどうか とかね。

活水だけじゃないと思うけど、女子校では自分の気に入った下級生に上級生が手紙を送って、
手紙が下駄箱に入ってたりするのよ。
それをS(sister)になるというんだけど、学校では禁止されてたの。
だから手紙をもらった人は必ず担任に届けなければいけなかったのね。

夏木は才色兼備で ファンも多かったから 困ったと思うわ。
あの時代は、今の学生には想像できないほど、学校からも親からも管理されてたのよ。
まあ、自分たちは、特別不自由とは思っていなかったけどね。

活水はね、校舎の裏門から登下校する組と、表門から南山手方面に登下校する組に 分かれてたのね。
夏木は裏門組で 私は表門組だったから、登下校の時に ワイワイ情報交換することができないのよ。
それで 秘密の手紙をやりとりしてたのね。

表門、裏門の話で思い出したけど、 校舎の前で 両方の登下校組が「おはよう!」と顔を合わせる場所があるのね。
ある日 夏木を見たら、お弁当の入った 小さな袋だけ ブラブラ下げてニコニコしながら 歩いて来るのよ。
「夏木、カバンは?」って 聞いたら キョトンとして 「エッ? アッ!! 忘れてきたみたい!!」
さすがの夏木もあわてて、 小使い室に走りこんで 電話を借りて 家から 女中さんが カバンを届けた
ってことがあったわねぇ。(笑)

夏木はおしゃれだったしね。 母親の梅子さんが、とってもモダンなインテリって感じだったでしょう?
梅子さんは 東京にいたとき、岡本かの子の弟子だった(和歌?)って 夏木が言ってたわ。

― へえ? それは初めて聞きました。 たしかに梅子さんは 死ぬまで和歌を書いてました。

戦中も戦後も、あらゆる物資が不足してたでしょう? 
衣料もほんとに 今からみればみすぼらしい格好だったんだけど、みんな自分なりに工夫してたわね。

ある日夏木が黒いズボンにとてもステキなダーク・ブラウンのビロードのジャケット着てきてね、
わぁそれどうしたの?って聞いたら、夏木がニコリと笑って 「実はこれ、お店のカーテンなの」って。
(サウンドオブミュージックみたい。笑)
野口さんて洋裁やってる方が、作り変えてくれたみたい。
遠足など 自由服でいい日は、 梅子さんが選ぶのか とてもセンスのいい上質の服を着てたわ。

― 多美さんと夏木は、ケンカ仲間だったとか?

いえいえ、夏木さんは ケンカってものをまったくしない人でしたねぇ。
夏木の激しい言葉はみたことない。 宮沢賢治じゃないけど いつも静かに笑っている。 
ケンカ売ってるのは、こっちでね、それでもまったく乗ってこないの。(笑) 
性格的に トラブルを好まないのね。
 
そもそも 夏木の走ってるところを 見たことないわ。
遅刻しようが何しようが、決して走らないの。悠々然と 全然悪びれず。(笑) 
みんな待ってて いい加減イライラしてるのに 
「みなさん  こんにちわ〜」って笑って言われると 怒れないのよぉ。

― 多美さんと夏木は 学徒動員も一緒だったとか?

三菱兵器の大橋工場に 通っていました。 
中は広ーくて 建物がたくさんあってね、(20棟くらい) みんなバラバラでしたね。
夏木は ゼンソクがあって からだが弱かったから 事務方に回されたんじゃないかしら。

大橋工場の工場長が 全員を集めて 発会式で訓示したのを 覚えています。
他の学校の人も 学徒動員兵が 大勢いたんですよ。 それを ズラ〜っと並べて

「今から みなさんは お国のために 働きますよ。 
 物資がなければ 精神力で補わなければならない。必ず精神力で補えます。」って 
工場長が話したのだけは よく覚えているわ。 洗脳が始まったのね。

でも 何しろ物資のない頃でしょう。 残業の時とか 夕食に 大豆の入った雑穀なんだけど お弁当が出たのね。
私はそれが楽しみで・・・(笑)  だから学徒動員は けっこう楽しかったわね。

大橋工場には 旧制七高(今の鹿児島大学文理学部)の人も 学徒動員で来ててね。
「デカンショ〜 デカンショ〜で 半年くらし〜」 って歌知ってる? (デカルト カント ショーペンハウエル) 
旧制中学って 帝国大学に入る前の 大事な教養の時期なのよね。
そのバンカラな男子が何人か来てて、 女生徒と あちこちロマンスもあったのよ〜。

大きな鉄板の机の上で 七高の男子学生2名と活水の女学生2名が向かい合って
小さな部品に 黙々と コンマ何ミリって 印をつけていくの。
七高生は 大きな図面を拡げていた。
私の工場は 飛行機の部品 って言ってたわね。 非常に小さな部品を作ってた。
でも 本当のことは 私たちには 知らされなかったと思うわ。
私は 途中から トンネル工場の方に回されたんだけどね。

夏木が言ってたんだけど 七高の男子学生の中に すごい右翼で ひげの濃い人がいてね、
昼休みになると 広場に円陣を組んで 皇居の方に向いて 頭を地べたに 押し当てて 東方遙拝をするんだって。
平野国臣の 「わが胸の 燃ゆる想いに くらぶれば けむりはうすし 桜島山」って 和歌を詠んだりしてね。
夏木さんも 日本女子大の女の人に誘われて その東方遙拝にむりやり参加させられたりして
「困るのよ〜」って 言ってたわ。

― 夏木は 父親傳次郎が こんなバカな戦争は負けると言って 佐賀に疎開したのに 一人長崎に残ったし
やはり軍国少女だったのだろうかって 思ったんですが。

まあ あの時代はね。 でも夏木は 何に対しても 過激じゃないというか
今考えると こうだ!って 色分けしない人だったわね。 

―  多美さんは 原爆の時は?

うちは 父が外務省で もと居留地の 南山手32番地に住んでいたんですけどね、
うちが 要塞司令部になるかもしれないっていうんで 家族は島原に疎開したんです。
(後で聞いたところでは、結局我が家は 三菱が買ったらしいわ。)

でも 私の姉の ちえ子が 活水の音楽の先生になってたんですね。
で結婚して 南山手16番地の 沢山さんって財閥のお宅が持っている貸し家に住んだので、
妹の私も そこに住まわせてもらって 学徒動員に通っていたの。

ところが たまたま 膝に水がたまって 関節炎になってしまってね
福井整形外科に行って 10日間の休養って 診断書を書いてもらって 島原に帰ってたの。

―  え? じゃあ 原爆に遭わずにすんだんですね! 夏木と同じだ。

そうなのよ。 たまたまね。 島原にいても 赤いような 不気味な色の雲が 見えたんですよ。
空中爆雷とか 新型爆弾とか いろんなウワサが飛んでね。

10日ぐらいしてから 隣が警察署長さんだったので、警察の車で 私たち家族3人を乗せてくれて 
長崎まで 行ったのです。 南山手にいる 姉が心配でした。

浦上の方から 長崎へ入ると もう 目も覆わんばかり。 見るも無惨な惨状でした。
大八車で 死体を運んでいる人がたくさんいました。

長崎駅付近で 車が朝鮮の方たちにとり囲まれて 「チョーセンチョーセンパカニスルナ パカニスルトコロスゾ」って 
車の窓を バンバン叩かれたのが とても怖かった。
警官が 窓を開けないでくださいって さあ〜っと車を動かして その場を逃れ 南山手に辿りつきました。

― 桃太郎の話でも、長崎には炭鉱で働く 朝鮮の人たちがたくさんいて、
毎日 落盤事故で 何十人死んだとか言ってました。 

そしたら なんと姉は 脱出して 私たちとは入れ違いに 島原に帰っていたのです。

― よかったですね〜

三菱にいた親戚は、急性白血病になって 1ヶ月後に死にました。
活水でも 先生や生徒が70人以上死亡しています。全身にガラスの破片がつきささった友だちもいます。

夏木が どこに住んでたかっていうのはね睦子さんにも 聞かれたけれど 私も知らないのよ。
西山の 野口さんっていう お店か何かやってた家に 寄宿してたんじゃないかって 睦子さんは言ってたけど。
あの当時は みんなが バタバタだったから 当時の話を聞くのは 大変だと思うわ。 

戦後 2人で一緒に 佐賀に旅行にも 行ったのよ〜。
井手家は 佐賀に疎開していたでしょう?
夏木さんが 「佐賀の人たちはね おもしろい言葉を使うのよ〜」って 膝を乗り出して
「ところで・・・」と言う時 「さらばのまい」って 言うのよ〜って (笑) もう みんなで 大笑い。
by the way ですね。 「さらばのまい」 って もう いっとき 私たちの間で 流行りましたね〜
「さらばのまい」  (笑) 

結婚してからは お互いに 子育てに忙しくて だんだん 疎遠になったけど
私の息子が 中学生の時 夏木さんは 遠山啓先生の 『ひと』 っていう雑誌の 
母親編集委員に なってたでしょう?

英語教育の特集があって 私も 英語教育と母親の立場から 現場の意見を発言してくれって
夏木に頼まれて 座談会に出たことがあるのよ。
夏木さんは 座談会の司会で 遠山啓さんとか板倉聖宣さんとか 有名な先生方がたくさんいる中で、
平凡な一母親である私が自由に発言できるように 雰囲気を作ってくれて 実に冷静な司会だった。
おかげで 私も堂々と先生方に反論したりして(笑) とても楽しかったわぁ。

それから 私は 鹿児島に移ったので なかなか会えなくなってしまったけどね。

夏木の話は くめども尽きないわねぇ。 思い出すと きりないわ。
夏木がいなかったら 私の青春時代は 生彩のない平凡なものだったわね。 これ おせじじゃなくて ほんとよ。
千絵さんの、お話ぶりや声の雰囲気も 夏木とそっくりねぇ。 なんか夏木と話をしてるような気になるわ。
とてもとてもなつかしいわぁ。





電話でお聞きしたことを 鹿児島に送って 赤ペンで修正していただき、
さらに便せん7枚!に 補足で書いていただいたものを 構成しました。
多美さんは、80才までは 毎年アメリカやヨーロッパを旅行されるほどお元気だったそうです。
81才で病気されてからは、弱ってしまってと書いておられましたが、
どうしてどうして 電話だと とてもお元気。 圧倒されっぱなしでした。
どうぞ お元気で。 また 愉快な話を 聞かせてください。    メリー・クリスマス!





| 長崎8人兄妹物語 | 10:12 | comments(0) | trackbacks(0) |

旧制鹿島中学 沈殿組3羽ガラス

だいぶ間があいてしまいましたが、
9月末に 長崎八人兄妹物語 取材のために 初めて 訪れた 佐賀県太良の 続きです。

泉おじさんの 同級生 60年ぶりに 再会した 旧制鹿島中学 沈殿組 坂下さん 若芝さん 井手泉

下の写真は 泉おじが持って来た 沈殿組の写真。
下段 中央が 担任の 岩永先生。 若いイケメン先生ですね!
落ちこぼれのクラスで みんな勉強しないから カンナかけをさせて 本棚を作らせたり ユニークな授業をされて
学校嫌いの泉も 先生の家に遊びに行くほど好きだったらしい。

下段 右から2番目が泉 その左が弟の 清明。
泉は 留年したので 弟と一緒のクラスになったけど お互いに 兄弟ではないふりをしてたとか。(笑)
2段目 左から3番目が 坂下さん。

この写真は 泉が足を組んでたら 「おう みんな足組め〜」って 先生が言ったとか。(笑)
みんな はだし だし。 さすが 沈殿組。




坂下 おまえ、覚えとるか。学校行って、校門入らんとばい!
泉 うん。
坂下 それでそのまま、俺と一緒に帰ったばい。
津埼 そういうことって、なんか大きくなってから、年取ってからの話題になるよねぇ、いい悪いは別として。
―  アハハ  いい悪いは別としてって。(笑)
坂下 話題になるよ。 そいで、もう帰ろうって。 道草くってあっち寄ったりこっち寄ったり。
     学校の帰りに あそこのみかん、ごっそり取ってもって帰ったやろ。
若芝 みかんて、においがぷ〜んとするんだよね。
―  アハハハ  バレちゃうじゃないですか。(笑)

泉  あれは登校拒否のハシリやなぁ。
―  いやぁ、登校拒否はそんな積極的じゃないですよ。(笑)
    今はみんな家に一人引きこもってるから。 そんな仲間がいたら楽しいよね。
泉  楽しかったねぇ。
―  でも 鹿島中学は厳しかったんでしょう?
泉  厳しかったよ〜。葉隠れの 佐賀鍋島藩やから。


津埼 鹿島中学は隣に女学校があるんですが、女学校の門の前を通ってはいけないので
    ぐる〜と回らなければいけなかったんです。
―  へええ? 門の前を通ってもダメなの?
津埼 はい、その当時はね。 
―  夏木と話したことありますか?
津埼 うちらは 女学校の前を通るのも恥ずかしいから。 話したことないです。
坂下 そうそう。


泉  おれらはそ〜とう悪かった。
坂下 悪かった。多良の3羽ガラスって言われたばい。
―   アハハ 丸刈りなのに 髪を長く伸ばしてるから はさみ持って先生に追いかけられたとか。
泉  いや、無精ひげを伸ばしてたからねぇ、ひげを切れって追いかけられたんです。


若芝 ぼくたちは昭和25年卒業だからね。 ぼくはチフスで1年留年したんです。
泉   そうでしたか。
―  泉さんだけじゃなかったんだね、落第したのは。 卒業はしたんですか?みなさん。(笑)
坂下 卒業はした。
泉  あれ? おれは 卒業したのかなぁ・・・・(自信なさそう)
若芝 勉強もしないし、頭も悪かった。
泉   若芝はよく勉強しとったよ。 おれは教科書買わんかったもんね。
(泉さんは 教科書代で 馬糞紙を買って絵を描いてたって前に言ってた。)

坂下 金がなかったばいね。
泉   でも坂下もよう勉強しとったよ。
坂下 学校の勉強はしないで、他の勉強しとったよ。 
    (坂下さんは 戦後 英語の勉強がしたくて 進駐軍で働き 今はNHKの講座で 6ヶ国語しゃべれるとか)
坂下  おいは 毎年 海外旅行行っとるけんね。 「トイレどこですか」さえ 言えれば どこでも行ける。
―   アハハ
坂下  今度 一緒に 韓国行きましょう。 うちに泊まれば すぐよ。 若い男紹介するよ。
―   アイゴー! 行きたい〜! カッチカジャ!(笑)

坂下 試験の時に なんか気に入らなかったらなね、「おう、白紙出すぞ〜」って言って白紙出す。
―  白紙? 白紙同盟みたい(笑)
坂下 学校行っても 代返(代わりに出席の返事)してもらう。
泉   若芝は よう寝とったなぁ。
坂下 おう、よう寝とった。
若芝 眠いから寝とる。 休み時間になったら、先生が、「もう 休み時間だから起きんさい」っておこしてくれた。
―   キャハハ 先生も太っ腹だ。
―  昔は厳しいけれども、おおらかなんですよねぇ。今は厳しくないんだけれども、きつい。

泉    おれが覚えているのは、おまえは学校の机を改造して、なんかやっとったやろ。 あれ、何やっとったか?
坂下 おお そうそう。
泉   学校の机をですよ。ちょうつがいか何かつけて。もう怒られて、先生に これ誰の机だって。
坂下 そうそう。(思い出す)そいで、ほら、冬休みになってストーブ使うようになったら寒いから・・・
泉  そうそう。倉庫から机を出してきて、足でば〜んと蹴って割って、
坂下 そうそう。教卓の下にな。 そしたら先生が来て、感心して、
       「ほお、この教室はいつ来てもぬくいなぁって。」  机をストーブで燃しとったのよ。
―  えええええええ! ひどい(爆笑)

泉  もう、悪かった!(吐き捨てるように)
坂下 う〜ん、悪かった。
―  どうするの? 机ない人は。
坂下 そりゃ困るわけよ。だから倉庫から どんどん机持ってきよった。
―  キャハハ 悪いなぁ〜(爆笑)  

若芝  まあまあ 話はつきないが・・・・私は毎日津崎さんに お茶のみに来るから。(笑)
津埼  やかましかけんが。 (笑)
坂下  うちに泊めたかったけんが、宿決めとるっていうからね。 今度来たら うちに泊まりなさい。
     あんたよか人ねぇ。 なつかしか〜 気がする。 明日の朝 うちの栗を 宿に届けるけん。
―   わあ 栗大好き! 欲しい欲しい! ありがとうございます!
若芝  初めて会ったんだけど、初めて会った気がしないなぁ。
津崎奥様 ほんとに 初めて会った気がしないわぁ。 
―   夏木の娘だからですよ。 傳次郎の孫だし。(笑) 今日はほんとに嬉しかったです。
    傳次郎の写真とか こんなに大事にしてもらって。 
奥様 うちの人、井手先生が大好きですもん。
―   佐賀に 親戚が 増えた気がする。(笑)

泉少年が 毎朝敬礼していたという 有明海の 朝日。  私も思わず 拝みました。 (露天風呂から)
タラ・・・・・ ほんとに来てよかった・・・・・・

111001_0636~01_0001.jpg







| 長崎8人兄妹物語 | 08:52 | comments(4) | trackbacks(2) |

08
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--
Profile
New entries
Archives
Categories
Recent comment
Recent trackback
2007年3月からのアクセス
無料WEBツール広告
長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語
古谷田奈月 『ジュンのための6つの小曲』

鈴木道子
Sweet & Bitter
Mobile
qrcode
Links
Others
無料ブログ作成サービス JUGEM